多くのブックデザインやポスターを手がけ、日本におけるグラフィックデザインの黎明期を切り拓いたデザイナー・原弘(1903〜1986)。その制作姿勢の礎となった時代をたどる企画展「原弘と造型:1920年代の新興美術運動から」が9月5日に武蔵野美術大学 美術館・図書館で始まった。会期は10月2日まで。
原の仕事においてよく語られるのは、戦後に手がけたブックデザインやポスターの数々だ。いっぽうで、若かりし頃の原が海外のアヴァンギャルド芸術の影響を受けた新興美術運動に身を投じたことはあまり知られていない。本展は、所蔵資料と特種東海製紙の原弘アーカイブから、原の制作活動の礎となった1920年代から1940年代を取り上げ、そのデザインワークに通底する造型思考の検証するものだ。
原は、1921年に家業を継ぐため入学した東京府立工芸学校(現 東京都立工芸高等学校)を卒業。実家には戻らず、母校の製版印刷科の助手として印刷図案と石版印刷を教え始めた。また、1920年代半ばには、小説家・画家の村山知義やロシア出身の美術家ワルワ―ラ・ブブノワらが集った「三科会」や、詩人・美術家の神原泰らが結成した「造型」など、大正末の新興美術運動に強く惹かれていくこととなった。
いっぽうで、1930年頃までに原は、海外の印刷雑誌や書籍を通じてロシア構成主義のエル・リシツキーや、ヤン・チヒョルト、ラースロー・モホイ=ナジらに代表されるニュー・タイポグラフィ理論の研究・発表に取り組むようになる。そこで深められた原の思索は新装花王石鹸のパッケージデザインや著書『新活版術研究』の刊行に結実した。
その後、写真家・野島康三主宰の雑誌『光画』に集った人々との交流をきっかけに、日本工房、中央工房、国際報道写真協会などの創設に関わった原は、山内光の名でも知られる映画俳優の岡田桑三や写真評論家の伊奈信男、当時新進気鋭の写真家であった木村伊兵衛や渡辺義雄らとともに、報道写真を軸としたデザイン活動を推進していった。
このように周囲に良き協力者を得た原は、客観的かつ正確な視覚的伝達形式の確立を目指した。写真を用いたポスターや対外宣伝を目的としたグラフ誌などのほかに、写真壁画や写真集のデザインを手がけるなど、自身のグラフィックデザイナーとしての立場を確立していった。展示からは、1枚の写真が写真集やポスターなどに幅広く展開されていることがうかがえる。
1940年代という世界大戦の最中、外国語による対外宣伝グラフ誌の発行を目的に、岡田桑三を理事長とする東方社が設立された。原は同社の美術部長に就任。ソビエト連邦の『建設のソ連邦 USSR in Construction』をならった『FRONT』を発行し、アートディレクターとして手腕を振るった。本展では、『USSR』と『FRONT』が比較できるよう、並べて展示されている。
戦後は、原とともに東方社に勤めていた木村伊兵衛や、フランス文学者で評論家の中島健蔵らとともに文化社を立ち上げたり、日本工房で協働した名取洋之助企画の『週刊サン・ニュース』の製作に参加するなど、引き続きグラフ誌のデザインに力を注いでいた。
また、30年代からの付き合いであった思想家、評論家の林達夫や、哲学者で法政大学の総長も務めた谷川徹三らを通じて、中央公論社をはじめとする装幀の仕事にも取り組み、その後ライフワークとなったブックデザインの領域を開拓していった。
この展覧会は原による制作物の展示のみならず、スクラップブックなどの資料も多く展示されており、日本のグラフィックデザインの黎明期を牽引した原が、どのようにその制作における造型思考を確立していったかが通観できる構成となっている。
ややニッチなテーマとも受け取れるが、その思考や身の立て方はアートやデザインの領域に携わる者であれば参考となる点も多いはずだ。同期間に開催されている企画展「みんなの椅子 ムサビのデザインⅦ」ともあわせて鑑賞したい。