REVIEW - 2017.5.5

「事故と死」を考える。
椹木野衣が見た「Death Line」展

過去に重大な交通事故を経験したという共通点を持つ、弓指寛治、ALI-KA、小林Aの3名の共同キュレーションにより、今年3月に開かれた「Death Line」展。それぞれが直面した「事故と死」に改めて向き合い、作品を通して「死」について深く考えることを目指した本展を、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

「事故直後」の部屋より。写真左は弓指寛治《十字路》(2017)、右手前はALI-KA《知蘭我無佛》(2017)

「事故直後」の部屋より。写真左は弓指寛治《十字路》(2017)、右手前はALI-KA《知蘭我無佛》(2017)

椹木野衣 月評第105回
「Death Line」展
死線(ボーダーライン)

 身近の者の突然の死が生み出す残された者の孤絶には、なにか得体の知れない時間と空間が棲んでいる。本展を見て、高校生の私を祖父が「お母さんが事故で……」と言葉少なに迎えた「玄関の様子」を数十年ぶりに思い出した。そのとき、なにか空間が妙に引き伸ばされて見え、時間がスローモーションに切り替わるような気がした。母が乗用車にはねられ、救急搬送されたのだという。命が助かったのを確かめてなお、その奇妙な感覚は容易には消えなかった。日常的に使われる言葉としては「後悔」というのが近いかもしれない。おそらく、手頃な感覚を目前の現実に無理に当てはめたのだろう。そうしないと、たぶん社会的に意味をなす行動がすぐにはできなかった。そのとき、日常的に所与のものとして受け入れて疑わない計量可能な時間や空間が、実際には慣例的に保たれている社会的な制度でしかなかったことに気づかされた。

「衝突の瞬間」の部屋より。ALI-KA《ガラオの宴》(2017)

 本展の共同キュレーションを担う三人の美術家のうち二人は肉親の死との直面を、もうひとりはわが身に降りかかった他者の死を扱っている。人間にとって死が個別の出来事でしかありえないかぎり、仮に戦争などで一度に大量の人が同時に死んだとしても、それでもなお、死はその人以外の誰のものでもありえない。同時にだからこそ、残された者を絶対の孤絶へと陥没させてしまう突然の死を、はたして他者と共有することは可能か。それが困難を極めるからこそ、人間はそうした死の扱いを文明の次元、たとえば宗教にまで高めようと懸命に努力してきた。だが、それでもなお、ある日、唐突に訪れる死は、そのような恩恵さえまったく無力な心理へと当事者を突き落とす。本展で扱われている交通事故による死は、その最たるものだ。

「衝突の瞬間」の部屋より。弓指寛治《まつり》(2017)

 こうした孤絶は、それが孤絶であるかぎり、その内面の状態を他者と共有すること自体が語義矛盾となる。ただし、いかなる出来事もこの世界の中で起きている以上、時間と空間そのものから完全に脱落することはない。その点で本展は、連続しつつ区切られた「現在→直後→瞬間→事前(→現在)」(会場での説明では「現在→事故直後→衝突の瞬間→事故前」)という回帰する4系列から時間を再編している。事故では、死ぬ原因はあっても理由はないのだから、そこでは通常の因果関係が成り立たない。ゆえにそこでは、「過去→現在→未来」が失効してしまう。私がかつて「後悔」と苦し紛れに言葉を当てはめ、抜け出すことが不可能になるように感じた時間や空間の得体の知れなさは、きっとその一端だったのだろう。

「事故前」の部屋より。和田唯奈《まつり》(2017)

 通常の美術展は、順調な時間と空間の運用を前提にしてそれらを問うことがない。入口は入口で、出口は出口としてきちんと機能を果たさなければ展示が成り立たない。ところが本展では、展示の一部が会場の入口=出口から外に漏れ出し、入口=出口でなくなることで、いつなにが起きてもおかしくはない路上へと通じる「穴」と化している。つまり、開口部の付近で原理的には無限回数、堂々巡りが(外も含んで)繰り返されるようになっている。この狭く見通しの悪い開口部にこそ、本展の「Death Line」は引かれているのだと思う。

「現在」の部屋より。写真左奥は《日常》(2017)、左手前は《モンタージュ》(2017)、右は《沈黙》(2017)。いずれも作者は小林A

(『美術手帖』2017年5月号「REVIEWS 01」より)