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2016.2.1

増殖する「東北画」。椹木野衣が見た「東北画は可能か?」展

アートの中心地から遠く離れた地域で「絵を描くことは可能か?」という問いをきっかけに始まったプロジェクト「東北画は可能か?」。その現時点での集大成となる展覧会が、東京都美術館で開催されました。継続するこのプロジェクトのありようを、椹木野衣が読み解く。

文=椹木野衣

左はチーム日々織々《しきおり絵詞》(2013)、正面奥はチーム方舟による《方舟計画》(2011)、右手前の立体はチーム地の唄《the gleeman》(2014) Photo by Shikama Kohei
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椹木野衣 月評第90回 「東北画」は存在しない 「東北画は可能か?ー地方之国構想博物館ー」展

 本展は、なによりもまず「東北画は可能か?」と問うことで成り立っている。逆に言えば、もし「東北画」なるものをあらかじめ定義し、確固たる表現を打ち出すようなら、たちまちすべてが硬直化し、力強さも繊細さも輝きもなにもかも失われてしまうだろう。

 つまり、「東北画」はどこにも存在しない。東北画とはなにか?という問いと探究の渦中でだけ一瞬、姿を現す。今回、東京都美術館で公開された展覧会「地方之国構想博物館」は、実は、そのような危うさのうえに、かろうじて成り立っている。だが、だからこそ生々しく、迫真的といえる喚起力を持っており、その領分をなお過剰に場外にまで拡大するかの貪欲な増殖力を備えたのだろう。

「第3章 山と生きる私たち」の展示風景 Photo by Shikama Kohei

 もともとこのプロジェクトは、関西出身の画家、三瀬夏之介が、見も知らぬ東北の大学に赴任した「所在のなさ」に由来する。つまり、あえて言えば「都落ち」した画家が、アートの中心地から遠く離れた辺境の地で、それでもなお「絵を描くことは可能か?」と問うことから始まっている。その際、どこにあってもかつて信じた価値観の典型を目標とすることはおおいにありうる。しかし三瀬はそこで、「ここ」はいったいどこなのか?と自問した。その「ここ」が、たまたま東北であったというのが実際だろう。

 しかしこの問いは、いかに私的な動機に由来したとしても、すべての美術家が抱えているはずの「描くことへの疑い」そのものと、ほぼ等価である。東京にいようがニューヨークにいようが、「この地で美術家であることは可能か?」という問いは、決して消せない性質のものだからだ。「東北画は可能か?」もまた、本来は、特定の地域に根ざしたアートの取り組みというよりは、このような普遍性においてとらえたほうがよい。

「資料室」の展示風景 Photo by Shikama Kohei

 ところが、三瀬がこのプロジェクトを始めてまもない2011年3月、東日本大震災が突如として勃発。山形県は東北のうちでは被害が軽かったとはいえ、今度はいやおうなしに、「いま東北で美術は可能か?」という、さらに別の問いと直面することになった。

 しかし、その過酷さにもかかわらず、ことの本質は実はなんら変わっていない。東北にいながらにして被災から距離を取りえたこともあり、そこに身を置く者にとってこの問いは、皮肉なことにより迫真性を持ったにちがいない。渦中では制作もなにもないからだ。

T-Art Gallery「東北画は可能か?―地方之国現代美術館―」では、教員の新作とともに、学生、卒業生らの個人作品が展示された Photo by Miyajima Kei

 本展はその集大成だが、途中報告でもある。学生たちは先の問いのもと、決して広いとは言えない会場の全体を、序章と終章に挟まれた6章で構成し、さらに資料室までを設けた。「ここ」がどこかはさておき、あふれる情報と、どこまでが表現かもわからないイメージの群れは、まるで暗い森をあてどなく彷徨うように、見る者の感覚を絶えず刺激し、ときに不安にさせる。

 むろん、答えなどない。けれども、たんに答えがないのではない。無限に遠い答えに至るまでの、あらゆる角度からの問いの産出とその反復・変奏、さらには応答が折り重なり、全体が、まるで山や川、谷や盆地のような「地形」をかたちづくっている。この地形が持つ「表情」こそが、問いへの答えではなく「問いそのもの」の姿なのだろう。

『美術手帖』2016年2月号「REVIEWS 01」より)