2022.6.3

【DIALOGUE for ART Vol. 5】美術史と向き合いながら、共有アトリエで新しい具象/抽象表現を目指すふたり

「OIL by 美術手帖」がお送りする、アーティスト対談企画。武蔵野美術大学(以下、武蔵美)の同期で、現在、東京・渋谷のbiscuit galleryで開催中の個展「ノンフィクション・イメージ/それを隠すように」に向けて制作中であったふたりに、出会いから現在までについて話を聞いた。

文・写真=中島良平

ふたりの共同アトリエにて。長島伊織(左)と山田康平(右)
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制作に共通する身体性

──おふたりは武蔵野美術大学で同期ですが、出会った頃の話を聞かせてください。

山田康平(以下、山田) 伊織は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)から3年次に編入してきたんですけど、それまでもSNSで作品を見て知っていて、良い感じの絵だなと思っていました。でも作品は知っていても、伊織という名前から、女性なのかな、と予想するくらいの情報しかなかった。作品はストイックだなと思っていたけど、実際に会ってなぜそう感じたかがわかった。デッサンやドローイングでトレーニングをする時間を多くとるし、制作スタイルが影響していると感じました。

長島伊織(以下、長島) 武蔵美では3年の後期に「コンクール」という模擬の卒業制作みたいなものがあり、そのときにアトリエが一緒でよく話すようになりました。時を経て再び、現在のアトリエで一緒に制作するようになりましたが、山田はその頃からまったく変わってないと思います。突然やってきて絵を描き始めるとか、作品の画面こそ変わりましたけど、描くプロセスは変わっていない。山田にいまどういうものが見えていて、絵になっていくのか、というのはなんとなくわかります。彼も自分もスポーツをやってきたので、身体性に基づいて絵を描いているという共通点は感じますね。

山田 自分はゼロの状態からスタートして、ドローイングも一切しないです。ゴールは突然訪れるので、ギャンブルみたいな感じはありますね。布に下地剤を塗って、オイルを浸してから絵を描き始めると、立てたときに色が垂れている。そこから拭く作業もよくしますし、「絵とのやりとり」は多くて、テレピンで画面を消しながらつくっていく作業も多いです。

長島 自分の場合は、おおよそ目的地は決まっていて、マップを使うときと使わないときがあるという感じです。ドローイングもたくさんして、青写真のある状態からスタートするときもあるけど、素材が違うものでドローイングをしているので、キャンバスに入ったらイレギュラーも起こります。なので、取材の時間が大切ですね。事前準備の時間のほうが長く取れていると、キャンバスに入ってからは速く着地できることが多い。

長島伊織個展「ノンフィクション・イメージ」/山田康平個展「それを隠すように」展示風景より。会場1階にはふたりの作品が展示され、2階で山田、3階で長島の個展を実施
山田康平
山田康平個展「それを隠すように」展示風景より

山田 伊織は同じモチーフを描くときに、アプローチや目標を変える?

長島 いや、だいたい同じ目的地がある。例えば、車で行くか自転車で行くかによって迂回することになったり、近道があったりするじゃないですか?方法によって、自分の求める目的地にどう近づくかが変わってくる感じかな。同じモチーフを描くときに、方法を変えることで以前は出てこなかった何かが出てくるのではないかと、期待しているところがある。ポートレイトを描くとしたら、構図などは一緒だったりするのだけれど、目的地までの行き方は無数に選択肢があって、知らない道に入ったときにしばしば奇跡が起きることがあるよね。

山田 奇跡的に生まれた作品に比べると、ほとんどの作品が駄作になるんだけど、でも、駄作を出せない作家はダメだ、みたいな話もするよね。ここで言う駄作は、100点満点で80点以上を出すという最低のボーダーラインをクリアしても120点ではない、つまり奇跡から生まれた作品ではないということ。駄作を経て、奇跡を生み出したい。

