「キュレーション」の問題
──この展覧会を訪れた人は「指示書を読まない人」としての「通行人」、「指示書に従わない人」としての「観察者」、「指示書に従う人」としての「制作者」の三者に分けられることになっています。なかでも「制作者」は能動的な行動を取るべく「演出」の影響下に置かれ、例えば「電子機器を開くこと」が禁じられたりすることによって没入の契機が与えられます。僕が気になっているのは、ここで「指示書に従う人は「制作者」という役を演じる」とされていることです。つまり、この没入は「演じられたもの」なのでしょうか? それとも「本当の」没入が想定されているのでしょうか?
少し前の話とも重なりますが、僕は高校生の頃、小説家になりたかったんです。そのとき、「今・ここ」とは違う物語のなかに没入することの楽しみを享受していました。しかし、今はフィクションについて別の視点からも考えるようになっています。お金も一つの虚構だし、政府も一つの虚構だし、日常も一つの虚構であって、それらは小説や映画と同じなのではないかと。それではなにが異なるのか。それは、虚構がもつ実在性(リアリティ)の濃度ではないかと考えています。
──「実在性の濃度」とはなんでしょう?
小説は現実と虚構という二項対立を用いることで、現実という虚構の安定性を揺るがせない構造になっています。つまり、本を閉じれば現実世界に戻れると、建前上はそうなっているのです。もちろん、真のテキストの快楽は現実という虚構の安定性を揺るがしうるものでもあるのですが。近代国家もベネディクト・アンダーソンが指摘するように、「想像の共同体」なわけです。政府は制度を整え、教育施設、国語、伝統、法をつくりだすことで、近代国家という虚構が持つリアリティの濃度を高めたのです。それは共有される虚構として機能するようになりました。
同じように、虚構を生活のレベルで機能させるためには非常に多くの労力が必要になります。法定通貨であれば国家の安定性や歴史の蓄積が信頼を担保するだろうし、ビットコインであればデジタル暗号を読解されないためのセキュリティ技術であったり、P2Pでのトランザクションを成立させるブロックチェーンの設計が信頼のプロトコルになります。近代国家は想像の共同体なのだからリアルではないという主張は間違っています。なぜなら仮に他のシステムを制度や法からつくり直し、伝統を再創造し、人々の習慣を一から構築し直したとしても、それもまた一つの虚構なのですから。様々な仕方がある、それだけのことなのです。
僕は日常のなかで虚構の実在性を成立させている構造を学習し、異なる仕方で組織化し、制度を構築することで、別の虚構にリアリティを持たせることができると思っています。僕たちは有限性のなかにいて、例えばそれは「ヒト」という動物の生物的限界かもしれないし、空間を成立させているモノの物理的制約かもしれないのですが、そういった前提条件を学び、制度の継続可能性や冗長性を生み出している前提について学ぶことから、異なる仕方への道を歩めるのではないかと考えています。つまり、「一つの現実と娯楽としての複数の虚構」ではなく「複数の虚構と実在性」という図式へと移行するためには、フィクションを現実に疲れた人々の逃避場として提示するのではなく、すべてはフィクションであるということ、さらには日常や現実と呼ばれている「現在のフィクション」とは異なる仕方で継続可能な虚構を制作しなければならないと思っています。
繰り返しになりますが、重要なのは、虚構に実在性を血肉化させるためには、人間やモノを成立させている前提条件を十二分に学ぶ必要があるということです。「貨幣制度は格差を生み出すから所有をやめよう」とか「家族制度には欠陥があるから結婚制度を廃止しよう」「これからはシェアや地域での教育だ」などといった主張はいつの時代も見られますが、なかなかうまくいきません。それこそ、そういった主張はプラトンの書物のなかにも見られるのです。人間は所有という欲望を持っているという前提条件を無視して理想を語るだけでは継続可能な虚構を制作することはできません。異なる虚構を継続可能にすることは芸術だけでなく建築やビジネスのような様々な領域とも関わる重要な問題だと思っています。現状の「所有」や「契約」の概念が保証していることから目を背けて、都合の良いことを言うだけでは、虚構は継続可能性を持ち得ません。現状の制度や概念がいかに人々の欲望と不安と複雑に絡まっているのかという問いと向きあい、良くも悪くも継続可能な仕方で持続している仕方を学ばなければならないのです。日常という虚構を成立させているのは単純なロジックで説明できないものであり、それに対置しうる虚構を受肉することはとても難しいことだと思っています。
