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2019.11.30

ジャコメッティを起点に美術史をとらえなおす。小田原のどか評「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅱ」

大阪の国立国際美術館が2018年に新収蔵したアルベルト・ジャコメッティのブロンズ彫刻《ヤナイハラⅠ》。この収蔵を記念し、同作を起点に国立国際美術館のコレクション約40点で構成された展覧会「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅱ」が、12月8日まで開催されている。この展覧会がたんなるコレクション展ではない理由とは何か? 彫刻家・彫刻史家の小田原のどかが読み解く。

文=小田原のどか

「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅱ」展示風景 撮影=福永一夫
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美術史という「語り」を再考する

 アルベルト・ジャコメッティのブロンズ彫刻《ヤナイハラⅠ》(1960−61)の新規収蔵をきっかけに開催された本展は、《ヤナイハラⅠ》から「協働」「ポートレイト」「歴史の検証」という鍵概念を引き出し、同館の収蔵作品を活用したコレクション特集展示である。9の展示室からなるが、その展示構成の中心は《ヤナイハラⅠ》とともに、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《フローラ》(2017)によって担われている。

テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー フローラ 2017 国立国際美術館蔵 第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 スイス館での展示風景、2017 Courtesy the Artists, Tanya Bonakdar Gallery, New York / Los Angeles and Lora Reynolds Gallery, Austin Photo Credit: Ugo Carmeni

 《フローラ》は1930年代のジャコメッティの恋人であった彫刻家フローラ・メイヨに光を当てる映像作品だ。これまで既存の美術史では「彫刻家・ジャコメッティの恋人」としての言及にとどまり、個人としては長らく光が当たることのなかったフローラの芸術家としての苦悩や、等身大の人生に迫る。

 アメリカの批評家、ジェイムズ・ロードによるジャコメッティについての長大な伝記のなかで、フローラ・メイヨという彫刻家の生涯についての記述はごく限られている。それはこのようなものだ。

フローラは物欲しげな視線を恋人(ジャコメッティ)に向けている 彼女は魅力的だが美人ではなく、顔つきに弱さが見える そこにはすでに明白な予兆が見て取れる 彼女の人生はやがて運命に打ち砕かれるのだ   貧乏で年老いた彼女(フローラ)に彼(ジャコメッティ)がいま提示できるのは 自分が人生の成功者であることの証のみだった これ以降 ふたりが再開することはなかった フローラはほどなくしてカリフォルニアに戻り 痴呆症になって 孤独に人生を終えた(*1)

 《フローラ》のなかでフローラ・メイヨの息子、ダドリー・メイヨはこのようなロードの記述に対して、彼女の不屈の精神にまったく目を向けていないと、静かに、けれども強い怒りを湛えた口調で異議を申し立てる。とはいえ本作は、たんなるスキャンダリズムに終始するものではない。「痴呆症になって 孤独に人生を終えた」という一行で済まされてきた彼女の生涯に光を当てることで、これまで支配的であった美術史言説や歴史記述に対しジェンダーの視点からの再考を促し、ひいては美術史という「語り」の脆弱性をも鋭くあぶり出す。

 本展では、このような美術史という記述の再検証を促す作品が効果的に配されている。例えば、アラヤー・ラートチャムルーンスック《ミレーの《落穂広い》とタイの農民たち》(2008)だ。タイの農民の女性たちが西洋の名画を観賞しながら思い思いに自分たちの生活と引きつけて語りあう様子を収めた映像作品は、美術史なる制度がどのような文化的背景から成立しているのかを批評的にとらえつつ、日々を生きることと作品鑑賞を齟齬なく架橋するような「語り」が提示されている。

「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅱ」展示風景。右壁中央が《ヤナイハラⅠ》 撮影=福永一夫

 ところで、収蔵された《ヤナイハラⅠ》は、「実物を写しての仕事を放棄して、記憶によって同じ裸婦像を作り始め、そして作り直し、(…)小さくなって消えるところまでいってしまう」という1940年代のジャコメッティがパリに戻り、モデルによる彫刻制作に再び取りかかるも、「薄くなり、引き延ばされていって、もはや消えることはなくなる。だが(…)完成させることができない」という事態に直面した時期の作品だ(*2)。哲学者・矢内原伊作は5年にわたりモデルを務めたが、ブロンズ彫刻として完成に至ったのは2作のみだった。

アルベルト・ジャコメッティ ヤナイハラ I 1960-61 ブロンズ 43.2x29.2x12.7cm 国立国際美術館蔵 撮影=福永一夫

 そのような協働のなかで完成に至った《ヤナイハラⅠ》と、フローラ・メイヨがジャコメッティをモデルにしてつくりあげたものの失われてしまった彫刻をテリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーが再制作した《胸像》(2017)が、同館にともに収蔵され、同時に展示されることの意義はじつに大きい。

 そして《ヤナイハラⅠ》に見られる国籍を超えた協働に連なる作品として、加藤翼の《言葉が通じない》(2014)を特筆したい。加藤と韓国人男性の協働の様子を記録した映像と1枚の写真からなる本作は、同展を訪れた人が、一番はじめか、あるいは一番最後に目にすることになる。その意味で本作は、来場者に同展における鑑賞体験を大きく印象をづけていた。

加藤翼《言葉が通じない》(2014)よりビデオスチル 国立国際美術館蔵 撮影=坂倉圭一

 加藤の作品はこれまで、多数の人々の協力を得て成立する共同作業によって「社会」とはどのようなものかと問うてきた。本作は、日本語と韓国語で話すふたりの人物が言語では共通理解には至らないまま、それでも「いいかんじ」に目的を完遂する様子をユーモラスに切り取る。ここには、大きな目的の下にひとつになること、そして「包摂」とは異なる「ともにある」在り方が示されている。

 加藤は「あいちトリエンナーレ2019」の招聘作家のひとりであり、「表現の不自由展・その後」の中止に際して毒山凡太朗とともに名古屋市内にアーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」を立ち上げた作家でもある。本作は、このサナトリウムでも展示が行われていた。トリエンナーレ閉幕の10月14日まで、名古屋と大阪の2会場に本作が展示されていたことの重要性は記録されるべきだ。

 本展におけるこのような展示構成は、今回のあいちトリエンナーレが可視化した困難な状況についての、同館からの「励まし」に見える。20世紀の偉大な彫刻家・ジャコメッティ彫刻の新規収蔵をきっかけに、美術史という語りへの再考を促すだけではなく、ある彫刻作品をめぐっていままさに起こっている日韓の分断への応答をも示すという意味で、いま見るべき展覧会である。コレクション活用の真価が遺憾なく発揮されていたといえるだろう。

「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅱ」展示風景 撮影=福永一夫

*1──James Lord, Giacometti: A Biography, Farrar, Straus and Giroux, 1997. 日本語訳は《フローラ》の字幕に準じた
*2──アルベルト・ジャコメッティ『ジャコメッティ エクリ』矢内原伊作、宇佐見英治、吉田加南子訳、みすず書房、1994年