ドローイングとは何か? そしてどこに向かうのか? 鈴木ヒラク、村山悟郎、やんツーが語る

渋谷パルコの4階にあるPARCO MUSEUM TOKYOでは現在、「Drawings – Plurality 複数性へと向かうドローイング<記号、有機体、機械>」と題した展覧会が開催中だ。鈴木ヒラク、村山悟郎、やんツーの3作家が参加する本展は、特定のキュレーターを立てず、作家同士の対話から生まれたもの。その会期初日に行われたトークイベント(モデレーター:児島やよい)の様子を編集版としてお届けする。

聞き手=児島やよい All Photo by vvpfoto

左から、村山悟郎、鈴木ヒラク、やんツー

──この展覧会はアーティストの村山悟郎さんと鈴木ヒラクさんの対話から生まれ、成り立っているものと聞いています。まずは展覧会のコンセプトについて、村山さんからお話いただけますか?

村山 この展覧会を企画することになった経緯は、僕がPARCO MUSEUM TOKYOと個人的なつながりがあり、「なにか面白いことがしたい」という漠然とした話をしていたところからでした。グループ展、何人かの作家が集まって、アーティスト自身で組み立てていく展覧会がつくれたら面白いのではないかと考え、企画を始めたんです。「ドローイング」はかなり普遍的なもの──線を引くことは人類史のなかで連綿と続いています──なので、テーマとして設定したら色々な領域のアーティストと展覧会をつくれるのではないかと。そうしたら自然とヒラクさんとやんツーくんのふたりが思い浮かんできました。この3人だったらいけるんじゃないかと。

 そこから3人の議論のなかで僕が話したのは、3つの概念で交わる線のあり方を表現したいということでした。タイトルにもあるのですが、「記号」「有機体」「機械」の3つのキーワードを設定し、僕が有機体を、やんツーくんが機械を、ヒラクさんが記号を担い、それぞれのアプローチを紹介しながら「複数性へと向かう線」を表現していけたら面白いんじゃないかなと考えたんです。

トークイベントより左から、児島やよい、鈴木ヒラク、村山悟郎、やんツー

 僕自身は有機体を問題設定として考え続けているのですが、生物が生み出す線を人間が見て、そこから意味や情報や感動を受け取ったりするのはなぜなのかという疑問があります。また、やんツーくんが用いる機械や、ヒラクさんが採取する天体、石といった非生命体が描く線からも、人はインスピレーションを受け続けていますけれど、それはなぜなのか? 本展で提示した「記号」「有機体」「機械」という3つのキーワードは、世界をとらえる異なる尺度である物質/機械/生命という領域が生み出す線が、相互に交わりながら複雑に絡み合い、いかに記号や意味や質へと向かうのかという問いを孕んでいるのです。その3つの要素で世界の線を見るということを、3人それぞれのアプローチから提示できれば、いい展覧会になるんじゃないかと思い、ふたりに提案して始まっていったんです。

鈴木 悟郎くんとPARCO MUSEUM TOKYOとの関係性が面白くて、ディレクターが悟郎くんの弟なんですよね。身長も同じ(笑)。展覧会はこのふたりのDNAの二重らせんとか、​​家系図的な線から話が始まっているとも言えますね。

 僕個人としては、20年以上前に路上のマンホールに刻まれた記号をフロッタージュするような行為からドローイング(描くこと)を始めて、そこからずっと線を描くこと、線を見出すことについて考え続けています。線がいかに平面だけではなく、時間や空間に拡張していくかを実践しているのですが、欧米を中心とした世界のコンテンポラリードローイングのシーンと関わりを持つなかで、日本でのドローイングのとらえられ方とのギャップも感じてきました。最近、僕はその断絶を接続する回路をつくるのが自分の役割だと感じて活動しているところもあります。なので、悟郎くんからこの展覧会のお話をいただいたとき、もちろんふたりとも尊敬するアーティストなので嬉しかったのですが、商業施設でやるからといって、綺麗な「Works on Paper」を展示して買ってもらうような展覧会にはしたくないと。むしろその逆で、ドローイングとは何かと根源的に問いかけ、その定義自体を拡張し、いまこの時代に日本でやる意義を提示できるような展覧会にしたいと伝えました。そこからドローイングの文脈やこれからの可能性についての深いところを話しながら展覧会をつくっていったんです。

トークイベントより、左から児島やよい、鈴木ヒラク、村山悟郎

村山 僕は「ドローイングとはこうである」と本質主義的に断言することはしたくないんですが、とはいえ展覧会になんらかの仮設的な出発点は必要だろうと思い、ヒラクさんとの対話のなかで出てきた社会人類学者ティム・インゴルドが指摘した「Draw」という単語が持つ意味を核にしようと考えました。それは展覧会のステートメントにも引用しているのですが、インゴルドは「Draw」という動詞を「糸の操作」あるいは「軌跡の刻印」といった行為を指す語として用いられてきたと説明しています。そこから出発して、どこまでドローイングを拡張できるのか。いろいろな作家の線のあり方をとらえていきたいなと。

──では本展の作品とそれぞれの「ドローイング観」について、それぞれにお話を聞きたいと思います。村山さんはいかがですか?

