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2022.10.18

岡本太郎の大規模回顧展、東京に巡回。大阪展とはまったく違う体験を

岡本太郎の回顧展としては史上最大規模となる「展覧会 岡本太郎」が、大阪展(大阪中之島美術館)を経て東京会場(東京都美術館)へと巡回、開幕を迎えた。大阪展とは大きく異なる構成に注目だ(図版はすべて(c)岡本太郎記念現代芸術振興財団)。

展示風景より
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  《太陽の塔》や《明日の神話》をはじめとする力強い作品で知られる芸術家・岡本太郎(1911〜1996)。その史上最大規模となる回顧展「展覧会 岡本太郎」が、大阪中之島美術館を経て東京都美術館に巡回。開幕を迎えた。会期は12月28日まで。この後、愛知県美術館(2023年1月14日〜3月14日)に巡回する。

 岡本太郎はマンガ家の岡本一平と、歌人で小説家の岡本かの子のあいだに生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)を退学後、両親とともに渡仏。両親の帰国後もパリに残り、1931年にはパリ大学へと進学する。40年に帰国し、戦争での中国への出征を経て、47年には画家としての活動を本格的に再開。力強い輪郭線と原色を多用した作品を多数発表するとともに文筆家としても活躍し、その作品と言葉はいまなお多くの人々に刺激を与え続けている。

展示風景より、手前は《若い夢》(1974)。左奥が《森の掟》(1950)

 本展は、代表作のみならず、これまであまり注目されてこなかった晩年の作品なども含め、岡本太郎の創作の歴史を網羅的に紹介するもの。会場は大阪展同様、制作年代順の構成となっており、「岡本太郎誕生ーパリ時代」「創造の孤独ー日本の文化を挑発する」「人間の根源ー呪力の魅惑」「大衆の中の芸術」「ふたつの太陽ー《太陽の塔》と《明日の神話》」「黒い眼の深淵ーつき抜けた孤独」の6章からなる。

 しかしながら大阪展と大きく異なるのは、第1章に入る前のセクションだ。この展示室では、《若い夢》(1974、東京展のみ)や《森の掟》(1950)、《ノン》(1970)など、すべての章から時間軸やジャンルを超えて選りすぐられた作品が集う。順路はなく、自由に歩き回って作品を鑑賞できる会場設計となっている。

 東京展の担当学芸員である藪前知子はこの会場構成の狙いについて、「来館者が生で作品にぶつかってもらえる空間を構成した。時代や文脈を抜きにし、自分で作品に歩み寄り、出会ってもらいたい」と語る。まさに東京展のハイライトと言えるだろう。

展示風景より、中央が《河童像》(1981)
展示風景より、手前は《ノン》(1970)

 第1章「岡本太郎誕生ーパリ時代」の見せ方も大阪展とは大きく違う。この章を飾るのは、「新発見」とされる作品3点と再制作の初期作品4点。大阪展ではこれらが展示のハイライトとして構成されたが、東京展ではあくまでコンパクトな見せ方となっている。藪前は、「(新発見とされる作品は)太郎さんが『見せよう』と思って描いたものではない」としており、あくまで時系列の流れの中に位置させたという。

 「作品A」「作品B」「作品C」とされる3点は、焼失したと思われていたパリ時代の作品と推定されるもので、まだ岡本太郎作品と断定されたわけではないが、その可能性が非常に高いとされている。今回が東京の美術館では初披露だ。

「岡本太郎誕生ーパリ時代」展示風景より
「岡本太郎誕生ーパリ時代」展示風景より、左から「作品B」「作品C」「作品A」(いずれも1931-33?、ユベール・ルガール・コレクション)

 再制作の初期作品は、真紅のリボンから腕が突き出た《傷ましき腕》(1936/49)、《露店》(1937/49)、《空間》(1934/54)、《コントルポアン》(1935/54)の4作品。とくに《露天》は1983年に岡本自身がニューヨークのグッゲンハイム美術館に寄贈して以降、日本では展示される機会がなかった作品であり、これら再制作の現存作品4点が一堂に会するは40年ぶりのこととなる。