長島伊織
長島伊織個展「ノンフィクション・イメージ」展示風景より

イメージのとらえかた

山田 伊織はイメージのなかで画面を動かしながらつくっていて、自分はいまイメージを使わないで描くようになったけど、共通言語はそこまでズレていないと思う。絵画のなかの絵画みたいなところで画面をつくっているのは共通していて、いわゆる具象絵画と抽象絵画って分ける必要はないんだけど、あえてそこを分けて話す機会は多い気がする。

長島 自分の絵は具象なのは間違いなくて、山田の絵は抽象だと思うけど、ものの見え方などで共通するものを感じる。絵画っていう1本の軸があって、その右側が具象の領域で左側が抽象だったとしたら、ちょうど座標軸の対象の位置にふたりがいる気がするもんな。

山田 おたがい絵は変化してるけどね。京都芸術大学の大学院に2年行って、例えば支持体にしても、普通の中目の布から荒目の布に変えて絵が変わったと思うけど、伊織も裏麻のボソボソしたような支持体に描くようになって、面的な要素が強くなったと感じる。イメージのなかで筆致を追いかけていたのが、裏麻に染み込んだ色の面として絵具が載って、そこでレイヤーが生まれてイメージをつくり出すこともあれば、イメージ同士が動き始める物語を身体性をもって描いているものもある。

長島 すごく矛盾してるんだけど、イメージを動かしたいいっぽうで、止めて閉じ込めなきゃいけないとも思ってる。単純にデッサンが上手だと動いて見えるかといったらそうでもないし、対象の見方にしても、その画像が自分で撮ったものなのか、ウェブで見つけたものなのか、はたまたそこにいる人を見て描いたものなのかによって、描き止めようと思うものと、動かしたいと思うものは変わってくる。自分は「距離」っていう言葉を使ったりするけど、遠いものを引き込んだり、近いものを遠ざけてみたりして、矛盾のなかでイメージと接して出力の仕方を探る。

山田 インターネットで落ちてるような画像をモチーフに描いてるときに感じるんだけど、インターネットの画像ってすごく止まってると思わない?

長島 うん。止まってる。

山田 実際の人を見て描いてるときは、動き回ってるわけではないけど人体のエネルギーを感じていて、それをどこで止めようかとするわけだよね。いっぽうでインターネットの画像は止まっててつまらないものかもしれないけど、そこに動きを与えようとしているように感じて、それがすごく面白いと思う。

島 自分はイメージが好きでイメージを描いているところがあって。そこに物質とか、ある抽象性が出たときに困ってしまうことがある。「フィギュラティブ」(具象的な表現をとり、対象を作品化)ギリギリのラインを攻めたいが、平面性を獲得しようとして光を取り去ったら面的にはなるけど、そこで失われるイメージもある・・・・・・。矛盾するなかで、絵画でできることの選択肢は多すぎて、まだまだいろんな表現ができると思っている。

山田 自分は、イメージはインスピレーションでしかなくて、そこを出発点として、四角の枠のなかでどう画面をつくれるかという意識が強い。だから、色や筆致など「描く」ことにおいて、どこで止めるか、どこから描き始めるかに執着がある。その際、アクション的なところで絵はつくりたくなくて、ざっと流しただけだったり、絵具を投げつけたり、ではなく、意思を持って絵を完成させたいと思っている。

 戦後アメリカの抽象表現主義や印象派、近代以降のペインティングに興味があるのですが、以前、直島の地中美術館でモネの作品だけが展示された部屋で彼の絵を見たとき、モネはペインティングの筆致のバリエーションを全部やっていて本当にすごいと思ったことがありました。自分もそこを超えていかないといけないと思っています。

