技か人か、藤田かフジタか、好きかきらいか
2006年、わたしは東京国立近代美術館で開催された「生誕120年 藤田嗣治展」にキュレーターのひとりとして関わった。2015年には戦争画14点を含む「MOMATコレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」を企画した。そんなこともあって、ここ10年ぐらい様々な藤田展をなんとなくセミプロ的な気持ちで見てきた。
一般に回顧展とは作家の生涯の制作の変遷を追うものだ。同じ作家を取り上げれば同じ軌跡がベースにあるわけで、大きく構成を変えて企画の個性を示すことが難しい。とくに藤田の場合、初期からパリで成功した1920年代、南米や日本を拠点とした30〜40年代、戦後フランスに渡った50年代以降と、本人の人生と作品傾向自体がわかりやすく3章に分かれているので、あまりいじりようがない。
「没後50年 藤田嗣治展」もまた3部の基本構成を踏襲している。しかし今回は、多くの観客が期待する1920年代の「乳白色の肌」の女性像の印象が意外に薄く(出品交渉で苦戦したとも聞いている)、そのため相対的に「乳白色」以前と以後のボリュームが大きくなったと感じられた。結果として作家像の重心が「乳白色」以外の部分にずれ、そこがわたしには面白かった。
例えば、ブレイクする前の1910年代に描かれた、青い顔をして目の下に隈をつくった縦長の人物像。そこにはモディリアニやアール・デコ、浮世絵などの影響が混在している。あるいは娼婦やサーカス芸人を描く南米時代の油彩。絵具は厚塗りで色彩はけばけばしい。最晩年の、これでもかと神経質な線で描きこまれた宗教画が並ぶパートには、初期の縦長の人物像の時代にすでに描かれていた宗教モチーフの作品が一緒に展示され、まるで真ん中の「乳白色」時代がなかったかのような錯覚を覚える。これらの奇矯な作品の前では、2点の戦争画、《アッツ島玉砕》(1943)と《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945)も、泰西名画を一生懸命勉強して描いた行儀のよいものに見えてくる。会場出口で中年の女性客が「なんか気持ち悪かったわね」とつぶやくのを聞いて笑ってしまった。
じつはわたしは、56万人もの入場者を得た2006年展以来、ずっと疑問を抱いている。人々は(とりわけ日本の観客は)、なぜこんなに藤田が好きなのか。当時のわたしの観察によると、男女で藤田に好感を抱くポイントは異なるようだった。女性は「乳白色」の女性像や猫、子供を好み、男性はパリでの成功や戦争画、国を追われた戦後など、劇的な人生のエピソードに惹かれているようだった。
とくに女性客の反応について言えば、わたしには藤田の猫や子供が普通の意味でかわいいとは思えない。動物も子供も藤田の手癖に引きずられ、目元や口元が引きつり、身体がねじれている。しかし皆「甘美な女性像」や「かわゆいにゃんこ」「無邪気な子供」といったモチーフが与える先入見に引っぱられ、表現形式の持つ「奇妙さ」「居心地悪さ」(カタログ所収の論考「フジタとフランス『不思議な水晶を通して』」で筆者ソフィ・クレブスが繰り返し使う言葉)が目に入らないかのようだ。
だが「乳白色」の分量が減り、その他の存在が目立つ今回の展示では、そんなごまかしのヴェールを突き破って当惑が意識上に顔を出す。ここを入り口にみんなでもっと率直に新しい藤田像を語れたら、次の大回顧展はさらに面白くなるだろう(ただし集客は難航しそうだが)。
ちなみにわたしは今回、藤田が一貫して様々な表面をパッチワークする画家だったことを再確認した。輪郭線や、陰影の代わりに用いられる薄い隈取り、無地の背景などのため、藤田の作品には戦争画を除いてほぼ空間の奥行きやモノの立体感が描かれない。そのかわり、複雑な織りと模様を持つ布地や陶器、机や床の木目、マッチ箱の横薬に至るまで、表面のテクスチャーの描写は詳細で、ほとんど絵具で実物を再創造するかのような執拗さだ。
