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2018.8.8

作品の「二重性」を保持する表現方法とは。菅原伸也が見た、「メルド彫刻の先の先」展

美術家・白川昌生が2000年代に提唱した「メルド彫刻」。DIY的な素材、方法で制作された作品のことを指す「メルド彫刻」の、さらにその先の表現を提示する場として、白川が選出した作家たちによる展覧会が東京・新宿のMaki Fine Artsで開催されている。本展を美術批評家の菅原伸也がレビューする。

文=菅原伸也

展示風景より。奥が白川昌生「Coyote」シリーズ(2018)、中央が冨井大裕《THOT》(2018)、

手前が橋本聡《角材と参照:壁を破壊する》(2018)
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「メルド彫刻の先の先」展 「メルド彫刻」とは何か。その端緒的覚え書 菅原伸也 評

 「メルド彫刻」とはいったいなんなのか。本展のキュレーションを担当し、出品もしている白川昌生によれば、「DIY的な素材、方法で制作された作品のこと」だという。白川によるこの定義は「メルド彫刻」という印象的な名にしてはあまりにも簡潔であり、明確なものとも言えないだろう。本稿では、白川の短い定義を超えて、本展出品作品を通して見えてくる「メルド彫刻」とはどんなものかを探ってみたい。

 「メルド」とは、白川自身が述べる通りクルト・シュヴィッタースの「メルツ」に由来するだけでなく、フランス語の「merde(糞)」が命名の大きな理由のひとつであることは間違いないだろう。とはいえ、本展出品作に「糞」を思わせる「おぞましいもの」が素材などにおいて用いられているわけではない。では、メルド彫刻における「メルド」性をどう考えるべきなのか?

 まず冨井大裕の作品を見てみよう。本展の出品作はどれも、多少古びた既製品の複数のブックスタンドと、それを撮影した写真イメージのポスターから構成されている。古典的な彫刻作品が基本的に石膏やブロンズなど単一の素材から成り立ち、最終的にはその素材の物質性を昇華させるかたちで人物などを表象するのに対して、冨井の作品は日用品を複数組み合わせ造形しつつ、その日用品の「日用品性」といったものを完全に昇華し消去してしまうことなく保持し続けるところに特徴がある。ひとつの彫刻として成立しながら、それを構成する個々のブックスタンドはブックスタンドであることをやめていない。すなわち、ひとつの作品のうちに彫刻としての造形性と日用品性が共存し二重性をつねに孕んでいるのである。本展出品作ではそこに写真イメージが付け加えられることによって、さらに複雑な豊かさが増している。

展示風景より、冨井大裕《ITO》、《ITO(ポスター)》(ともに2018) 

 橋本聡の本展出品作においても異なるかたちで物が二重性を保ち続けている。今回の作品は、日用品と、それに関連させることが可能な写真イメージとキャプションが印刷された紙から成り立っている。例えば《椅子と参照:バリケード》では、1968年のパリ五月革命におけるバリケードの写真とそれを示すキャプション、そして現代のありふれた、ギャラリーにもともと存在する椅子から構成されている。写真と文字と実物の椅子という形式において、ジョセフ・コスースの《1つと3つの椅子》への美術史的参照を行いつつも、パリ五月革命のバリケードを示す写真とキャプションを通してそのありふれた椅子を指し示すことによって(バリケード写真には椅子の存在も見える)、日常的な椅子でありながら同時に五月革命を遠く反響する、日常的椅子以上の存在となる。コスースの作品において写真と文字と椅子が「椅子」という概念の同語反復的な3つの現れであったのに対して、橋本の作品では写真と文字が日常的な実物の椅子を、それを超えたものへと変容させているのである。だが、その平凡な椅子は完全に別なものへと変貌してしまったのではなく、いっぽうで日常的な椅子のままでもあり二重性を保持しているのである。

展示風景より、橋本聡《椅子と参照:バリケード》(2018)

 豊嶋康子の近作は内部性を持ったオブジェクトが多く、ときにはその内部構造が露出されているが、本展出品作も同じ傾向に属するものである。内部にある細長い色紙が垣間見えるくす玉の作品は言うまでもなく、他の作品も、合板の表面をくり抜いた部分にかつての定規の作品がはめ込まれていたり、開閉可能な桐箱の内部で蛇腹状になった紙が串刺しにされふたつに開かれて内部が露出していたりなど、外側の表面性が提示されると同時に内部もまた露呈されていたり暗示されていたりする。豊嶋の作品も外部または内部の単一性に還元されてしまうことなく、内部と外部という二重性を同時に持ち続けているのである。

展示風景より、豊嶋康子《Openable names》(2015)

 これら出品作家の作品から考えるならば、「メルド」とはこうした二重性の同時的な保持を意味すると理解できるのではないか。単一性に還元される造形性へと完璧に昇華してしまうことなく、物の日用品性や物質性をも保ち続けること、もしくは外面的なかたちだけでなく内部性をも保持すること。白川と麻生晋佑の作品もまた、彩色された新しいキャンバスなどを廃材と組み合わせたり、切り抜いた既存のイメージとドローイングを混ぜ合わせることによってコラージュを制作したりするなど、こうした二重性を維持し続けている。

 「メルド」と言っても、これら5人の作家が行っているのは「糞」のような明白に「おぞましいもの」をリテラルに提示することでは決してない。古典的彫刻の造形性と「糞」は真逆に見えるかもしれないが、正負の価値の差異こそあれ、両者とも単一の価値を体現するという意味においては同様であり相補的でさえある。それに対して本展における「メルド彫刻」はつねに二重性を保持し続け、単一の価値を提示することはない。その昇華しきれなさのようなものこそが「メルド」であると言えるのではないだろうか。