戦国の時代、三天下人に支えて生き抜いた茶人・織田有楽斎(おだ・うらくさい)。その人物像に迫る展覧会「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」が東京・六本木のサントリー美術館で始まった。会期は3月24日まで。担当学芸員は安河内幸絵。
有楽斎こと織田長益は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の13歳下の弟として生まれた。武将として活躍したのち、晩年には京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興し隠棲。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定されており(現在は愛知県犬山市の有楽苑内)、各地に如庵の写しが造られているほどだ。正伝院は明治時代に「正伝永源院」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えている。
戦乱の世を信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて乗り切ったことでも知られる有楽斎。その人物像を総合的にとらえなおそうとする本展には正伝永源院の寺宝の数々が並び、第1章「織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か」、第2章「有楽斎の交友関係」、第3章「数寄者としての有楽斎」、第4章「正伝永源院の寺宝」、そして第5章「織田有楽斎と正伝永源院―いま、そしてこれから―」で構成されている。
織田家の有力武将だった長益だが、本能寺の変で信長が自刃するとその人生は大きく変わることとなる。本能寺の変の際、長益は織田信忠(信長の長男)とともに誠仁親王がいる二条御所に移り、ここで敵襲を受けた。信忠は親王を逃走させると自害したが、いっぽうの長益は城から脱出し、一説には安土を経て岐阜へ向かったと伝えられている。このことからも長益には「逃げた男」という不名誉なレッテルも貼られた。第1章では、有楽斎の悪評を記した書物『義残後覚』を見ることができる。
本能寺の変の後、長益は豊臣秀吉に仕え、摂津国島下郡味舌(大阪府摂津市内)に二千石の知行を与えられた。戦国時代から江戸時代にかけての激動の時代、長益は有能な大名としての地歩を固めるが、大坂・夏の陣を前に京都・二条へ移り、また建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とした。第二章は、茶人としての活動を示す様々な書状を並べることで、その交友関係の一端が示されている。武将のみならず、僧侶や公家、千家、茶人とも広く交流を持っていたがゆえに、天下人からも頼りにされていた人物像が浮かび上がる。
有楽斎は正伝院に茶室「如庵」(現在は国宝)を造営し、茶の湯三昧の日々を送った。しかしながら有楽斎が生前に集めた茶道具は、孫の織田三五郎(長好)が引き継ぎいだのちに形見分けされ、残りは正伝院に寄進。道具類の行方は、現在ではほとんどわかっていないという。第3章は、茶入や茶杓、茶碗など有楽斎旧蔵の伝来を持つ茶道具の名品を並べることで有力な茶人としての姿を示すだけでなく、「有楽好み」を探るものとなっている。
第4章「正伝永源院の寺宝」では、旧正伝院の客殿を飾った16面の《蓮鷺図襖絵》を中心に、有楽斎の没後に正伝院に納められた寺宝を紹介。最終章では、廃仏毀釈の影響で寺名が改められた正伝永源院に伝わる、有楽流・有楽門人ゆかりの寺宝が並ぶ。
なお、会場には愛知県犬山市の有楽苑に移築されている茶室「如庵」および重要文化財の「書院」の3次元計測データを裸眼で立体視できる空間再現ディスプレイも展示されているのでチェックしてほしい。
正伝永源院住職の真神啓仁は本展開催を前に、「逃げの有楽斎」というイメージではなく、その想いや美意識を感じてほしいと語っている。本展に並ぶ茶道具や書状の数々からは、茶の湯通して幅広い交流を結んだ他に類を見ない人物像が浮かび上がるだろう。