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「再評価」より前に考えたいこと。原田裕規評「80年代の美術4─前本彰子展」

1980年代に「超少女」のひとりとして注目を集めた前本彰子の個展が銀座のコバヤシ画廊で行われた。2018〜19年にかけ、日本の美術館では「1980年代の美術」をテーマとした展覧会が多数開催されたが、そこに登場することがなかった前本の作品。80年代をめぐる美術界の動きと前本の作品はいま、どのように見ることができるのか? 美術家の原田裕規が読み解く。

文=原田裕規

会場風景より、《大紅蓮》 ミクストメディア 230×650×73cm 画像提供=コバヤシ画廊

「運動」から表現へ──超少女がいた時代

 2018年から2019年にかけて、1980年代の日本の現代美術をめぐる企画がひっきりなしに行われた。「起点としての80年代」展(金沢21世紀美術館ほか)、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」展(国立国際美術館)、「バブルラップ」展(熊本市現代美術館)、「パレルゴン 1980年代と90年代の日本の美術」展(ブラム&ポー)などがそうだ。雑誌『美術手帖』で、「80年代★日本のアート」特集(2019年6月号)が組まれたことも記憶に新しい。

 そうした一連の動きを受けて、椹木野衣は展評「泡と砂のなかの80年代」で以下のように評している(*1)。いわく、一連の「80年代展」は、80年代をめぐる新たな歴史的視座を提供するものというよりは、すでによく知られた作家たち(川俣正、中原浩大、中村一美、日比野克彦、森村泰昌など)をあらためて「80年代」という枠組みに束ね直すような試みであり、各展覧会における参加作家の「重複」にこそ、その特徴を見出すことができる、と。

 ゆえに、一連の「80年代展」は大きな欠落も孕むことになる。当時、旺盛な活動を展開していたにもかかわらず、いずれの企画でも取り上げられることのなかった作家が続出したのだ。椹木はそのひとりとして、前本彰子の名を挙げている。じつをいうと筆者も、別の機会に複数回、前本の欠落を嘆く声を耳にしたことがあった。おそらくそんな声に後押しされて、また一連の「80年代展」に対抗するかのように、コバヤシ画廊で「80年代の美術4─前本彰子展」が開催されることとなった。

 タイトルにも明らかなとおり、本展には前本の「歴史化」を目指さんとする欲望が包み隠さずにあらわされている。となれば当然、このレビューにもそれをサポートする援護射撃としての役割が期待されているのだろう。しかし筆者は、そうした歴史化をめぐるヘゲモニー闘争から別の戦場へと、これより少しずつ、その視点をズームアウトしていきたい。この長い前置きがそのスタート地点である。

会場風景より、《重陽節》(1992) ミクストメディア 44.5×69.4×18.0cm 画像提供=コバヤシ画廊

 まずその視界に収めたいのは、80年代の歴史化をめぐる闘争よりもさらに大きな戦場、より具体的にいえば、あいちトリエンナーレ2019があらわにした一連の状況である。

 現代美術は本来、社会で生じるさまざまな事象に対して、俯瞰(ズームアウト)した視点を提供する「メタジャンル」だった。現代美術のメディウムが「なんでもあり」と言われるのはそのためで、絵画であれ、写真であれ、言葉であれ、それが表現の手段として選択された時点で、そこにはなんらかの意味が生じる。そしてその意味を読み解く作業こそが、アートを読解する基本的な態度であるとされてきた。

 しかし現代の現代美術は、こうした「メタな視点」を少しずつ手放しつつあるように思われる。その背景には、社会全般の変化があることは言うまでもない。日々SNSでは炎上が生じ、短文で拡散可能なベタなメッセージがユーザーの欲望を掻き立てるなか、もしも現代美術(Contemporary Art)が時代の鏡のような存在なのだとするならば、アートもまたベタに転回しても仕方がないことなのだろうか?

