このような作品が作家の個人的な経歴をいかに反映しているのかについて、ブラッドフォードは「美術手帖」のインタビューで次のように振り返っている。
私は1970年代、黒人コミュニティのなかでクィアであり、ゲイとして生きてきました。所作や話し方が“フェミニン(女性的)”だと見なされ、“シシー(女々しいやつ)”と呼ばれることもあった。それは社会が「この身体は攻撃してもいい」というサインを出していたようなものであり、この身体で生きている限り、つねに暴力の対象になり得たのです。
私は7歳の頃からそれを肌で感じていました。怖くはなかったが、自分の身体がいつも危険にさらされていることはわかっていた。誰も助けには来ない。つまり1970年代という時代では、“身体”が何を意味し、社会にどう扱われるかが、すべてを決定していたのです。
1980年代に入ると、エイズの流行が始まった。当初は名前もなく、情報も支援もなく、コミュニティからは拒絶され、教会では「これは神の怒りだ」と説かれた。「あなたたちは罰を受けている。だから死ぬのだ」と。
アメリカでは周囲の人が次々と亡くなっていった。そして死とともに「カミングアウト」もやってくる。まだ多くの人がクローゼットの中にいた時代。亡くなった人の家族には「病気です、ゲイです、そして亡くなりました」とすべてを一息で伝えなければならなかった。
ある日、800ドルで車を売り、そのお金を持って旅行代理店に向かった。「400ドルで行ける場所はどこか」と尋ねると「ヨーロッパなら行ける」と言われた。「どこでもいい」と答え、もっとも安かったフランクフルトかアムステルダムのどちらかを選ぶよう言われた。目を閉じて指をさし、それでアムステルダム行きが決まった。それが、私の旅の始まりでした。
展覧会の中盤には、ブラッドフォード自身の身体をかたどった彫刻作品《Death Drop, 2023》(2023)が展示されている。ポーズは、ボールルーム・カルチャーにおいて自らの存在を誇示するパフォーマンス「デス・ドロップ」を再現したものだ。一見華やかで祝祭的な振る舞いに見えるが、ブラッドフォードはそこに、黒人や性的マイノリティの人々が暴力によって「倒されてきた」歴史を重ねている。

Courtesy of the artist and the Amorepacific Museum of Art. Photo by Kyoungtae Kim
彫刻とともに展示されているのは、ブラッドフォードが12歳のときに制作した『デス・ドロップ』という同じタイトルの映画からの静止画である。「思春期の頃、私の友だちはほとんど女の子でした。一緒にブラックスプロイテーション風の創作ごっこをして、悪者を蹴散らすような映画を自分たちで撮って遊んでいた。外の世界が暴力的になっていくなかで、私はその暴力を内面化し、想像の世界に逃げていた。創造性が花開いたのは、まさにその時期でした」。
展覧会の最後には、初期の映像作品《Niagara》(2005)が静かに流れている。音のない3分17秒のこの映像では、南ロサンゼルスの路上を歩く隣人メルヴィンの背中を、カメラが黙々と追う。1953年の映画『ナイアガラ』のワンシーンを、ブラック・クィアの視点から再構成した作品であり、「歩くこと」そのものが、尊厳と抵抗のメタファーとして描かれている。

© Mark Bradford. Courtesy the artist and Hauser & Wirth
「私はつねに、自分を歓迎してくれる空間を見つけてきました」と語るブラッドフォード。「この展覧会を通して、どんな背景を持っていても、どんな身体であっても、ここにいていいと感じてほしいのです」。
暴力、移動、抑圧、そして連帯といった主題を扱いながらも、ブラッドフォードの作品は、痛みとともにある喜び、分断のなかでのつながりを、静かに、しかし確かに体現している。



