村山 先程テーマのなかで「有機体」と言いましたが、僕は人間を含む生物がどのように線を構成しパターンをつくりだすのか、そしてそのパターンをつくりだすことでいかに生きた時間を構成するのかということを考えています。今回は自分の創作研究のきっかけとなったイモガイの貝殻を実物展示しているのですが、この貝殻は非常に美しい模様を形成しているんですね。コンピューターシミュレーション(ウルフラムのセルオートマトンの研究)によって生成された模様とそっくりなものとして発見されたのがこの貝殻で、逆説的に貝殻模様がどのように生成されているのかが理解されるようになった背景があります。僕は学生の頃にその研究から衝撃を受けて、時間を構成しながらパターンをどんどん生成していくような生命の線のあり方を作品としてつくっています。

展示風景より、村山悟郎のセクション
展示風景より、イモガイの貝殻

 今回、新作としては自分がオートポイエティックに線を生成しながらパターンをつくり続けるシリーズをさらに深めたものを展示しています。4枚のパネルを用意し、序盤は4枚同時に、同じ手順で描き進めていって、すると当然同じ絵が4枚できていくわけですが、中盤にさしかかって画面上が複雑化してくると「次はA or Bどちらの筆致でいこうか......」という迷いが生じてくるわけです。その迷った時点で絵を分岐させていくことで、最終的に4枚の異なるプロセスの絵が完成する。この新作を含め、生命の時間と線がテーマになった作品をいくつか出品しています。

展示風景より、村山悟郎のセクション
展示風景より、村山悟郎のセクション

──生命のシステムとつながっているような幾何学的なパターンから始まり、どんどん派生するようなイメージですか?

村山 基本的な要素と局所的な規則を決めておけば、自動的に描き進めていっても全体としては生命っぽい作品になる場合がある。生命自体も部分的にはすごく機械的だけど、全体としての表れは”生命らしい”ですよね。周期的でもなければカオスでもない、中間のパターンをつくりだすのが生命だと考えられているので、そういう豊かなパターンを作品としていかにつくりだすかということを考えています。

村山悟郎

──やんツーさんはドローイングについてどのようにお考えですか?

やんツー 僕はこの3人のなかでは一番ドローイングに対する意識が低いのかなと思うのですが......(笑)

村山・鈴木 そんなことないでしょ(笑)

左から、鈴木ヒラク、村山悟郎、やんツー

やんツー 僕は神奈川出身で、10代のころからグラフィティを地元でたくさん見てきて、その線のイメージが身体化されている感覚があります。いっぽう大学ではメディア・アートを学び、描く手段として自分の身体とテクノロジーを使って実践してきました。しかし、2011年からは「ドローイング・マシン」というかたちで、完全に自分の身体を使わず、機械に絵を描かせるということを続けています。

 グラフィティとは本来記名行為であって、1秒で描かれるくらい非常に身体性が濃く反映されたものであって、人間の存在それ自体が一番重要とされます。でも、その人間の存在を抜き去ったときに、何が起こりどう見えるのか? 機械が人間の行為を代替できるのか? そんなことを考えるようになりました。それは作家という表現主体が神格化されることに違和感を感じていたんだと思います。

やんツー

 今回の作品もドローイング・マシンを使ったもので、長い2本のバネでスプレーのデバイスを吊って、吊元が動くことでバネが伸縮し、デバイスが弧を描くように運動します。その軌跡がスプレーによって描かれ、ストリートで見られるグラフィティに近いダイナミズムを持った描線が生成されます。

 僕はこれまで「ドローイング」そのものについてあまり真剣に考えてこなかったのですが、ふたりの議論を聴くなかで、様々なインスピレーションを受けました。そのなかで「Draw」という言葉には「引っ張る」という意味もあるということを知って、まさにその言葉に引っ張られるように壁をワイヤーで引っ張って壊したいという欲望が立ち上がった。この欲望とはなんなのかと考えるなかで作品をつくり、いまだに考え続けているのですが、直感的に「Draw」=「引っ張る」がドローイングの本質なんだろうなと。

 それと、今回はグループ展なので同じ空間に展示する作品を意識するわけですが、僕はふたりの作品が本当に好きで、でも、そのなかで存在感を出すためにはどうしたらいいかを考えました。ふたりとも完成度が高いソリッドな作品をつくってくるので、僕は今回作品を壊すことがある意味正解だなと。

展示風景より、やんツーのセクション
展示風景より、やんツーのセクション
展示風景より、やんツーのセクション

──ヒラクさんは今回の展覧会、あるいはドローイングそのものについてどのようなお考えをお持ちですか?

