東京・竹橋の東京国立近代美術館で、明治以降の重要文化財作品で構成される史上初の展覧会、開館70周年展「重要文化財の秘密」が開幕した。会期は5月14日まで。
そもそも、よく耳にする重要文化財とはなんだろうか。重要文化財(以下、重文)とは文化財保護法(1950年公布)に基づき、「日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料などの有形文化財のうち、製作優秀で我が国の文化史上貴重なもの等」について、文部科学大臣が定めるものだ。このうち、とくに優れたものが「国宝」に指定されてきた。
明治以降の絵画・彫刻・工芸に限れば、重文に指定されているものは68件とその数は少ない。重文は保護の観点から貸出や公開に制限がかけられるが、本展はこの68件のうち51件を会期中の展示替えを挟みながら展示する、貴重な機会となる。
いっぽうでこれらの作品がなにをもって重要文化財に指定されたのか、という問いが、本展では「秘密」というかたちで投げかけられる。とくに重文に指定された近代以降の作品は、制作から指定までの期間が数十年と短く、いかなるかたちで特異性や希少性、日本の伝統的な価値観といった選定基準が各作品に見出されていたのかも本展を見るうえでは重要な観点となるはずだ。なお、作品保護の観点から、会期中は頻繁に展示替えが行われる。詳細はウェブサイトで確認してもらいたい。
展覧会は「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」と、ジャンル別に分けられた4章構成だ。そもそも、これらのジャンルが明治以降、西洋の美術動向を見据えながらいかに設定されたのか、ということも本展を見るうえでは外せないポイントだ。
「日本画」の章は、狩野芳崖《不動明王図》(1887)から始まる。芳崖の本作は橋本雅邦の作品とともに、制度が始まった最初期の1955年に重文に指定されている。ふたりは幕末に狩野派に学んだのち、明治以降にフェノロサや岡倉天心の助言を受けて日本画の確立を目指した。
その後も初期の重文指定は、東京美術学校(現東京藝術大学)で雅邦に学んだ菱田春草、横山大観、下村観山のほか、岡倉の流れをくむ日本美術院の今村紫紅、速水御舟といった画家の作品が続く。こうしたラインナップの傾向から、重文はまず明治以降につくられた「日本画」という制度に忠実に、その指定を進めていったことがわかる。なお、文人画家として独自の路線を歩んだ富岡鉄斎の重文指定といった例もある。
1999年以降も、小林古径や前田青邨といった日本美術院の画家が続くが、いっぽうで京都の新たな日本画運動であった「国画創作協会」の村上華岳らの作品も指定されている。
また、今後の重文の行方を考えるうえでは、2010年代に入ってから指定された、上村松園《母子》(1934)や福田平八郎《漣》(1932)に注目したい。2011年に指定された上村松園は、明治以降で唯一の重文に指定された女性作家だ。このことからわかる通り、重文指定作品のジェンダーバランスは大きく偏っているが、今後は広く女性作家の仕事を再検討することが求められていくはずだ。
いっぽうの福田の《漣》は2016年の指定。現代美術にも通じるモダニズム的な造形が目を見張る本作は、将来的に重文という制度がどのように戦後美術を評価していくのか、考える契機となるだろう。
次は「洋画」を見ていきたい。洋画が最初に重文指定を受けたのは1967年、明治100年を前に明治文化の見直しが進んだ時期だったという。このときに指定されたのは、高橋由一《鮭》(1877頃)、浅井忠《収穫》(1890)、青木繁《海の幸》(1877頃)と、いまも高い人気を誇る誰もが知る名画だ。
担当学芸員の大谷省吾は洋画の重文に関して、とくに黒田清輝に注目して欲しいと語る。「黒田は1968年に《舞妓》(1893)が重文指定を受けるが、いまも高い知名度を誇るその代表作《湖畔》(1897)はそれから大きく遅れた99年に指定されている」。大谷はこれを「重文指定が開始された当初は、印象派からの影響を強く受けた《舞妓》が西洋の造形を巧みに取り入れたことが評価されていた証左だ」と言う。 《湖畔》は洋画ながらも日本画にも似た和風の趣が強く、こうした作風を評価するためには時間を用したと考えることができるわけだ。同一作家でも作品の評価が時代によって変わることを感じられるのも、本展のおもしろさと言える。
その黒田を師とし東京美術学校で学んだ萬鉄五郎は、当時紹介され始めたポスト印象派やフォーヴィスムといった西洋美術の動向を作品に取り入れ、黒田への反抗精神が感じられる作風を確立した。萬の《裸体美人》(1912)が黒田の《湖畔》に次いで2000年に重文指定されたことにも着目したい。本展図録では黒田と萬が同様に重文であることについて次のように評している。「近代美術が常に先行する世代への批判精神から生み出されてきたこと、それゆえ評価軸が常に更新されていくことが、ここに典型的に見て取れるのである」。
3つ目の章は「彫刻」だ。明治以降の彫刻作品で重文に指定されたのはわずかに6点となっており、初期は荻原守衛やラグーザといった、西洋彫刻の造形思考を反映した作品が選ばれている。99年には高村光雲の《老猿》(1893)が指定されているが、江戸の仏師の伝統を受け継ぎながら近代彫刻の思想を取り入れた高村の作品の指定がこのように後年となったことは、洋画と同じ構造だ。
会場に展示されている荻原守衛の重文指定作品《北條虎吉像》(1909)が石膏なのも興味深い。ブロンズに鋳造されて北條家の中庭に設置された本作だが、重文に指定されたのは石膏像だ。どの状態がもっとも作家の技術や思想を映し出しているのか、といった問いも本作は投げかけてくる。
最後となるのが「工芸」だ。2001年と、重文指定の開始がかなり遅かった分野だが、これは工芸においては制作の技術を持つ人間、すなわち無形文化財に重点が置かれていたためだ。
会場では明治の名工で帝室技芸員に任命された鈴木長吉が制作の指揮をとり完成させた大作《十二の鷹》(1893)が、シカゴ万博で発表された当時の姿で展示されるほか、2002年の指定以降急速に評価が高まった、明治期に輸出された「超絶技巧」の代表的工芸作品といえる初代宮川香山の《褐釉蟹貼付台付鉢》(1881)などを見ることができる。
本展オープニングの記者発表会で、担当学芸員の大谷は次のように語った。「東博の『国宝展』と比べると地味に思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。こうして重要文化財が一堂に集まるのは収蔵元の各館の手厚い協力があってこそ初めて成り立つ、本当に貴重な機会だ」。
社会の変化や国外からの視点などを通じて、時代とともに価値づけの基準が変遷してきた重要文化財。その選定基準を決めているのが国であることは確かだが、その基準は作品を受け継いでいく私たちの評価と無関係ではない。明治以降、この国が作品に対してどのような評価をしてきたのか、そしてそれは私たちの社会や文化とどのような関係を取り結んできたのか。今後も新たに生まれ続けるであろう重文についての、幅広い議論の土台となる展覧会が始まった。