僕たちは普段から虚構の上で演技することで社会生活を営んでいます。社会性とは演技という概念から切っても切り離せません。今回、僕が行ったことは一つの虚構をつくることです。「別の虚構」という建前の上で異なる振る舞いをつくることです。しかしたんに言語のレベルだけでなく、その概念を「演じる」ことですでに身に付いている振る舞いの上に血肉化したいと考えています。フィクショナルなものの力は社会のなかでもっとも強く作用しています。そして僕はそれに対して、異なるフィクション=虚構によって抵抗できないかと考えました。もちろん、それを継続可能な仕方で生み出すことは並大抵のことではなく、今回それが成功したとは言えません。しかし、これからも取り組んでいきたいと思っています。
──他方で、それは「演出」であることを自ら証言しているという点で、そこにはフィクションでない「外部」が存在していることを示唆しているように思えます。例えば僕の場合、矛盾した言い方をしますが、「正しく」制作者であるためには、その指示に従いながらも能動的に指示を逸脱するべきだと思いました。制作者からのこのような反応をキュレーターとしては歓迎しますか?
虚構という問いの外側に真の現実があるという考え方を僕はしていません。ある虚構の外側には別の虚構があるだけです。さらに「正しく」という言葉も文字通りの意味で使うことを僕は好みません。もし僕が「正しく」という言葉で言えることがあるとするなら、それは「それぞれの仕方で」とか「別の」ということを意味しています。また「演出」という言葉も、「演出」があり「現実」があるという意味ではなく、ある「演出」があり「別の演出」があるということを意味しています。
──それはもちろんわかっています。僕が聞きたいのは後半の内容で、「演出」や「演技」という概念が「演じられていない素の状態」という観念と言葉の水面下で一蓮托生であるがゆえに、想定されながらも直接触れることのできないカッコ付きの「現実」が影のように付きまとってしまう。それをどのようにして回避するのかということです。
「指示書に書かれていることは現代美術好きなら自然にやっていることで、わざわざ指示されるような内容ではない」とSNSに書き込んでいた人がいたのですが、それを見て僕の意図があまり伝わらなかったのかなあと思いました(もちろん、伝えきれなかった僕に問題があるのでしょうが)。僕は「自然にやっている」とか「無意識的に」とか「普通に」とかいう言葉が持つ危うさに不安を感じています。なぜなら、「自由に」とか「自然に」などと言い、これまでの振る舞いを「無意識的に」行わせることはその振る舞いが無数の振る舞いの一つであることを忘れさせる可能性があるからです。僕はその「自然に」とか「無意識的に」と人々が呼んでいる振る舞いに、こちら側で指示書という「型」を与えることで、まずは「人工的に」「意識的に」「特異的に」してみること、そうして意識化することで生じる抽象空間での作品群の関係性の発見、あるいは操作可能性を生み出し、異なる仕方へと開かれることを目指しています。
そのとき僕は、日本の茶道や武道など「道」において大切にされてきた「守破離」という伝統は重要になると考えています。まずは「型」を与えること、そして「守」「破」「離」させること。そうすることで、それぞれの振る舞いへと開かれるのではないかと考えました。事実、展覧会期間中に様々な人が自発的にレビューを書いてくださったのですが、そこには作品と作品、作品とステイトメントの関係性について、指示書以上のことが書かれており、嬉しい驚きがありました。なので、原田さんがそう思ってくれたのなら、僕の意図が原田さんには伝わったようでとても嬉しいです。
──無難なキュレーションは、来場者を「演出」せずに自由に見てもらいたいと表明します。あるいは実際に「演出」していたとしても、そのことは透明化される傾向にあります。そういう意味で僕は「黒子」や「裏方」という言葉を模範的に用いる態度が嫌いです。しかし、本展のスタンスはその逆だと思いました。上妻さんはキュレーターとして、作家や来場者とどのような関係を結びたいと考えていますか?
