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「中平卓馬 火―氾濫」を東京国立近代美術館で見る。写真、メディア、その向こうにある権力

東京・竹橋の東京国立近代美術館で、理論と実践の両面において日本写真史に大きな足跡を残した中平卓馬の没後初となる本格回顧展「中平卓馬 火―氾濫」が開幕。会期は4月7日まで。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、《氾濫》「15人の写真家」(1974) 出品作

 東京・竹橋の東京国立近代美術館で、写真家・中平卓馬の没後初となる本格回顧展「中平卓馬  火―氾濫」が開幕した。会期は4月7日まで。担当学芸員は増田玲。

展示風景より

 中平は1938年東京生まれ。63年東京外国語大学スペイン科卒業。月刊誌『現代の眼』編集部に勤務していたが、誌面の企画を通じて写真に関心を持ち、65年に同誌を離れ写真家、批評家として活動を始める。68年に多木浩二、高梨豊、岡田隆彦らと季刊誌『PROVOKE』を創刊(森山は2号より参加、3号で終刊)。73年に刊行した『なぜ、植物図鑑か』以降、それまでの姿勢を自ら批判し、「植物図鑑」というキーワードをかかげて活動を開始。新たな方向性を模索したが、77年に急性アルコール中毒で倒れる。

展示風景より、「路上」『現代の眼』(1967、現代評論社)

 本展は初期から晩年まで約400点の作品と資料を展示することで、中平の思考と実践の軌跡を5つの章で追う大規模回顧展だ。しかしながら、担当学芸員の増田は「美術館という場で中平の回顧展を開催することには、難しさがつきまとう」と語る。そのうえで本展の意義を増田は次のように語った。「中平はその写真史的評価に比して、意外なほど『展覧会』というかたちでは紹介されてこなかった。その理由としては、最初期のものは自身で否定したためにネガが消失したこと、そのキャリアにおいて一貫して美術館を含めたシステムや権力を否定してきたこと、病で倒れる前後における活動の傾向の違いをとらえることの難しさなどが挙げられる。本展ではその難しさに向き合いながら、印刷物なども可能な限り集めて展示することで、その思想に少しでも近づければと考えた」。

展示風景より、《サーキュレーション─日付、場所、行為》(1971)

 第1章「来たるべき言葉のために」は、編集者だった中平が東松照明との出会いによって写真家へと転身、『Provoke』で活動するといった、初期のキャリアを紹介する。

展示風景より、森山大道 中平卓馬ポートレイト 1968頃 ©Daido Moriyama Photo Foundation

 「アレ・ブレ・ボケ」という挑発的な作風で、従来の写真表現に対する批判的な視点を打ち出した同人誌『Provoke』。「挑発」という意味を持つ本誌の創刊に、中平は多木浩二とともに携わり、高梨豊、岡田隆彦、森山大道らと、消費社会のなかで増殖し続ける写真というメディアを批判的にとらえようとした。

展示風景より、中平卓馬《夜》(1969頃) ©Gen Nakahira

 いまでこそ「アレ・ブレ・ボケ」の写真は、グラフィカルでスタイリッシュなものに見えるが、中平の写真の出発点は批評であり、その対象は資本主義社会とそのために高度化していくシステムであった。こうした中平の創作の根源にある精神は、本展を見るうえで意識しておきたい。

展示風景より、『Provoke』3号(1969、プロヴォーク社)

 第2章「風景・都市・サーキュレーション」は、中平と「風景」や「都市」といったテーマとの関係を探る。

 60年代末から70年代の初頭にかけて、中平は批評家・松田政男の議論を発端に展開した「風景論」に共鳴。その中心的な存在となっていく。『Provoke』に引き続き、ブレや強いコントラストによって、自動車や路面などの都市の一部を「風景」として切り取っていった。

展示風景より、『アサヒカメラ』(朝日新聞社、1972)

 また、この時期の中平にとっては「都市」も重要なキーワードとなる。消費活動の現場である都市は、当然のことながら中平にとっては批評の対象であり、そして雑誌というメディアを通して写真を発表する自身も消費の一端を担っていることに自覚的であった。メディアのなかで、メディアに対する批評を維持するための実践の数々が見て取れる。

展示風景より、『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)

 こうした活動は、1971年の第7回パリ青年ビエンナーレで発表された《サーキュレーション─日付、場所、行為》でひとつの結実を見る。目の前のものをすべて撮影し、その日のうちに現像し、すぐに展示するという本作は、「風景」あるいは「都市」を断片的に収集することでしかとらえられない、巨大な消費システムを見据えたものだったと言える。

