VJ空間を抜けて現れたシアトリカリティ 黒川良一「Objectum」展 金子智太郎 評
展示室中央に並ぶ台に、押し花とデジタルプリントを組み合わせた「elementum」シリーズが平置きされている。にごった鏡面に押し花が乗り、それを微細な点と直線からなるプリントが覆う。初めは、むらのある網目状の褐色のプリントがベージュの押し花を包んでいるように見える。だが、クモの糸やカビを思わせるこの網目は、眼を凝らすと、別の平面にある幾何学的図像であることがわかる。視線は2つの平面のあいだにあるなんらかの規則を探ろうとして緊張する。押し花と鏡面に落ちる図像の影が2つの平面の見え方を複雑にしている。
壁にかかる「lttrans」シリーズも「elementum」と同様、微細な点と直線で構成された図像である。遠くから見ると、ツツジやシャクナゲのような植物が黒い背景にぼんやりと浮かんでいる。正方形の平面は中央で縦に2つに分けられ、左側の図像は垂直にぶれたように歪んでいる。間近で見ると、図像を構成する線と点の濃淡がつくり出す空間が広がる。この奥行きは植物図像の立体感とは異なり、混沌としている。あらためて作品から少しずつ距離をとると、2つの空間が混じり合っていく。「lttrans」は、昆虫などの生物の形態を点と直線により再構成し、3Dプリンタから出力した「彫刻」作品「renature::bc-class #n」シリーズ(2015)と、同じような趣旨を持つシリーズと言えそうだ。ただし「lttrans」の左図には再構成のなかに破綻が持ち込まれている。
黒川良一がかつてアルスエレクトロニカでゴールデン・ニカ賞を獲得した《rheo: 5 horizons》(2010)の映像は、風景図像と幾何学的な図像のあいだの流れるような変換を見せた。雅楽を思わせるサウンドトラックは連続性よりも切断を強調し、映像にはっきりした推進力をもたらす。なめらかな流動がグリッチノイズによって断たれ、点滅し、別の動きに置き換わる。VJカルチャーとの結び付きを共有する池田亮司の同時期の作風と比較してみよう。池田の《test pattern》(2008〜)の映像は幾何学的、そして建築的で、映像よりも照明という言葉がふさわしいかもしれない。この映像がグリッチノイズをともなう音と一体となって鑑賞者の空間知覚を揺さぶる。それに対して、黒川の映像はむしろ絵画的で、鑑賞者の図像認識を刺激する。音は映像と相反する働きを担う傾向がある。具体的な図像と幾何学的な図像がなめらかに入れ替わる緊張感は、黒川の少なくとも2010年代半ばまでの映像作品の主要素である。
メディアを映像から物に、環境をブラックボックスからホワイトキューブに変えても、「elementum」と「lttrans」には流動する像と同じような緊張が感じられる。映像の動きの代わりをするのは鑑賞者の視点の移動である。「elementum」の図像は一見、押し花を包むように見える。だが、凝視すればするほど、眼が押し花と図像の規則的関係を追うことができる。
展示のなかで唯一、音を響かせているのが小部屋にある《oscillating continuum》だ。黒川はこの作品のモニター、スピーカー、映像、音の全体を「彫刻」と称しているのだろう。約1mの高さの本体の上部に2面のモニターが並べられ、1面は手前に、もう1面は奥に向かって傾いている。モニターの中央に赤い横線が引かれ、2面のモニターの線がつながっている。この線を軸に微細な点と直線からなる図像が流動する。流動は数秒ごとにノイズと点滅によって区切られ、別の動きに置き換わる。
この作品にとっても視点の移動は欠かせない要素である。2台のモニターを同じ角度から一望することはできない。鑑賞者が移動するにつれて、2台のモニターどうしの関係も変化していく。鑑賞者を作品の相関物として扱うことは「シアトリカリティ(演劇性)」と呼ばれる。《oscillating continuum》の映像は鑑賞者に作品の回りを自発的にめぐるようにうながす。本体下部から聞こえる音はゆれ動く視点にリズムや推進力をもたらす。彫刻でもプリントでも、黒川がつくり出す物は眼に留まることを許さない。この技術はブラックボックスのなかで培われた。