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出現と消滅をめぐる循環。
椹木野衣が見た、
「Super Circulation/超循環」展

美術家・建築家の秋山佑太、若手作家ユニット・カタルシスの岸辺による企画展「Super Circulation/超循環」が神宮前の新ギャラリー「EUKARYOTE(ユーカリオ)」にて開催された。「循環」をテーマにした本展を、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

《Plasterboard on the rooftop》(2018)で使用した断熱材

椹木野衣 月評第116回 「Super Circulation/超循環」展 なかったことの循環

 いまこの文章を書いている部屋の窓の視界を、大量の土砂を積んだトラックが塞いでいる。そして、その先の一軒家の向こうに見えるのは、朱色と白い鉄骨の構造を持つ塔のように巨大なクレーンだ。そう、都心のこの地域はいま規模の大小を問わない建設ラッシュなのだ。1964年の東京オリンピックの頃もこうだったのだろうか。当時、山間の地方で生まれ、オリンピックの年にはまだ2歳であった私に、両者を比較することはできない。だが、日々そんななかで暮らしていると、ある日を境に突如として解体が始まり、至るところが虫食いのように工事現場となるさまのほうが日常の一部になってしまう。そこから出る廃棄物の量は驚くほどだが、しかし、もっと驚くのはそれが一瞬にしてどこかに持ち去られ、あとかたもなく消えてしまうことだ。

ギャラリー屋上にて秋山佑太による《Plasterboard on the rooftop》(2018)の展示風景

 本展で垣間見られるのも、そのような出現と消滅をめぐる循環の過程にほかならない。過程であって一部始終でないのは、ここでは完成は示されないからだ。通常、展覧会では完成のみが見せられる。従ってそこに至る過程はなかったことにされている。けれども、どんな展覧会も会期を終了すれば同じような解体を経て、もう一度、別の過程へと強制的に突き戻される。だから、結局は展覧会も循環しているのに違いはない。ところが本展は、「展覧会」から「完成」だけを省いて循環の過程だけに特化することで、自らを「超循環」と名乗ることに成功している。

秋山佑太による《Looking at waste》(2018)の展示風景

 展覧会が超循環の中に投げ込まれれば、おのずと会場の内部と外部の区別も失われる。例えばそれ自体、産業廃棄物の再利用で世の中を延々と循環している石膏ボードを200枚ほど人力で屋上まで運び上げ、2メートルの高さにまで積んだ秋山佑太のインスタレーションに登ってみると、道沿いの向こうにちょうど建設中の新国立競技場と、それを四方から囲むクレーンが見える。国家規模でつくられる国民の祭典のためのスタジアムと、それを屋上から望む個人所有の雑居ビルは、その完成形においては比較にならない。だが、ひとたびそこから「完成」だけを抜き、超循環する過程へと還元してしまえば、規模や所有者の大小はとたんに意味を失い、たんに建材と技術と労働力の積算物として内外の区別を失い、地続きで一体のものとなる。つまり本展では、つくりかけの新国立競技場を望む景観そのものも展示の一部となっている。2メートルに積まれた建材の上に立ち、屋上が完成形としての屋上ではなく、もう一度工事現場へと戻されることで、私たちはそのことに否応なく気づかされる。

秋山佑太による《Looking at waste》(2018)の展示風景

 ふと、この景色に見覚えがあるのに気づいた。爆発炎上して大量の放射能をまき散らした東電福島第一原発を視察したときのことだ。廃炉に完成はない。建設ではなく更地に戻すのが廃炉だからだ。何事もなかったかのような更地に戻すためにこそ、大規模な予算が投入され、技術の限りが尽くされ、数え切れない人たちが作業に従事する。目指すのは「なかったこと」にすることだ。だが、それこそが超循環ではないか。

 もし廃炉が超循環なら、本展企画者の秋山がトラウマと語る産業廃棄物処理工場の地下清掃が、限りなく原発作業員の仕事と酷似していたのも偶然とは言えない。

『美術手帖』2018年4月号「REVIEWS 01」より)

カタルシスの岸辺( 荒渡巌・海野林太郎・高橋銑・髙見澤峻介)による《カタルシスの岸辺 超循環3号店》(2018)の展示風景

編集部

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