「一を分けて二と為す」――複数性としての展覧会
「二が合して一となる(合二而一)」という楊献珍(よう・けんちん)の議論に対して、「一を分けて二と為す(一分為二)」を主張したのは毛沢東であったが、「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」という奇妙なタイトルを持つ本展もまた、一を二に分割しようとする意志に貫かれている。まずこの展覧会タイトル自体、各部分を「お祭り」と「まつりごと(政事)」、「昭和」と「平成」、「ピーポー」と「ヒーロー」にそれぞれ二つに分割することが可能だ(その意味ではこの風変わりなタイトルの使用は正当化されうるだろう)。さらに本展は5つの章から成り立っているが、各々の章の副題もまたすべて二つの要素によって構成されている。例えば第1章「集団行動 陶酔と閉塞」は「陶酔」と「閉塞」、第2章「奇妙な姿 制服と仮面」は「制服」と「仮面」といったように。しかし、必ずしも「二」という数字がとりわけ特権的なものだというわけではない。それはあくまでも、「複数であること」を表す範例的な数字としてここでは用いられているのである。換言すれば、物事を一面的にとらえない思考を代表するものとして「二」という数字が本展において存在しているのである。
例えば、第2章「奇妙な姿 制服と仮面」は制服を着ていたり仮面をかぶっていたりして「奇妙な姿」をしている人々を取り上げ、奇妙な姿というテーマがピーポーとヒーローという二つの側面から検討されている。本章に出品されている今和次郎の考現学的調査は、上野や銀座、本所深川といったいろいろな人々が集まる場所で主に彼らの服装を「採集」している。服装といった外見的特徴のみにしたがって、一般大衆としてひと塊りにとらえられやすいピーポーを複数の特殊なタイプに分類するのである。
彼らはそれほど「奇妙な姿」をしていないかもしれないが、ピーポーの日常的な服装をその人の社会的立場や階層を表すある種の「制服」として見出す視線がそこにはあると言えよう。そうした外見によるピーポーの分類をヒーローは逆手に取り、それらに変装することによって様々な階層の人に変身することができる。本章において関連資料が展示されている江戸川乱歩の『怪人二十面相』に登場する怪人二十面相と明智小五郎は、そういったヒーローの顕著な例であるだろう。彼らヒーローもまたピーポーの服装を階層を示す制服としてとらえているという意味で、今和次郎の考現学と共通した視線を持っていたと考えることができる。
そして本章で興味深いのは、同一の奇妙な姿が時代と場所、人の違いによって異なる意味をまとうことが提示されているところである。堀野正雄の《ガスマスクをつけた女学生の行進》(1936)と平田実撮影の《故由比忠之進追悼国民儀葬列 ゼロ次元》(1967)は両者とも、ガスマスクという「仮面」を身につけた集団を写したものである。だが、同じガスマスクでありながら、それらの二つの状況はまったく異なる意味合いをもつ。堀野の写真が示すのは戦時中における、毒ガスによる攻撃に備えた注意喚起の行進であり、女学生たちを総力戦に動員するためにガスマスクによって一元化しているのに対して、ゼロ次元は1967年に、おどろおどろしいガスマスクを一元化の装置ではなくむしろパロディ化するための装置としてユーモラスに転用している。このようにして、画一化の道具としてとかく(それこそ画一的に?)とらえられがちな制服と仮面が、ピーポーとヒーローという二つの視点から複数の状況と様相に分割されて提示されているのである。
第4章「戦争 悲劇と寓話」では、総力戦においていわゆる銃後の人々が様々なメディアを通して戦争体制へと組み込まれていく様子が主に描かれている。子供に対しては『のらくろ』といったマンガや『神兵と母』といった紙芝居を通して、大人に対しては『ハワイ・マレー沖海戦』といった映画や鶴田吾郎の《神兵 パレンバンに降下す》(1942)といった作戦記録画を通して、銃後において総力戦体制に奉仕するよう複数の形態でプロパガンダが行われていたのである。本展の展示を見てわかるように(図録において担当学芸員の小林公によっても指摘されているが)、山川惣治作画の『神兵と母』において鶴田吾郎《神兵 パレンバンに降下す》で描かれる兵士と同じポーズをとるイメージが登場するのは興味深い。同じひとつの身振りが複数のメディアを跨いで繰り返し使用されているのである。