重要な質問ですね。僕にとって「演出しない」ということは、「演出」を社会の常識や習慣に任せるということを意味しています。なので「演出」しないキュレーションというのは僕にとってはキュレーションではないということになるのです。ラディカルだと言われたとしても、僕にとってはそういうものです。それは僕にとって自らの理論的な帰結でもあります。
作家とどのような関係を結びたいかという質問ですが、僕は作家に対してステイトメントや対話のなかで指示をしていきながら、しかし、それが直接的な影響(強制)ではなく間接的な相互生成であるべきだと考えています。今回指示書をつくるにあたって、展示作家である三野新くんの過去の演出作品で使用した観客指示書などを見せてもらい、それを熟読した上で対話し、展覧会をつくり上げていったという経緯がありました。作家が一方的に僕の影響を受けているのではなく、僕自身も作家との対話のなかでプランをつくり上げていったのです。
また来場者との関係ですが、僕は作家、空間だけでなく来場者にも「演出」をしたいと思っていました。今回であれば「鑑賞者」「制作者」「通行人」のような仕方で介入しています。
──本展は副題で「無数の異なる身体のためのブリコラージュ」と題されています。そのタイトルを知った上で展覧会を見て、正直なところ違和感を覚えました。確かに指示書によって「別の身体」が得られた感覚はありましたが、それは決して「無数の身体」ではなく「別の/一個の身体」であるように感じられたからです。
非常に重要な指摘です。たしかに僕たちの身体は一つであり、無数の身体は論理的可能性としては存在しますが、現実的には存在しません。なぜなら僕たちは有限な存在者だからです。しかし、ここで問題にしていることは我々の身体が社会のなかで習慣化され、規格化され、標準化されているということです。思い返してみると、僕たちは旅行に行こうが、展覧会に行こうが、ファストファッションに身を包み、ファストフードを食べ、同じような習慣を繰り返すことに無意識のうちに安心を覚えるのです。それは日々を安定して送るためには必要不可欠なことでもあります。今回の僕の狙いは「一つの身体のなかに無数の身体をつくる」ということではなく、「抽象化された一つの原型としての標準的身体から離れて各々の身体を制作する」ということなのです。しかしながら、もし仮にそれぞれが単独的な身体を「生成」することができれば、社会には標準化された一つの身体ではなく無数の身体があるということになります。社会における一つの標準化された身体、原型としての基準としての身体ではなく、各々が単独的な特異的な一つの身体になるのです。それは同質であることからくる抑圧や禁止ではなく、それぞれの差異への、つまり他者への想像力を切り開くという意図もあるのです。
──そこで最初のカテゴライズの問題とつながってくるのですね。それはそれぞれが「奇形化すること」と換言できるかもしれません。そうした意図がどのような実践によって実現されたのかを知りたいと思います。この展覧会はスタティックな「展示」だけに留まらず、ワークショップなどの「上演」がひっきりなしに行われたことも大きな特徴の一つでした。そして、むしろこうした上演の方が「特異的な身体」の生成に向いているように思われます。この点についてはいかがでしょうか?
