無機から有機を生み出したい
山本雄基(以下、山本) こうしてアトリエにまでお邪魔して、親しく話をさせていただいていますけど、顔見知りになったのはわりと最近ですよね。2021年だったかな。
牧田愛(以下、牧田) Tokyo International Galleryで木下令子さんと山本さん、私で3人展「Endless.」を開催したのがきっかけでした。
山本 もちろん以前から作品は見知っていました。実物を初めて観たのは、2017年のアート台北でした。筆跡の残り具合が、画像で見るよりずっとくっきりしていて驚きました。作品ごとに筆致や描写の解像度などをがらりと変えているのも興味深くて。
牧田 そう、ぱっと見ではあまりわからないかもしれないけど、作品のつくり方は個々の展覧会、プロジェクトによって毎回違うんです。
山本 今回はこの描き方にしよう、というのはどうやって決まるんですか。
牧田 エキシビションベースというか、その展覧会のコンセプトや見せる相手によって、毎回新しい構想をしています。作品のテーマはもちろん、サイズから色調まで、それぞれの空間に対してどんな作品をどのように配置したら意図が効果的に伝わるのか、その都度考えています。だから、作品のスタイルや見え方も毎回変わります。
山本 モチーフの選択はどうなっているんですか? 牧田さんの絵といえば、なかに何かが通るような「金属の管」が描かれているイメージが僕にはあったけど、観るほどいろんなものを描いていることに気づきます。
牧田 とくに金属の管にこだわっているつもりはなくて、私としては、無機的な工業製品を使って有機的なイメージをつくりたい。人工のカッチリしたカタチのものを、いかに生きものっぽくグニャグニャにできるかが勝負です。
山本 金属に風景が強く反射していることも、印象に残ります。言うなればこれは映り込んだ全てのものが歪んで映る「鏡」を描いていますよね。
牧田 反射を描くのは私の制作の「キモ」です。反射面は観る側が絵のなかに入り込むとっかかりになりますし、反射によって写り込むもので人間社会を写し出せないかという思いもあるので。反射の様子も含めて、私は自分で撮った写真をPC上で組み合わせ、その図柄をもとに描いていくんですが、もとになる写真はかなりランダムにバシャバシャ撮っていきます。取材や素材集めのために街に出かけますが、ここを切り取ったら作品に使えそうという予想は大体ハズレて、適当に撮っていた写真の方を作品に採用したりします。そうやって、偶然性を作品のなかに呼び込みたいのかもしれない。
絵に偶然性を取り込む方法
牧田 さすが実作者は制作過程の細部にまで目を向けてくれますね。私からすると、山本さんの作品も謎だらけで興味が尽きないんですけど、あの確固たる制作スタイルは制作を始めたころから変わっていないんですか?
山本 いえ学生時代は作風がまったく安定しておらず、月イチでコロコロ変わるほどの状態でした。もともと小さいころから美術を志していたわけじゃなくて、将来のことを考えてみたとき周りの大人で一番楽しそうに働いているのが美術の先生だったので、自分もなろうかなと思ったのが教育大学の美術コース進学のきっかけ。表現したいものがとくになかったから、モチーフも定まらなかった。
それでも運良く大学で現代美術を教えてくれる先生や先輩に恵まれて、僕も何かヘンなことしたいな、おもしろいものをつくってみたいぞという欲求が湧いてきます。ただの自己表現と美術は何が違うのかなと探っていって、最初は美術史上の気になった作品を勝手に解釈して、自作に取り込んだりしていましたね。
牧田 じゃあ最初から抽象画を志していたわけじゃないんですね。
山本 はい、抽象と出逢ったのは大学時代の半ばですね。当時岡本太郎が再評価された時期で、バサバサした筆跡や色の抽象表現を真似してみると面白かったのがきっかけでした。人や食べものや犬や風景といった具体的なイメージを描写して表現するよりも、色やカタチがそのまま表現になる抽象絵画のほうが、制作に向き合いやすいと気づきました。
とはいえ、画面が色だけに還元されるところまでいくと、それはそれでしっくりこないし、気を抜くとありきたりなオールオーバーの画面になってしまう。明確な構造への意識が必要でした。探究したかったのは純粋にカタチ同士の相互作用とか、カタチが重なったときの色の見え方とか、何層にも重なったレイヤー同士の共鳴のしかただった。それで描くカタチは、だんだん純粋で歪みのない正円に落ち着いていきました。
作風を固める過程では、外部からいろんな影響を受けましたけどね。透明層のレイヤーを挟み込むようになったのは、周りの先輩作家たちが色々な透明素材を実験していたのが直接の影響ですが、僕もおそらく先輩方も、シグマー・ポルケの透明なシートに重ね描きする作品や、プラスチック樹脂を塗り込める大竹伸朗さんの「網膜」シリーズなどの影響を受けていた。
その後、岡崎乾二郎さんの作品と著作に決定的な影響をもらったり、コンペで菅木志雄さんに評価をいただけたことで、抽象を続ける自信につながりました。
牧田 カタチが正円に落ち着いたのは、いちばん純粋だからですか? 四角や三角じゃやっぱりダメ?
