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「生誕130年記念 北川民次展 ――メキシコから日本へ」(名古屋市美術館)開幕レポート。画家として、教育者として

名古屋市美術館で、メキシコで画家・美術教育者として活動した北川民次(1894〜1989)の回顧展「生誕130年記念 北川民次展 ――メキシコから日本へ」が開幕した。会期は9月8日まで。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

 メキシコで画家・美術教育者として活動した北川民次(1894〜1989)。その約30年ぶりとなる回顧展「生誕130年記念 北川民次展 ――メキシコから日本へ」が名古屋市美術館で開幕した。会期は9月8日まで。担当学芸員は勝⽥琴絵。

 北川民次は静岡県⽣まれ。1914年にアメリカに渡って美術を学び、21年から約15年にわたりメキシコで画家・美術教育者として活動。36年に帰国し、東京の洋画壇で活躍し、第⼆次世界⼤戦後は瀬⼾を拠点に制作を続けた。

展示風景より

 本展は、絵画作品約70点を含む約180点の作品と資料によって、洋画家・壁画家・絵本制作者・美術教育者など多彩な側⾯をもつ北川⺠次の魅⼒に迫るものだ。展示は、「第1章 ⺠衆へのまなざし」「第2章 壁画と社会」「第3章 幻想と象徴」「第4章 都市と機械⽂明」「第5章 美術教育と絵本の仕事」「エピローグ 再びメキシコへ」といったテーマごとで構成されている。

 北川はアメリカ時代に舞台美術の仕事をする傍ら、美術学校「アート・スチューデンツ・リーグ」に在籍。ジョン・スローンら社会派の画家たちから学んだ「⺠衆を描く」姿勢は、⽣涯を通じて制作における重要なテーマのひとつとなった。第1章は、北川がいかに現実を⾒つめ、⺠衆を描いたかを紹介するもの。

 21年にメキシコに移った北川は、現地の住民や先住民の姿を描いた。例えば《トラルパム霊園のお祭り》(1930)は生と死の主題を1枚に収めたもので、ただの描写ではなく、画家の見方や考えを盛り込むという実践の成果のひとつだ。

展示風景より、北川民次《トラルパム霊園のお祭り》(1930)

 また、厳しい現実も描くことで社会の⽭盾まで批判的に描き出そうとする姿勢は、《鉛の兵隊(銃後の少⼥)》(1939)や《焼跡》(1945)などの作品から読み取れる。

展示風景より、左から《〔出征兵士〕》(1944)、《焼跡》(1945)

 第2章は壁画の仕事に注目するもの。北川は帰国後、藤⽥嗣治の勧めもあり、メキシコの⾵俗を壁画のような⼤画⾯に描き、⼆科会の会員になった。とくに戦時中は、異時同図的な画⾯構成で労働者の様⼦を描き、社会問題も主題に取り上げている。《雑草の如くⅡ》(1948)や《いなごの群れ》(1959)、《白と黒》(1960)など権力と民衆の姿を描いた作品からは、北川の強いメッセージ性を感じられるだろう。

展示風景より、北川民次《雑草の如くⅡ》(1948)
展示風景より、左から《赤津陶工の家》(1941)、《二十年目の悲しみの夜》(1965)、《白と黒》(1960)

 いっぽう第3章では、壁画運動から距離を置いたメキシコの作家たちからの影響が紹介されている。1920年代のメキシコでは、キュビスムやシュルレアリスムなどの国際的な美術動向に共鳴する画家たちも現れた。ルフィーノ・タマヨはそのひとりであり、暴力的なモチーフによって構成された《メキシコ静物》(1938)もタマヨからの影響が指摘される作品だ。

展示風景より、北川民次《メキシコ静物》(1938)
展示風景より、北川民次《岩山に茂る》(1940)

 北川はメキシコの前衛的な芸術運動「エストリデンティスモ(喧騒主義)からも影響を受けていた。これはメキシコの未来派とも⾔われる動向で、都市⽂化の象徴ともいえる⾼層建築や機械、ラジオなど通信技術を主題に扱っている。4章では、そうした動向からの影響が伺える《赤い家とサボテン》(1936)、《砂の⼯場》(1959)、《⾚いオイルタンク》(1960)などが並ぶ。都市や建物の⾵景をダイナミックに歪んだ遠近法で切り取り、その形態のおもしろさに注目した北川は、晩年に至るまでこうした作品に取り組み続けたという。

展示風景より、左から北川民次《都会風景》(1937)、《赤い家とサボテン》(1936)
展示風景より、左から北川民次《砂の⼯場》(1959)、《⾚いオイルタンク》(1960)

 第5章は、教育者としての北川民次に着目するもの。1920年代のメキシコは野外美術学校が次々とつくられ、アカデミズム的な教育を否定し、美術や⽂化を知識⼈から解放しようとする前衛運動「¡30‐30!(トレインタ・トレインタ)」も存在した。北川はトラルパンとタスコの野外美術学校で美術教育に携わり、帰国後は美術批評家・久保貞次郎らと交流して「コドモ⽂化会」を設⽴し、絵本制作に尽力。そして戦後には、メキシコの野外美術学校の理念を⽇本でも実践すべく、名古屋の東山動物園で「名古屋動物園児童美術学校」を実現している。5章の最後に展示された《夏の宿題》(1970)は、宿題をする子供を親や文部大臣などが威圧的に取り囲む様子を描いたもの。北川がメキシコで学び、日本で実践した、子供の自主性を重んじる教育とは正反対だった現実を、批判的に示した作品だ。

展示風景より、北川民次《夏の宿題》(1970)
展示風景より
展示風景より、『マハフノツボ セトモノノオハナシ』(文・絵:北川民次)

 北川は55年にメキシコを再訪し、旧友と親交を深めている。エピローグは、この再訪を契機にした制作活動で締め括られる。メキシコでモザイク壁画の可能性に注⽬した北川は、瀬⼾の陶磁器産業の技術⼒の⾼さを認識したという。56年にはアメリカとヨーロッパを周遊し、ルネサンス以前のモザイク壁画に感銘を受けた。帰国以降には、瀬⼾の職⼈と協働して公共の場所に設置するモザイク壁画を次々と制作。ここでは、瀬⼾市立図書館や瀬戸市民会館、名古屋CBC会館など現存する壁画の原画が並ぶ。

展示風景より、名古屋CBC会館壁画の原画《芸術と平和》(1958)

 北川は1978年に絵筆を置くことを表明。その前年に描かれた最後とされる自画像《バッタと自我像》(1977)は、自身とバッタの姿を描いたものだ。1匹では微力でも、群れをなすと大きな力になりうるバッタは、民衆のメタファーともとらえられる。そしてハンマーを振り上げる自らの姿は、絵筆によって抵抗する画家の生き様を示すようだ。

 絵画を通じて社会とつながりを持ち続けたヒューマニスト・北川民次。本展は、その姿を鮮やかに浮かび上がらせる回顧展となっている。

 なお、本展は世田谷美術館(9月21日〜11月17日)、郡山市立美術館(25年1月25日〜3月23日)へ巡回する。

展示風景より、北川民次《バッタと自我像》(1977)

 本展からは、絵画を通じて社会とつながりを持ち続けたヒューマニスト・北川民次の姿が浮かび上がる。

編集部

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