鈴木 自分はドローイングの拡張領域について実践しているわけですが、もっとも探求している点はドローイングというメディウムが持つ、絵と言葉、つまり「えがく」と「かく」のあいだの流動性なんです。今回は洞窟のような展示空間にしたのですが、氷河期の洞窟壁画においては有名な動物の絵と同時期に、文字の断片のような様々な記号も刻まれています。自分はずっと記号の発生に関心があり、いま生きている環境のなかでいかに新しい記号を発掘するかということを考えているのです。とくに日本は象形文字である漢字の文化圏で、かつて未分化だった「えがく」と「かく」のあいだに対する感受性を持っている。この領域について、僕は書家の石川九楊さんや詩人の吉増剛造さんと話しながら考察してきたし、今回の作品にもそれが反映されています。

鈴木ヒラク

 展示してる3作品に通じていることは2つあって、「光」と「道路」です。洞窟の一番奥に映像作品《GENGA》(これは言語と銀河のあいだを意味する僕の造語です)があるのですが、自分が路上や日常のなかで発見した1000の記号の断片のドローイングをネガポジ反転させてつなぎ、光の線としてプロジェクションしています。

展示風景より、鈴木ヒラクのセクション。奥が《GENGA》

 手前の6つの大きなキャンバスは2016年から続けているシリーズで、土とアクリルを混ぜた黒い下地の上に、シルバーのスプレーやマーカーで闇に光を放つように線を描いています。銀という鉱物の飛沫が無数の点の集合体=星雲となり、その光の点をマーカーでつないでいく。ドローイングの初源的なかたちである星座をつくるプロセスに似ているというところから、「Constellation」と名付けています。

展示風景より、鈴木ヒラクのセクション
展示風景より、「Constellation」シリーズの部分

 床にあるのは《道路標識 カタツムリの歩行の跡》という作品ですが、実際のアスファルトの白線部分のかけらを工事現場から集めてきて、白線(=記号)の断片を再接続することで、直線的な記号だったものを、カタツムリが歩いた後のような曲線(=架空の記号)として再構成したものです。これは道路そのものであって、自分にとって道路は大きなインスピレーション源なんです。僕は「道路イング」と呼んでいるのですが(笑)、道路とは人間が地表に刻んだドローイングであり、自分もこういう制作活動によって自分の道(路)をつくっているという意識もあります。人間がつくる道路だけでなく、獣道や天体の軌道、あるいは腸とかトンネルとかワームホールでもいいのですが、そうしたものは「交通を生んでいる」。僕にとってのドローイングとは、時間と空間に「チューブ」を開通させることで、新たな交通を生むということなのです。

展示風景より、鈴木ヒラクのセクション

──三者三様のドローイング観と作品で非常に興味深いのですが、みなさんは他の作家との線の交わりをどう意識していますか?

村山 描く際の筆跡にもどれだけ力(筆圧)が加わったのかという痕跡が残るわけですが、やんツーくんの作品の場合はエネルギーが均衡しているような状態がワイヤーのテンションから伝わってきますよね。それすらもドローイングとして考えるというのは面白いなと思います。線の強度(intensity)や、線と力(エネルギー量)の関係性をいかに考えるのか、という視点が生まれたことで展覧会が豊かになりましたね。

 僕の場合は、線をどう生成したり組織化するかということに意識が向いているんだけど、ヒラクさんもやんツーくんも、表れた「線」を人間がどう認識し、どんな意味を受け取るのかということについて問題意識として持っているのが興味深いです。

村山悟郎

やんツー さっき言い忘れたんですけど、僕がこれをやった意図としては、鑑賞者の身体の動きを操作できるんじゃないかと考えたということもあります。鑑賞体験って作品の前でじっとしていることが多いと思うんですが、その姿勢を動かすことで見る主体の無意識を掘り起こす。身体の動きが加わることでもっと豊かな観賞体験になるんじゃないかなと。