本章では《新時代の生活方向 家庭の各員の生活マヂノ線を防備しませう》(1940)という今和次郎の戦争プロパガンダのイラストも出品されている。今和次郎の資料は本展をひとつの軸として縦に貫くかのように、第1章、前述のように第2章、そしてこの第4章と、3つの章に出品されている。第1章の《一九二五年秋諸展覧会入場者分析》(1925)と第2章のピーポーの服装採集において用いられた同じ考現学的視線が、この第4章の《新時代の生活方向 家庭の各員の生活マヂノ線を防備しませう》では戦争遂行のための倹約の宣伝という総力戦における画一的な国民管理に資するものへと転化しているのである。このように本展では複数の章を通して今和次郎の考現学の変容、その複数の側面が描き出されている。
本展では4人の現代のアーティストに委嘱した新作も展示されているが、それらの作品も、複数性を体現する「二」という数字によって貫かれている。例えば、柳瀬安里の《線を引く》(2019)は、国会前と京都で作家自身がチョークと指で道路に線を引く行為をそれぞれ二つの画面に投影した作品である。そもそも「線を引く」という行為も、線によって分割するのと同時につなぐという相対立する二つの意味を持つものである。ねぶたの技法を用いて制作された会田誠の《MONUMENT FOR NOTHING V 〜にほんのまつり〜》(2019)は、本展タイトルの二重性を象徴的に示しているような作品である。すなわち、この作品は、お祭り(ねぶた)とまつりごと(国会)、昭和(陸軍二等兵の亡霊)と平成(国会)、ピーポー(陸軍二等兵の亡霊)とヒーロー(国会)(*1)といったように二分割を律儀なまでに提示し、両者の関係性を思考するよう我々に促しているのである。
本展は「まつりごと」、つまり政治をそのテーマのひとつとしているが、図録の「解題」によれば本展で「政治」という言葉を用いる場合、ハンナ・アレントの政治の定義を参照しているという。『政治の約束』においてアレントは「政治は人間の複数性(plurality)という事実に基づいている」(*2)と簡潔に述べている。換言すれば、彼女にとって政治とは、絶対的差異において平等に存在する複数の人々のあいだに立ち現れるものなのである。このことは最終第5章で提示されるピーポーとヒーローとの新たな関係性と関連づけて考えることができるだろう。じつはピーポーとヒーローは必ずしも相互排他的なものではない。この章に出品されている、しりあがり寿の四コママンガ『地球防衛家のヒトビト』(*3)では、ピーポーがピーポーでありつつも勇気を持ってささやかなヒーローとなる可能性が提示されている。それは、担当学芸員の小林公が図録において引用しているアレントの次のような言葉とも関わるだろう。「自分の素敵な隠れ場所を去って、自分が誰であるかを示し、自分自身を暴露し、身をさらす。勇気は、いや大胆ささえ、このような行為の中にすでに現れているのである」(*4)。そして小林が言うように「アレントはそのように公共空間に姿を現す人々のことを現実の世界に生きる主人公、英雄=ヒーローと呼んだ」 。
ここでは、ピーポーとヒーローとの関係性が完全に分離しないかたちでとらえ直され、ピーポーかつヒーローであるという新しい可能性が示されているのである。つまり、ピーポーの一人ひとりは勇気をもって公共空間に姿を現し、主人公、英雄となって、それぞれが絶対的な差異において複数のヒーローとして行動することができるのである。最後にそうした可能性を描き出して終わる本展は、ポピュリズムに顕著なようにピーポーとヒーローが結託することで自らと物事を一元化する可能性をはらんでいる現代において、物事を一面的にとらえることを拒否し、つねにその複数の様相を表すことによってアレント的「政治」における複数性をパフォーマティブに提示しているのである。
*1──ピーポー(陸軍二等兵)とヒーロー(国会)という対比は固定的なものではなく、戦死した兵士を「英霊」として祭り上げ英雄化することによって「ヒーローとしての兵士」と「ピーポーの代表としての国会」というかたちで、戦争動員のための国家主義的プロパガンダとして反転される場合もあるだろう。第4章に展示されている、戦没者の家族に送られた「誉の家」という表札はまさにそうした死者のヒーロー化という転倒を表している。
*2──ハンナ・アレント『政治の約束』ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳、筑摩書房、2018年、p.181
*3──このタイトルもまたヒーロー(地球防衛家)とピーポー(ヒトビト)という2つの要素から成り立っていると考えることができるだろう。
*4──「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」展図録、p.221、ハンナ・アーレント『人間の条件』筑摩書房、1994年、p.303