こんな風に驚異の細部への至近距離からの注視を強く求める画面だから、見る者は、左右でずれた肩や腰、長すぎる腕、パースのおかしい机の面といった大きなデッサンの崩れに気づかない。《すぐ戻ります(蚤の市)》(1956)は、2006年展でも出品し、あまり印象に残らなかった作品だ。しかし今回、マネキン、写真、古い版木、ドールハウスなど何十ものモノの表皮が描き分けられ、それらが奥行きのない空間を埋めて縦に積み上げられているのを見て、異なる表面を接ぎ合せるという藤田の造形原理を体現する典型作だと見直した。
大きなデッサンの狂いと超細密な細部というギャップは、例えば伊藤若冲のような画家にも共通する特徴だ。この「萌えポイント」を糸口にすると、「日本の観客はなぜこんなに藤田が好きなのか」、または「日本の観客はなぜ若冲がそんなに好きなのか」という問いについての謎もいつか解けるかもしれない。
没後50年展の会場である東京都美術館のすぐ近く、藤田の母校にある東京藝術大学陳列館では、関連企画「1940's フジタ・トリビュート」が8月15日まで開催されていた。戦時期のフジタに焦点を絞り、近年寄贈されたフジタ関係資料とともに8人と1組のアーティストの作品が展示された。
こちらのフジタ展には、作品の造形原理以上に、フジタという人物への興味が強く現れていると感じた。上述したように、藤田展に訪れる男性客は作品よりも劇的な人生航路に惹かれる傾向があるが、「トリビュート」展に参加したアーティストたちは、「同じアーティストとしてフジタの戦時下の行動を理解したい」という、もっと的を絞ったフジタの人生への関心を共有するように見えた。なぜ軍に協力したのか。戦争をどう考えていたのか。敗戦直後の批判に何を思ったのか。同じ状況に置かれたら自分はどうするか。こんな問いが会場に漂っていた。
だからだろうか、フジタの身に一度成り代わってみようとする作品が目についた。平川恒太は2枚の戦争画を黒い絵具とラメを用いて模写し(《Trinitite-サイパン島同胞臣節を全うす》[2013]、《Trinitite-シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》[2018])、米田知子はフジタの眼鏡を通して見た光景を写す作品を出品した(《藤田嗣治の眼鏡―日本出国を助けたシャーマンGHQ民政官に送った電報を見る》[2015])。
小沢剛研究室は、フジタにゆかりの深いいくつかの場所を実際に訪れ、そこでフジタの戦中、戦後の行動を再演する映像を制作した(《また帰って来たペインターF》[2018])。しかし登場する兵士たちの軍服はクラフト紙製だし、疎開先の村人やGHQの軍人たちは顔を描いた指で演じられる。その軽さ、安っぽさが、かつて同じ場所に存在したはずのフジタの遠さを感じさせる。誰か/何かに擬態する、憑依する、これは小沢剛がいままでにも用いてきた手法だが、ここでは真似てみても理解できないフジタのとらえがたさがじわじわと浮かび上がる。そもそも展覧会タイトル中の姓の表記「フジタ」に、すでに「つかみどころのないエイリアン感」がにじんでいる。
最初に書いたように、2度の展示に関わったせいで、わたしはよく「藤田が好きか」と聞かれる。好きか嫌いかで言えば、わたしは藤田の人柄も作品もとくに好きではない。しかし藤田の作品を見ると、ついその画面の奇妙さについて考え、にもかかわらず多くの観客を引き寄せる社会現象に疑問を持ち、もし戦争が起こったら美術に関わる者として自分はどうするだろうかという問いに頭を悩ませる。技と人、それを取り巻く社会状況まで、ひとりでこんなにいろいろな切り口からものを考えさせてくれるアーティストもいない。その意味で気にかかる、とは思っている。