やんツー

鈴木 パッと見、作品が似ていないからこそ、展示導線のなかで鑑賞者自身がそれらをつないでいくことを楽しんでいただけるのではないかと思います。

 あと、本展のタイトルにある「複数性」ということについて少し補足させてください。今回の展覧会はキュレーターを置かず、3者の複数性のなかで生まれてきたという意味もあるのですが、僕がすごく好きなポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの言葉に「宇宙のように複数であれ」というのがあります。人間は西欧近代が規定した自我というひとつの中心にとらわれず、自己を複数化して、自己と宇宙とを「correspond(コレスポンド=一致、合致)」させることができると言っているわけです。これをドローイングに置き換えると、唯一の中心である人間が外の世界を描写して世界を規定するのではなく、世界を翻訳し、内と外とを相互につなぐ線を見出すという行為こそがドローイングなのではないかとも言える。とくにパンデミック以降、人類は人間社会の外に広がっている世界との関係をいかに再考するかを迫られているわけですよね。同時に、NASAの探査機は地球外惑星の地形の高解像度画像を日々地球に送ってくるわけです。そういう時代だからこそ、宇宙全体のなかに自分を位置づけ、世界を把握し直していくための手法としてドローイングは重要だと思います。

左から児島やよい、鈴木ヒラク

村山 人間中心主義からいかにドローイングを解放するかは僕もとても考えていることです。例えば粘菌が網目状に広がっていく線もドローイングのような感じがするし、ルンバに筆を付けておいてその軌道を刻めばそれもドローイングになりそうだと言える。人間が設定した線だけでなく、非生命体の線にもドローイングの可能性があるのではないか、というのが今回の展覧会に込められたテーマでもあります。人間を中心にとらえないドローイングということで言えば、感知と運動の連動による線(センサーとモーターのカップリング)や、物質相互の反応によって現れる線など、システムの振る舞いが線の質や情報の在りかを定めると考えられると思います。

会期中に制作されていく村山悟郎のドローイング

──いままでのお話を聞いていて、人間中心主義から離れるきかっけとしてドローイングというものがあるというのはすごく意外な発見でした。そう考えると、ドローイングの可能性はもっと広がっていく気がしますね。

鈴木 2005年にファイドンから出版された『VITAMIN D』の冒頭に「Drawing is everywhere」という言葉がありますが、ドローイングとはただ人間が内面を表出するためのものではなく──もちろんそれも重要なことではありますが──僕たちはドローイングに囲まれており、あちこちに見出すこともできるわけです。そう考えると、ドローイングの可能性は広がっていくわけですね。

 僕が以前ルーヴルで行われた「Drawing Now Paris」に参加したとき、自分以外にほぼ東洋人がいないということに違和感を感じたことがあります。日本にはアミニズムの文化があり、自然界の線に対する感受性が鋭敏であるにも関わらず、ドローイングの拡張領域を扱う施設やキュレーターが非常に少ないんですよね。書やマンガに見られるような日本固有の線への感受性が欧米のコンテンポラリードローイングの文脈に充分に翻訳されていないのももったいない。僕は日本に帰国してから「Drawing Tube」というプラットフォームを立ち上げて、世界各地で活動するドローイングのアーティストや研究者たちと共働を始めたり、ダンサーや詩人たちも集めた「ドローイング・オーケストラ」を企画したり、大学で実験的なドローイングを教えたりしているわけですが、絵画すら通過せずに面白いドローイングを表現するアーティストたちも近年増えてきているので、希望を感じています。この展覧会もなにかしら、今後のドローイングシーンが面白くなるきっかけになってくれることを期待しています。

鈴木ヒラク

村山 日本の作家で「自分はドローイングの作家だ」と言っている人は少ないと思うんですが、それは日本のドローイングというシーンがまだ成熟していないからです。もしこの展覧会の評判が良くて、今後もシリーズとして開催できるようになれば、ドローイングシーンの一翼を担えるかもしれません。今回はやんツーくんの作品が出てきてくれたおかげで、「軌跡」だけでなく「糸の操作」もドローイングとして示すことができたし、そこからドローイングを拡張することもできる。「複数性」は「多様性」とは別の概念だと思うので、毎回異なるテーマから複数化する線を提示し、いろんな表現につながっていけばいいなと思っています。

村山悟郎

やんツー 3人とも外部のシステムに委ねて線を紡いでいくことが共通点だと思うんですけど、僕はその方法は機械だけだと思ってた節があります。でもふたりとも別のアプローチで自分の行為を外部化しており、学びがありました。

やんツー

村山 展覧会を通して、線に対する感性が広がっていけばいいですし、展示動線のなかで発見することもたくさんあると思うので、ぜひ展覧会を見ていろいろ感じてもらえたら嬉しいです。

編集部

Exhibition Ranking