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REVIEW - 2019.8.31

芸術と不動産と展覧会。きりとりめでる評「齋藤恵汰&堀崎剛志『構造と表面』〜ラテックスと不動産」

都市空間におけるランドアート作品として《渋家》を展開する齋藤恵汰と、コミュニティの中で生まれるアートを地域住民とともにプロジェクトとして実践してきた堀崎剛志による二人展「齋藤恵汰&堀崎剛志『構造と表面』〜ラテックスと不動産」が、東京の駒込倉庫で行われた。本展を批評家のきりとりめでるがレビューする。

文=きりとりめでる

会場風景より、堀崎剛志の作品

作品の旅は終わらないとして

 人は真理を徹底的に振りかざしてはならないと悲しそうに語るのは、19世紀の思想家であるセーレン・キルケゴールだ。例えば、「無知の知」という真理を啓き続けたソクラテスは、若者を惑わしたという罪で極刑に処された。この事件に対してキルケゴールは、人に殺されるーー人に自身を殺させるーー権利を持つ人間はいないとソクラテスを糾弾したのである。人間は、殺人という罪を誰かに犯させてまで守った真理を通して、キリストと違って、何も殺人の罪を贖いえないからだ。人に罪を犯さしめてはならないと提起する。

 こうして真理をずらすべく発動するのが政治である。「政治とは可能性の技術であり、次善の結果を追求するものである」と述べたのはプロイセンの政治家ビスマルクだが、ものごとのすべてには政治が宿る。例えば、インターネットの普及に際して尽力したアメリカの政治家アル・ゴアが、国内でインターネット開発を自由に行わせるという政治を発揮した。アメリカが自由という政策で掴んだのは、IPアドレスをはじめとしたインターネットにおけるプロトコルの一強状態だ。1993年に始動したゴアの「情報スーパーハイウェイ構想」は、とどのつまり、物理的に光ファイバーを合衆国中に張り巡らせ、インフラとしてのインターネットを構築することで、教育に資することであった。

 そして、「ネットワークとネットワークをつないだ ネットワーク インターネット」ないし「 情報伝達 コミュニケーション」の物理性と陳腐化を突き詰めてきたのが堀崎剛志である。堀崎は2000年に渡米後、この2年間は日本へ一時的に帰国していたが、日本国内での作品発表はほとんどない。展覧会「構造と表面ーーラテックスと不動産」展は、本展の企画者で不動産や文化事業を取り扱う美術家の齋藤恵汰が、国内で堀崎の活動を紹介しようと開催したものと言える。

会場風景より、堀崎剛志の作品
会場風景より、堀崎剛志《Social dress New Orleans installation view at Socrates Sculpture Park》(2019)

 会場である駒込倉庫に入ると、堀崎がラテックスで様々な建造物の一部を型取った「Social dressシリーズ」が所狭しと並ぶ。フィリピンのマニラにあった扉、福島の楢葉町にあった壁、ヴェトナムのホーチミンにあった窓、カンボジアのポンペン、アメリカのニューオリンズにあった家……。写し取られた対象はいまもあるかはわからないが、かつて都市や生活を構成していたものばかりである。

 2005年にハリケーン・カトリーナにより甚大な被害を受けたニューオリンズを、堀崎は2年後に訪れている。当時、被害の影響が色濃く残り、ニューオリンズの現状をとらえた写真展が現地で頻繁に開催されていたいっぽうで、合衆国内での関連報道は目に見えて減少していた。そのような時勢に、堀崎は写真ではなく、ラテックスでニューオリンズの家壁の型を取り、2007年、ニューヨークのギャラリーへ持ち込んだ。

展示風景より、手前が堀崎剛志《Palm tree from Ruangrupa or Gudskul, Indonesia》(2019)

 写真の表面がつねにシミュラークルに回収され、目が滑ることこそがメディウムとしての前提条件であるならば、堀崎の作品におけるラテックスとは、情報の細部が著しく欠損しながらも、物理的な指標性を強く保持し、指標性の不鮮明なものにこそ宿る表象=代理の可能性を持つものとして見出されているのではないか。

 そして、特筆したいのは、ノン・サイト的作品の条件=状況でもある、「作品がつくられた場所から、展示される場所へ周遊的に移動する」ということをずらし、不在と忘却への抗いとして作品のなかへ織り込んでいるということだ。堀崎の作品は、ポータブル・スぺシフィシティと呼びたくなるほど、どこでつくられて、どこへ持って来られるかという物理的移動に意味が発生するよう構築されている。

会場風景より、手前が渋家《DOORPLATE》(2010)(c)SHIBUHOUSE&MATSUBARA Mei

 いっぽうの齋藤は、資本主義が世界をつなぐということを前提に共同体をつくる美術家であり、齋藤が資本を実質的に動かすべくメディウムとなるのが不動産である。それが、渋谷にあるクリエイターの若者たちのためのシェアハウスであり、アートプロジェクトとして立ち上げられた《 渋家 シブハウス》(2008-)である。本展における齋藤名義の作品としては《 渋家 シブハウス》の現在5億円でオーナー権を販売する《オーナーチェンジ》(2011-)が出展された。

会場風景より、手前が渋家メンバー共同制作のポートフォリオ《Ready Order Hand Home》(2011)(c)SHIBUHOUSE

 齋藤は《 渋家 シブハウス》の住人たちとの生活すべてを通して、堀崎は市政の人々とのワークショップという形で共同制作をとっているが、大きな違いは「展覧会を作品の前提条件としているかどうか」であるだろう。共同体を運営するために齋藤が語る方法論は、さながら生存圏を維持するための地政学的様相を呈しつつも、住人個人への搾取が発生しないかどうかがいま自問されている。それに対し、わたしは次のように返答したい。「展覧会を前提とする」ことは、制作者・鑑賞者が作品に関わる権利を有限的に保障するからこそ、守ることが可能な倫理になると。

 「裏あいちトリエンナーレ」を名乗った本展は終了したが、齋藤と堀崎両人の作品の旅はまだまだ続いていく。

主要参考文献
キェルケゴール『使徒と天才との相違について : 人は真理のために殺される権利をもつか』(橋本鑑、横山喜之訳、新教出版社、1948)
高柳寛樹「メディア産業における根幹技術の決定・採用過程と、それに働く「文化装置」に関する一考 ―テレビとインターネットの事例を中心に―」『応用社会学研究』(No.52、立命館大学、2010)