長島のアトリエ。「取材の時間」に使用したと思われる書籍が各所に積まれていた
山田のアトリエ。取材時は制作中で、床は大量の画材道具であふれていた

絵画の「約束」と向き合う

山田 いまはSNSやウェブ上で作品を見る機会も多く、購入するときにもモニターの小さな画像で判断したりする時代。自分はそのように見られることを意識していて、小さい四角にぎゅっと閉じ込められたときにどう見えるかを考えつつ、でも実際にペインティングを見たときにはまた違いを出したいと思っています。フラットなスマホの画面で見たときに、例えば、厚塗りした絵具の盛り上がりは鑑賞体験の充実度を感じさせます。しかしそういうアクション的なところがないなかで、自分だったらどう充実度を高められるかを意識しています。

山田康平個展「それを隠すように」展示風景より。《Untitled》(2022)

長島 自分は、なれるものならバロック時代のヨーロッパに生まれて古典絵画を描いてみたかった、と思うくらいバロック時代の絵画や印象派の絵画に影響を受けて絵を描き始めた。なので、それぞれの時代の素晴らしい作品にたどり着きたい自分もいるし、いっぽうでそこからもっと遠くに行きたい自分もいます。

山田 伊織がよくもっと下手に描きたいと言うけれど、それは名作のような完璧さから外れる行為、ではない?

長島 下手に描きたいというか、光やかたちが細かく描けていて上手い、で終わらないものを獲得したい。ミヒャエル・ボレマンスの絵画が古典絵画やシュルレアリスムへのアプローチであるように、美術史における絵画という伝統的な「約束」と向き合いコンセプトを明確にする必要がある。またその流れてきた時間やストーリーのなかに自分もいることを、具象絵画を描く身としては考えなければいけないと思う。

長島伊織個展「ノンフィクション・イメージ」展示風景より。《Portrait》(2022)
山田康平個展「それを隠すように」展示風景より
長島伊織個展「ノンフィクション・イメージ」展示風景より

山田 自分も、抽象絵画を描くうえで、自分はどのようにアプローチすべきかを考えています。DIC川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」で作品を見たときに、サイズが全部大きいこともあって、作品に包まれるような感覚がありました。そういう感覚も目指していきたいが、もっと繊細で、「丁寧な抽象画」を描きたいと最近は考えています。じつは自分の作品は、小さいサイズのほうが好きなんです。小さいサイズでできる本当に良い絵は、大きなサイズの絵を凌駕すると思っていて、そこに挑戦したい。

──抽象絵画で展示空間をどうつくるか、という話にもつながってきますね。

山田 そうですね。少し前に森美術館で「アナザー・エナジー」展を見たときに、社会性の強いコンセプトのインスタレーション作品や映像作品のなかに抽象絵画が並んで飾られていて、その展示構成がめちゃくちゃ良いと思ったんです。言語化できない何かを感じられたというか、ホッとさせるような感じがあった。世界の厳しい情勢は依然として変わらないけど、そこに気持ちが休まる場所もあるんだということを抽象絵画が感じさせてくれたような。言葉にできないことを画面にするように、抽象絵画に向き合っていきたいと思います。

長島 イメージを見ただけでそこから物語を感じられるように、具象絵画を突き詰めたい。僕の想う究極のストーリーは、見た世界や時間、様々なものが宿るその人自身。そこをポートレイトで描きたい。僕は具象絵画に対して怒りを持って描いているところがある。自分に対してもそうだけど、見えていないものを描こうとするなとか、そこにその筆致は必要なのかとか。カッコよく見せる方法論はあるけど、それが必然じゃないのなら描くべきじゃないと考えていて、掘って掘って出てきた奇跡を拾いたい。『HUNTER×HUNTER』のネテロ会長という作中でも最強クラスのキャラクターがいるのですが、魅力的な登場人物が出てくるなかで、彼の技は祈りから放たれる音速の正拳突き、というようなシンプルさでめちゃくちゃ強いんです。僕はそういうようなかたちを目指しています。

 そして、自分と対象と絵の距離をどんどん近づけることによって、強度のある作品を生み出し届けられる距離を伸ばしたい。作品を作っていくなかで自分自身まだ見たことのない世界にも、絵が連れていってくれると信じてます。

アトリエでの長島伊織(左)と山田康平(右)

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