山本 そうです、四角や三角を平面に置くと、なんらかの方向性が生じてしまう。正円ならそういうことはなく、余計な要素が出てこなくてもっとも都合がいい。それにしても、作風がコロコロ変わっていた自分としては、正円を描くこともそんなに長くは続かないだろうと思っていましたが、これはずっと自分のなかに留まっていますね。正円を使ってやりたいことが、いつまで経っても尽きないんですよ。
牧田 私は絵に偶然性を入れ込みたいと考えているんですが、山本さんの作品には偶然性の入り込む余地はあまりないですか?
山本 偶然性は僕にとってもすごく大事な要素です。たしかに僕の絵は、平らな層を積み重ねるとか円が重なった際の色変化やくり抜きのパターンなど、はっきり説明できるようなシステムがいくつもあります。枠を決めておいて、そのなかでできるだけバリエーションを出すことで、狭い自己を超えられるような表現をしたいんですよね。
システムを優先させるには、僕自身のコントロールが及ばないしくみをつくったほうがいい。そこでいままで試してきた方法は、アシスタントさんに、まず画面内に好きな円を描いてもらい、その円を始まりとして作品をつくっていく方法。または、画面に描いた円のそれぞれに番号をふって、色の名前を書いたクジとひも付けて、引いたクジの通りに色を塗っていく方法などです。そうやって自分の作品の一部を偶然性に委ねるんです。そのほうが新しいバリエーションが生まれやすいので。いまはオリジナルのアプリケーションをプログラマに開発してもらって、システムにしたがった偶然性の自動生成もできるようになりました。ただし、偶然性に委ねた結果あまりにヘンな配色になったら、自分のセンスに引き戻してしまったりもする。偶然性と自己決定のあいだでいつもせめぎ合いをしていますね。
AI時代でも絵画がいちばんおもしろい
山本 牧田さんの作品を観ていて思ったことがもうひとつ。僕にはこの絵はとうてい描けない。こんな細かく描き込むなんて、気が遠くなりそう。
牧田 どんな大きい絵でも極細の筆で描き込んでいきますからね。そしてキャンバスに絵を描く前のデジタルイメージ制作も含めて、ひとつの作品をつくるのに相当な時間と根気は要ります。それを言うなら私のほうも、山本さんのやっていることはとてもやりきれないと思います。円を延々と描き続けるわけですよね? トランス状態にでも入らないと無理ですよ。
山本 なんでこんなストイックなモチーフで、こんな労力のかかる作風になってしまったんだろうとは、自分でもたまに思います(笑)。
牧田 同じくです(笑)。でも私、自分でやりたいからこんなつらいこと、やってるんですよね。ちょっと不思議ですが。
山本 同感です。やっぱり絵画が自分の性に合っているし、いまは本当にいろんなメディアがあって何をしてもいいんだけど、僕には絵画が一番面白い。何がそんなにいいのかといえば、作者と作品がペタペタ塗る行為を通して直結しているところじゃないでしょうか。
例えば300年前に描かれた古典絵画を観ても、「作者はこの部分、こんな意図を持って筆を順にこう動かして描いていったんだろうな」というのが物質の痕跡から読み取れるじゃないですか。時間を超えて作者・作品と直にコミュニケーションがとれるというか。あとは絵具という物質を混ぜ合わせることで、いろんな変化が見られるのも楽しかったりして、やめられないんですね。
牧田 絵が一番面白いと思っているのは、まったく同じです。ただ私の場合は、「絵だけど絵じゃないもの」を絵でつくりたい。自分のなかでそんなチャレンジをしているつもりです。