「岡本太郎誕生ーパリ時代」展示風景より、手前から《傷ましき腕》(1936/49)、《空間》(1934/54、川崎市岡本太郎美術館蔵)、《コントルポアン》(1935/54、東京国立近代美術館蔵)、《露店》(1937/49、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館蔵)

 第2章からは戦後、芸術家として再出発した岡本太郎の作品が続く。対立する要素がそのままぶつかり合い、そのパワーに新しいものを見出すという岡本太郎の「対極主義」が反映された、力強い作品群だ。

「創造の孤独ー日本の文化を挑発する」展示風景より
「創造の孤独ー日本の文化を挑発する」展示風景より

 第3章「人間の根源」では、岡本太郎が51年に東博で縄文土器に出会い、人間の根源を表現するために取り組んだ作品が並ぶ。それまでのキャラクター性が強いモチーフではなく、呪術的な線の表出に注目してほしい。

「人間の根源」展示風景より

 岡本太郎は、作品が公開されなくなることを懸念し、生涯自分の作品を売らなかったとされている。いっぽうで多く手がけたのが、公共に開かれたパブリック・アートだった。第4章「大衆の中の芸術」では、のちの《太陽の塔》へ通ずる《太陽の神話》(1952)や、旧東京都庁舎の壁画原画(1956)、「こどもの城」のために制作した《こどもの樹》(1985)など、その事例の数々を見ることができる。

 また鯉のぼりやコップ、椅子など岡本太郎が多種多様なプロダクトも展示。大衆とのつながりも芸術と考えた岡本太郎の思想が反映されたものだと言える。

 なお、ここでは東京展のみの出品として映画関連資料も見逃せない。とくに、『怪人ラプラスの出現』のためのロボットデザインのドローイング(1956)は、その後の「ウルトラマン」の怪獣デザインを予感させるものだ。縄文土器に影響を受けたと思しき角のモチーフが見て取れる。

「大衆の中の芸術」展示風景より
「大衆の中の芸術」展示風景より
「大衆の中の芸術」展示風景より、『怪人ラプラスの出現』ロボットのデザインのためのドローイング(1956)
「大衆の中の芸術」展示風景より、『宇宙人東京に現る』脚本と、『宇宙人東京に現る』バイラ人のためのデザイン・ドローイング(ともに1955)

 第5章「ふたつの太陽ー《太陽の塔》と《明日の神話》」は、岡本太郎を語るうえ欠かせない《太陽の塔》(1970)と《明日の神話》(1968)を同時に紹介するもの。このふたつは岡本太郎を象徴する作品であり、なおかつ同時進行で構想された。

 太陽の塔は、50分の1スケールの立体作品や内部模型、そして貴重なドローイングが展示。1970年の大阪万博のために制作された《太陽の塔》。2025年の大阪万博が迫るなか、あらためて岡本太郎が当時何を目指していたのかを考えたい。

 いっぽうの《明日の神話》は、ドローイングと巨大な下絵が並ぶ。これを見た後、上野から銀座線に乗り渋谷駅まで向かい、渋谷駅コンコースにある実物を見に行くのもおすすめだ。

「ふたつの太陽ー《太陽の塔》と《明日の神話》」展示風景より、中央が《太陽の塔(1/50)》(1970)
「ふたつの太陽ー《太陽の塔》と《明日の神話》」展示風景より、《明日の神話》(1968)

 最終章となる第6章「黒い眼の深淵」では、晩年にあたる80年代の作品を中心に展示が構成。岡本太郎の人の顔やマスクに対する一貫した興味の高さを感じ取ることができるだろう。絶筆となった《雷人》(1995)からは、岡本太郎の制作意欲がまったく衰えていなかったことがよく分かる。

「黒い眼の深淵」展示風景より
「黒い眼の深淵」展示風景より、左が絶筆の《雷人》(1995)

 岡本太郎が戦後、二科会で作品を発表した場所でもある東京都美術館。そうした「岡本太郎ゆかり縁の地」で、あらためて岡本の創作の全貌に向き合いたい。