 近年の現代美術には、その内部の有限な(そして乏しい)資源をかけて、業界内の闘争を激化させている側面がある(「80年代の歴史化」もそのひとつだろう)。このような闘争は、一連の「80年代展」のようなレトロスペクティブな現場から、国際展規模での政治的な闘争の場、さらには美術大学の学内政治に至るまで、日々さまざまなレイヤーで発生している。それに対して、あらためて現代の視点から振り返ってみるならば、80年代とはそうした「闘争」から最も隔たれた時代のひとつだったことがわかる。

 80年代、とりわけその前半の機運を可能にしたのは、70年代の「運動」だった。アートの世界では、もの派やポストもの派が台頭し、後半には宇佐美圭司が「失画症」と呼んだ閉塞感が蔓延した。社会全体では、学生運動の盛り上がりと、あさま山荘事件に象徴される運動の終焉がインパクトをもたらした。こうした時代から「脱却」すること、それは、戦後民主主義体制を受け入れることにほかならない。目の前の現実から目を背け、消費空間を戯れる諦めに近い感覚。それを獲得するために必要とされたのが、どこまでもあっけらかんとして、夢のように明るい空間だった。

 当時一世を風靡した永井博は、そうした風景描写を得意とするイラストレーターである。永井の描く青空の風景は、過剰なまでに澄み渡り、書き割りのようにのっぺりして奥行きを欠いている。こうした傾向は永井のみならず、同時代にヒットしたイラストレーターの鈴木英人やわたせせいぞうなどにも見て取れるだろう。

 彼らが描き出した空間、消費を戯れるような感覚は、運動の挫折、闘争の諦め、敗戦の忘却がその背景にあるという点で、「正しさ」を求める視点からは批判されて然るべきものだ。しかしむしろ現代美術は、そうした「誤り」も含めて受け入れることにジャンルとしての優位性がある。ときに現代美術には、法的・倫理的な「誤り」を犯していると批判される局面──そして、その批判が永遠に平行線を辿ること──がある。突き詰めるならば、ある社会的な規範を越境してもなお、世界には守られるべき別の規範があると「信じること」ができるか否かが、切迫した状況下でアートを肯定するか/否定するかを分かつ踏み絵になっているように(最近ではとくに)思わされることが多い。

会場風景より、《BLOODY BRIDE II》(1984) ミクストメディア 228×228×45cm 画像提供=コバヤシ画廊

 おそらく前本は、どこまでもその「信じること」の域内、つまりは「信仰」の領域で制作していた(いる)。前本の仕事をベタな闘争の場に置き換えてみたとき、どこか座りの悪い感覚を覚えるのは、たとえば「歴史化」をめぐる言説が「闘争の原理」で駆動しているからである。それに対して前本は、ある時期以降、「超少女」という言葉とともに語られるようになった。この言葉は、もともとは画家・作家の宮迫千鶴が文芸批評の鍵概念として提唱した言葉だったが、1986年の『美術手帖』の「美術の超少女たち」特集をきっかけに、美術文脈でも広く用いられるようになった言葉だ。美術の文脈における語の使用についてはさておき、宮迫が提唱した時点での「超少女」という言葉の背景には、80年代のフェミニズム的動向が大きな影響を及ぼしている。それは「少女」とは言っても、90年代のガーリーフォト的なセクシズムをいざなうものではなく、むしろそうした消費を批判する概念だったのだ。前本の仕事の歴史化しがたさは、彼女が紛れもない(宮迫の提唱した意味での)「超少女」だったからかもしれない。

 さて、ここからはより端的に書きたいことを書いていくことにしよう。それは、前本を評価することの難しさでも、その行為自体が制度批判に近づくという話でもない。その難しさに葛藤することなく、彼女の生産する奔放なイメージが当たり前に受け止められていた空間は、それ自体が豊かな場所だったのではないかということだ。

 現実から一歩引いたところで、挫折し、諦め、表象と戯れながら、それでもなお、どこかですべてを忘れ去るわけでもない場所。70年代の閉塞感から離れようとしながらも、どこかでまだ「運動」の余韻が残響している時代。「正しさ」にまつわる議論から付かず離れず、イマジネーションを飛躍「させてもよい」と思える空間が、社会のなかでどれほど貴重なものであるのか、最近ではより強く実感している。であるならば、いまでもその空間を開くことは可能だろうか? もし可能なのだとするならば、それはどのようにして開かれるのか? いますべきことは、前本の作品を正しく「評価」することではない。それ以上に、前本の作品が当たり前に存在していた空間、その余地を社会のなかであらためて見出すことのように思われる。​

会場風景より、《Japanese dinner》(1987) ミクストメディア 70×50×50cm 画像提供=コバヤシ画廊

*1──椹木野衣「月評第122回 泡と砂のなかの80年代」『美術手帖』2019年4月号「REVIEWS」より(https://bijutsutecho.com/magazine/review/19465

編集部

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