父が彫刻家だったので、幼いころから父のアトリエに入り浸っていました。そこでずっと絵を描いていて、そのまま画家を志すようになったんですけど、絶えず目にしていた立体の要素も自分のなかには染み付いています。それでいつしか、絵だけど動きのあるものや、絵だけどそこに量感があってさわれそうな作品を志向するようになりました。
山本 動きや量感を絵に置き換えることで別の可能性を帯びるということですよね、わかります。例えば映像には始まりと終わりがあって、鑑賞者を時間で縛ることになるのに対して、絵はどこから入ってもどこから出てもいいし、1秒でも10時間でも好きに見ていればいい。そう考えると、絵は動かないけどかなりインタラクティブで自由度が高い。彫刻だと重力の働きや3次元を意識せざるを得ないけれど、絵画はその点において、画面内なら重力も次元も歪めた調整ができます。絵画にも特有の制約は色々あるけれど、僕にとってはその制約以上に拡がりを感じられます。
牧田 絵は止まっていて動かないものだけど、私はそのなかでイメージを動かしたい。見ているあいだ、脳内で絵が動いていく感じというか。
山本 絵のなかに動きを発生させたい、という欲求は湧いてきますよね。止まっている絵のなかでも時間を扱う方法はいろいろあります。例えば僕の作品はおよそ10層のレイヤーを重ねてできていて、1層目のほうが10層目より前に描いたのは明らかなので、そこには時間の層が存在していると言える。奥にあって古いはずの1層目が新しい10層目より強い存在感を放っていたりすると、時間を逆転させているような効果を出せます。過去に描いた円が未来の円を侵食していくわけですね。絵のなかでの時間の動かし方のひとつです。
牧田 そうした工夫を重ねることで、絵にリズムが生まれるんですよね。私がよくするのは、絵のなかにあえてピンボケした部分とクッキリと見える部分をつくったり、通常の遠近法を狂わせるような角度のモチーフを入れ込んだりします。すると、写真のような具象絵画に違和感が生まれ、画面にグッと動きが出ます。
平面のなかに描く側が、あらん限りの工夫を施し思いを込めているのが絵画という存在。じっくり観れば観るほど、いろんなものを汲み取れるのだと思います。そういう意味では、絵を自分の手元に置いて日々眺めると、その作品のいろんな顔を覗くことができてきっと楽しいですよね。
山本 その通りだと思います。僕は以前実物を見て衝撃を受けたマティスの絵画作品《金魚》の印刷をアトリエに貼っています。もう何年も経つのに、いまだに新しい要素を見つけることがあって驚きます。一枚のなかに本当にいろんなことが織り込んであるものなんですよね。例えば金魚の位置が水中と屈折した水面とで変わっているんですけど、それは屈折に重ねて時間のズレも表しているんだろうとか。テーブルの足を隠してあるのは、床面を定位させる要素を見えなくすることで、空間を安定させないようにしているんだろうとか。一見かわいらしい絵なのに、さりげなく時間と空間を揺るがしているところがヤバすぎる(笑)。
何年も見続けたのちに、ようやく気づくことがある絵画っていいじゃないですか。そういう作品をつくりたいものですよね。
牧田 AIがスラスラと絵を描く時代ですけど、そんなこととは関係なく、人は絵を観ることも描くこともやめないんじゃないでしょうか。筆と絵の具を持ってキャンバスに向き合うその行為自体が楽しくてしょうがないのだから。
山本 そうですね。ツールとしてAIとどう戯れることができるかを考える面白さはあるけれど、絵を観たり描いたりする楽しみを手放す必要はまったくないですね。