卒業作家たちが語る武蔵野美術大学の魅力:第1回 パピヨン本田

2学部12学科を擁する武蔵野美術大学(ムサビ)は、これまでに数々の作家やクリエイターを世に送り出してきた。世に出たつくり手たちがこの学校で何を学び、どんな経験をしたのか。第1回はマンガ家・パピヨン本田に自身の大学時代の思い出、そして現在の仕事につながる当時の経験をマンガで描きおろしてもらうとともに、インタビューを行った。

マンガ=パピヨン本田 インタビュー聞き手・構成=山内宏泰

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 風刺と批評性にあふれたマンガ『ビジュえもん』をTwitterで発表し話題となったマンガ家・パピヨン本田。現在は『美術のトラちゃん』(CINRA)を連載中だ。マンガ家としてだけでなく、別名義で美術家としても活動しているパピヨンに、自身が武蔵野美術大学(以下、ムサビ)へ通った当時の思い出や、そこで学んだことの意味や意義を「あの頃ムサビで」として描き下ろしてもらった。併せて、本人のインタビューもお届けする。

──ムサビの彫刻学科で学ばれていたパピヨンさんですが、マンガという表現にはどのように出会ったのでしょうか?

 ムサビの彫刻学科を卒業してそのまま作家活動を始めたという経歴だけ見ると、根っからの美術大好き人間だったと思われるかもしれませんけど、自分はまったくそうじゃありません。そもそも絵との出会いというか出発点は、マンガでした。

 小さいころからマンガ好きで、好きなマンガ絵の模写から描くことを始めました。でもこれ、いま美大に入る人の大半は同じじゃないでしょうか? 幼少のころから美術三昧という人は少数でしょうけど、マンガはたいていみんな読みまくってますものね。

 ともあれ小学生時代にはすでに、漠然とマンガ家になりたいと思っていました。YouTubeに夢中になったいまの子が「YouTuberになりたい!」と言い出すのと同じノリですね。いちばんの憧れはやっぱり『ドラえもん』の藤子・F・不二雄先生でした。当時は『コロコロコミック』ばかり読んでいましたから。あ、『コロコロコミック』はいまも購読しています。自分の漫画のいちばんの手本というか、参考にさせてもらっています。

──描くことへの関心はそこから持続していたわけですね。

 はい、高校1年生のとき地元、三重の画塾に入りました。そこの先生がユニークで、東村アキコさんの漫画『かくかくしかじか』に出てくる画塾先生と同じくらい、厳しくて変な人だった。若いころプロレスラーを目指したこともあったらしくて、ガタイがまたいいんですよ。オーソドックスなデッサンもたまにはするんですけど、ほかにもアニメやイラストをつくらされたり、いきなりバウハウスについてのレクチャーを受けたり、似顔絵を描くアルバイトまでやらされましたね。

 田舎暮らしなもので、高校生になるまで美術館へ行ったこともなかったですが、先生は休みの日になると車で奈良や京都の美術館などへ連れていってくれました。あるとき名古屋市美術館で、レッド・グルームスのオブジェ作品《ウールワース・ビルディング》を観て感動しました。かっこいいな、これなら自分にもやれそうだなと言ったら、先生に「じゃあやれ!」とけしかけられた。それから「そうだ、お前は作家になれ!」という話になり、段ボールなんかを使った作品を次々につくらされ、それらを言われるがまま、片っ端から公募展に応募しました。

 するとけっこうな確率で賞をとることができて、賞金もぜんぶ集めると数十万円単位になった。あ、これはいけるかも……。その気になってしまい、美大へ行って作家になろうと決意しました。

 ウチは美術なんてまったく馴染みがなくて、親も最初は反対しました。美大の学費なんて、医大と同じくらいかかるらしいじゃないかと。それを聞いた先生はあっさり、「当たり前だ、美大へ行って作家になれば、医者と同じくらい儲かるんだから」と返しました。

 そのころちょうど公募展を受賞しはじめたこともあり、親もそのセリフに納得してくれました。作家になるには東京の美大へ行くのがよかろうと思い込み、東京にある美大を軒並み受験しましたが、結果は全滅。唯一、ムサビの彫刻科の補欠に引っかかり、ギリギリで現役合格することができました。

──実際に入学してみて、ムサビはどのような印象でしたか?

