十和田市現代美術館の企画展「劉建華 中空を注ぐ」では、2001 年から 2022年の21年間で制作した、磁器による6作品を3つの展⽰室と廊下で展⽰されている。アーティスト活動の変遷を追うとともに、中国という国の移り変わりを感じさせるものだ。
劉建華は1962年江西省に生まれた。当時の日本は高度経済成長期にあり、東京が世界初の1000万人都市になったのもこの年だ。対して中国は1958年に起こった歴史的な大飢饉の直後であり、毛沢東政権による政治・経済・社会の混乱は70年代まで続いていく。劉建華が生まれ育ったのは、中国が歴史的大転換を迎えるまさにその只中だった。
その後、中国に現代アートが勃興する1980年代に芸術を学び、グローバリゼーションが劇的に進んだ2000年代初頭に、その最前線といえる上海に拠点を移しており、中国という国の成長と変化を間近で見つめ続けてきたアーティストのひとりと言えるだろう。経済的発展と比例するように、次々に新しいものが生み出されては瞬く間に消費される繰り返しは、物質的な豊かさと裏腹に社会という空間を空虚で満たしている。劉建華の作品はそうした現代の都市に充満する繊細で空虚な空気そのものを体現しているのだ。
景徳鎮の職人からアーティストへ。空間と呼応する白磁のアートはどのように誕生したのか?
──今回の展覧会では、アーティストとしての足跡を振り返るように過去作から最新作まで様々な時期の作品が展示されていますね。彫刻を志すきっかけはなんでしたか?
劉建華(以下、劉) 私のキャリアは景徳鎮で始まりました。景徳鎮は世界的な磁器の街として知られており、その歴史は1500年以上といわれています。私は景徳鎮で育ち、10代から師匠である叔父のもとで陶芸制作の修業をしました。厳格な叔父の教えのもと、絵の描き方から陶芸制作の各工程まで、職人としての技術を熱心に学び、20歳のときには景徳鎮美術工芸の最高賞でもある「景德镇陶瓷美术百花奖」を受賞しました。こうした職人としての経験は、同世代のほかのアーティストにはないものです。
当時、1980 年代初頭の中国は文化や芸術に対して開放的で、国内に美術学校や芸術家グループがたくさん誕生しました。私は磁器工場に務めていましたが、こうした芸術的な機運の高まりに強く影響を受けていましたし、海外のアートシーンを知るために美術雑誌のページをめくっていました。私はまだ若く、孤独を嫌い、そして大きな理想を抱いていましたから、本当は工場を辞めて外の世界へ行きたいと思っていました。工場で働く先輩の職人たちの姿が、そのまま私の将来の姿だとわかっていたからです。彼らのようにずっと同じ場所に住み同じ場所で働くのではなく、自分の仕事に特別な意味を実感し、人生がもっと彩り豊かなものになることを願っていたのです。
陶芸から彫刻へ進路を変えたのは、ロダンの作品との出会いがきっかけです。1978年に『ロダンの芸術論』を読み、まるで粘土が手のなかで生命を吹き込まれるようなロダンの独創的な表現に感銘を受けました。私が働いていた磁器工場が景徳鎮彫刻磁器廠という名前であり、じつは幼い頃から彫刻にとても興味があったのです。いよいよ私は工場を離れる決心をし、3年間の準備期間を経て大学に進学し、彫刻を学び始めました。
──彫刻を学び始めた当時、陶磁器についてはどう考えていたのですか?
劉 当時の私にとって陶磁器はたんなる美術工芸品の材料であり、芸術の役に立たないと考えていました。選ぶ素材は石、木、銅、石膏、ステンレスが多く、職人時代とはまったく異なる作品をつくりたいと思っていました。尊敬しているロダンやミケランジェロのような巨匠たちの作品を理想としていたのです。
大学卒業後は、雲南芸術大学美術学部で彫刻を教えるため雲南省昆明に移りました。昆明は優れた文化と芸術的な雰囲気を持つ、とても美しい都市です。1980年代には中国美術史にとって重要な芸術グループも形成されました場所です。
私は昆明で多くのアーティストと友人になり、一緒に展覧会を企画したり作品をつくったり、アートについて頻繁に意見交換し、ときには激しく議論することもありました。彼らとの交流は作品のコンセプトにも大きな影響を与えるもので、90年代の初期から中期にかけて制作した「精神的指向──游離」シリーズ、「緑色的生命」シリーズ、そして「不協調」「隠秘」シリーズなどは、私の初期から中期にかけての重要な作品になっています。
──素材に陶磁器を取り入れるきっかけについて教えてください。