それぞれがそれぞれの身体を作るということを目指しているので、もしそのことに成功すれば僕は必要なくなるでしょう。それぞれがそれぞれの振る舞いで生きていけばいいのですから、僕のような役割の人間はその時もはや必要ではない。しかしながら、僕にはまだ正解が分かっていない。どうすればそういうプラクティスが行えるのか分からないのです。だからこそ、他の様々な方法を模索しています。
例えば会期中に開催したワークショップ(*1)では、参加者が各々の指示書を書き、それを僕のテーマである「二人称」ということとつなぎ合わせ、ランダムで選ばれたペアを組んでもらいました。その上で指示書を交換し、お互いにお互いの振る舞いを演出しあってもらったんです。
それぞれがそれぞれの指示書を書くと、まさに私小説のようなものができあがります。私小説とは近代的な自我を記述したものです。それを演じることは無意識の振る舞いを意識化し、操作可能にするという意味でも役立つかもしれません。あるいは逆に、自分とはこういう振る舞いをする人間なのだと現時点でアイデンティファイしてしまい、逆に近代的な人間観を強化してしまうことにつながるかもしれません。よって、ワークショップではそれぞれがそれぞれの現時点での「私の記述」を演じるのではなく、それぞれの現時点での身体を交換するという方法を取りました。
その目的は、第1に自らの現時点の記述を他者に振り付けることを通じて、自分の振る舞いを可読化した上で、その操作可能性を意識化することです。第2に、自らの振る舞いを意識化しつつ、他者の振る舞いを自らの身体に振り付けらることによって、他者の身体を部分的に取り入れることができるようになります。それはこれまで反復してきた習慣とは異なる振る舞いを「ある建前」という舞台の上で演じることで、別の身体に対する潜在的な可能性を開くことに繋がります。言語上の建前から身体上の建前へと移行することを目指したのです。
これは言葉にすると容易なことに思われるかもしれませんが、とても難しいことです。僕たちは無意識のうちに同じような習慣を繰り返すことに安心感を覚えます。他の習慣を取り入れるということを、一人でいることから導き出すことはとても難しいことなのです。そこで「一人称―二人称の交換」という方法論を取ることにしました。今回のワークショップやイベントを行ったことで、かなりの発見があったのですが、一方で「一人称―二人称の交換」を従来の方法で達成することは非常に難しいということにも気が付くことができました。
二人称的な誰かと「近くにいること」や「共にいること」は、僕たちが友情や愛情を通じて日常的に経験していることです。しかし、それを人為的に行うことは非常に難しい。これまで現実とされている虚構に対して制作的介入を行うことであぶり出される虚構性について語ってきましたが、「近傍生」や「共同性」を炙りだすことは困難なのです。そこに「偶然性」という言葉が持っている深みを感じました。哲学者や脳科学者が言う「偶然性」とは違ったレベルの、より身体に受肉化する仕方での「偶然性」があるのです。しかも、それこそ「偶然」という仕方で僕たちが普通に経験していることでもあります。しかし、それを意識的に「偶然性」と名付けるや否や、手のひらからこぼれ落ちてしまうもののようにも見えます。恋人同士が「どうして私なの?どうして僕なの?」と問わずにはいられないことにも似ているように思います。説明、意味、理由から零れ落ちる「偶然」という本質が僕たちの根底にあるように思われます。僕はそれがなんなのか、今は考えている途中です。
──「偶然性」というタームの導入によって、「奇形的なもの」、近代のカテゴリーの問題、「無数の身体」の獲得など、様々な話題が繋がってきたように思います。そのようにいくつものアイデアを経由しながら、最終的に上妻さんが実践したい振る舞いはどのようなものですか?
僕にとって本質的なことは「いかにして世界を変容させるか」ということです。それを可能にするのは政治的な領域なのか経済的な領域なのか、そんなことは僕にはわかりません。世界を変えたいのなら、政治家になれとか金持ちになれとか言ってくる人もいます。でも、僕にとって世界を変えるとは、社会に制作という仕方で関わりながら、概念をつくり、それを血肉化するための方法論をつくり出し、それを実践する精神力と体力を保つことなのです。「そんな夢みたいなこと言うな、甘っちょろい」とよく言われます。たしかにそうかもしれませんが、僕には「僕は僕の仕方で生きていくよ」としか言えません。僕はなんでもできる人間ではなく、僕の仕方でしかできない不器用な人間なのです。
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