 そんな滑り込みの入学でしたから、入学前にムサビのイメージはまったくなし。まっさらな状態で通い出して最初に感じたのは、いろんなことをやっている人がいておもしろいなということ。24時間美術のことだけ考えてるというタイプはあまりいなくて、広くカルチャーやエンターテインメントに興味を持つ学生が多かったです。

 僕も感化されて、せっかく東京の大学に来たのだからいろいろやってみようと、演劇サークル「劇団むさび」に入りました。じつは高校時代も演劇部だったので、まあそこで友だちでもつくろうと気楽に入ったのですが、結局3年生までは寝ても覚めても演劇ばかりの生活に。脚本から考えて自分たちで演出して役者も兼ねてと何でもやるのが、すごく楽しかったんです。

──充実した日々はあっという間に過ぎていきそうですね。

 大学生活も終盤になり、4年生になったときふと気づきました。そういえば自分は作家になりたかったんだと。それで積極的に展示に参加したりするようになって、気づいたら卒業制作をつくる時間がほとんどないくらい、自作の制作・展示に夢中になってました。

 彫刻学科の友人たちは卒業後、わりとふつうに就職してました。造形物の原型をつくったりゲームつくったりと、いまもちゃんと仕事を続けています。そこへいくと僕は浮いていたほう。作家志望の人は大学院に進んだりと学校に残ることが多いので、学部だけ出て作家志望というのは自分ひとりでした。

 でも作家は、自分で名乗りさえすれば作家です。自分でそう言い切れるかどうかが問題です。あとは作家として現実的にやっていけるか、つまりは食っていけるかというのが大きな壁になります。僕の場合、なんとかギリギリやってきたというところでしょうか。

 その点、ムサビはなかなか心強い。卒業してもタテ・ヨコの人間関係がけっこう濃密に続くので、「あいつ作家やってるらしいよ」という話が広がって、展示に誘ってもらったりすることがけっこうあります。大学のつながりを頼りに、これまでなんとかやってきました。大学に通った最大のメリットや意義は、そうしたつながりを築けたことでしょうね。

──これからムサビを志望する人たちに、アドバイスがあれば教えてください。

 どうにかこうにか運よくやってこられたこんな自分がもしも後進へ何かアドバイスできるとしたら……。やりたいこと以外のことを、たくさん見たりやったりするといいんじゃないでしょうか。たとえば美術をやりたいなら、美術以外のことに目を向けて広く深く知ってみたりする。するとそのうち、そうして得た知見が美術へ跳ね返って、いい効果をもたらしたりするのでは?

 大学では3年生以降ほとんど自由課題となり、自分のつくりたいものをつくるようになります。自分はやりたいことや言いたいことなど見当たらなくて、毎回とにかくいろいろやってみるしかないと思って、美術という枠にとらわれず興味の向くままあれこれ模索し続けました。そのやり方は卒業しても変わっていませんね。いまも作家として言いたいことは何もないし、言いたいことを載せない方向性で作品をつくっています。その延長線上に、これまで描いてきた現代美術を題材としたマンガ作品があるんです。『美術のトラちゃん』などは、とくにいままでの模索が生きています。

 手塚治虫の『マンガの描き方』を読むと、マンガとは何かと問われた手塚治虫がずばり、マンガは風刺ですと答えていた。そうか、表現の核は風刺だなとそのときに信じ込み、以来いまだにその考えを引きずっているのかなと思います。美術界に物申すというつもりもないんですが、自分のマンガに批評性が入っているように見えるとしたら、それはマンガの神様・手塚治虫の教えに従っているということなんでしょうね。ちなみにパロディマンガを読むのは昔から大好きだったのですが、自分で描いて発表したものが広まるとはまったく思っていませんでした。

 最近は自分のマンガを、美術業界以外の人も読んでくれている実感もあって、うれしいかぎりです。ただしこれも、たまたま最近用いている発表形態のひとつであって、表現のかたちはまた移り変わるかもしれません。何かをつくることと作家であることは、いつまでも続けていくだろうとは思っていますけれど。