展示風景より、《サーキュレーション─日付、場所、行為》(1971)

 第3章「植物図鑑・氾濫」では、中平が「植物図鑑」というキーワードを提示し、これまでの自身の活動を否定して新たな実践へと向かっていった道のりを扱う。

 73年2月に刊行された『なぜ、植物図鑑か』収録の巻頭エッセイ「なぜ、植物図鑑か」で、中平は自身の初期写真を否定したうえで、新たな指針を「植物図鑑」として示した。中平による「植物図鑑」については難解な部分が多いが、端的に読むのであれば「有機的な存在である植物と自身との境界を仕切る試み」と言えるだろう。ここには、対象をありのまま図鑑のようにとらえる困難さ、という写真というメディアにつきまとう問題が織り込まれている用に思える。写真は眼の前の「ありのままの風景」をとらえているように思えるが、いっぽうカメラという機械を持つ撮影者の恣意的な視線から逃れることができないメディアだ。写真は、この両者のせめぎ合いという困難さと対峙しながら創作をしなければならない。中平の「植物図鑑」というマニュフェストは、こうした写真の構造そのものを強く意識したものだと考えられないだろうか。

展示風景より、中央下が『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(晶文社、1973)

 本展ではこの「植物図鑑」の現れとして、74年に同館で開催された「15人の写真家展」で中平が出品した、48展の写真からなる《氾濫》を展示する。これらの写真の大半は「植物図鑑」執筆前に撮られたものであり、それぞれの写真が中平の宣言を反映しているものだとは言い難い。しかし、担当学芸員の増田は、本作を「宣言に至る思考のプロセスを再確認するような試み」と位置づける。展覧会のタイトルにもなっている本作は、写真の持つ困難さとその先の可能性を、往時の中平と同じ目線で考える契機となるだろう。

展示風景より、《氾濫》「15人の写真家」(1974) 出品作

 第4章「島々・街路」は、中平が篠山紀信や中上健次、武藤和夫や大石一義らとの協働のなかで、奄美大島やトカラ列島といった南の島々や海外へと目を向けるようになっていった時期の活動を追う。

展示風景より、『プレイボーイ日本版』(集英社、1976)

 中平の写真をここまで見てきた来場者は、この章で展示されているカラー写真を見て、印象の違いに驚くのではないだろうか。奄美やトカラを舞台とした作品は、被写体に対する「ひねり」が薄れ、より眼前にある被写体と素直に対峙したうえでシャッターを切る、中平の視線の変化が感じられるはずだ。「植物図鑑」という困難な問いに対する答えに近づきつつある、そんな予兆さえ感じさせる作品群だ。

展示風景より、《奄美》(1975、2023プリント)

 しかしながら77年9月、中平は急性アルコール中毒で倒れ、生死の境をさまよった後、記憶と言語に障害を負うことになった。中平の試みは、ここで一度中断されることになる。

展示風景より、街路あるいはテロルの痕跡(『現代詩手帖』掲載作の原稿プリント、1976)

 最後となる第5章「写真原点」では、記憶の一部を失ったものの体調が回復していった中平が、沖縄や横浜の自宅周辺などを撮影し、写真家として新たな道筋を立てていった軌跡をたどる。

展示風景より、キリカエ展出品作(2011)

 とくに会場では、90年代に入って中平が取り組み始めた、縦位置のカラー写真に注目したい。望遠の単焦点レンズによって対象をクローズアップして切り取った作品群は、各個の鮮やかな色彩と相まって、まるで現代のスマートフォンの写真フォルダを彷彿とさせる。こうした回復後の中平の試みが、倒れる前の活動や思想とどのように連関しているのか、会場で考察を重ねてみるのもおもしろいだろう。

展示風景より、キリカエ展出品作(2011)

 最後に、2024年という時代に中平の作品を見ることについての、増田の言葉を紹介したい。「中平が活動していた時代とは比べ物にならないほど、現代はイメージが氾濫していると言える。しかし中平は60年代末の時点でイメージとメディアとその向こうにある権力についての問題を設定しており、その問いかけは生涯にわたって幾度も繰り返された。今日的なメディア空間を生きる我々が、現在置かれている状況を考えるうえで、重要な作家と言えるだろう」。

 50年前の中平の眼差しが今日を生きる人々の目にも映り込む。そんな展覧会だ。

編集部

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