きっかけは「マタギ文化」との出会い
──VOCA賞の受賞、おめでとうございます。はじめに、受賞作品《山衣(やまごろも)をほどく》についてお伺いします。本作は秋田出身の永沢さんが実際に体験・観察をした「マタギ」文化を通じて描かれたとのことですが、まずマタギ文化との出会いについて教えて下さい。
永沢碧衣(以下、永沢) マタギ文化と出会ったのは、学生の終わり頃です。たまたま制作に関する取材で訪れた場所が「マタギの里」と言われる場所でした。そこで一晩泊まらせてもらった宿の方もマタギの人で、狩猟の話だけでなく、里山で暮らすマタギの1年間についても話を伺いました。春は山菜を取り、夏場は釣り、秋はキノコ取りをして、 冬は狩猟。こういった、どんなかたちでも山や自然と誠実に向きあおうとする人の精神性に触れるとともに、自分が全然山や秋田を知らないことに気が付きました。そこから4〜5年かけてマタギの里に通うようになり、自身も狩猟免許を取得しました。いまは銃を持ってマタギの人たちと一緒に狩りに行ったりもします。
──今回の受賞作を描いたきっかけや経緯はどのようなものでしたか。
永沢 (マタギ文化に触れてから)毎年出会ったクマを、ことあるごとに絵に描いていました。そのなかでちょうど描きたい子が現れたとき、たまたまVOCAのお話があったんです。
本作のモデルになったクマはマタギの里とは別の場所で出会いました。地元・横手市の猟友会の事業である有害駆除です。人や農作物に被害が出ないよう、夏場に猟期ではない市町村の農家から依頼を受けて、罠で仕留めるかたちで駆除を行います。その一環で捕らえられたクマの解体にも、自分が立ち会っているんです。
横手市は「マタギ発祥の地」と称される阿仁地区に比べてその文化は薄れているものの、どこかに山の神様がいる、とくにクマはほかの動物と異なり、神格化される風潮が残っています。有害駆除というかたちではありますが、傷口に葉っぱをかけて化粧をしたりといった心遣いがあったりもします。解体するときも、捕らえた場所ではなく、綺麗な水場や川の上流に運んで行ったりだとか。文化としての名前はなくても、人の根底にそのような意識がすり込まれているように感じます。自身が狩猟者になって解体の現場にも立ち会うようになってから、同様の感情が湧いてくることにも気が付きました。
クマでクマを描く。
絵画作家として実践するいのちの活用方法
永沢 そのような感情から、今度はクマでクマを描いてみたいと思うようになりました。いままでも日本画の顔料を鹿や牛などの膠(にかわ)で溶いて描くことはしていたのですが、狩猟に携わるようになった自分自身の経験や、生まれ育った故郷の人々の暮らしと深く結びついてきたクマとの距離感を考えたときに、クマを描くのであれば「クマ」という生き物を使いこなす必要があるのではないかと考えたんです。例えば自分が絵画作家なのであれば、膠というかたちで活用できると思ったんです。
──狩猟したクマを余すことなく活用させてもらうことが自然やクマへの敬意でもあるのですね。今回の作品は熊膠(くまにかわ)を用いて制作されたと伺っていますが、このメディウムもおそらく手づくりですよね。どのようにつくるのか、またほかの動物による膠との違いについて詳しく教えていただけますか。
永沢 書物や周りの方からのアドバイスを参考に、はじめて膠をつくりました。使い心地としては粘着性がちょっと高いんです。本作のモデルになったクマは夏の毛皮だったのですが、脂肪分が無く、毛皮の質も少し悪くて。価値が出ない場合は土に埋めることが多いそうです。全国的に動物による被害が増えている現在、駆除をしたあとの活用が難しいと聞き及んでいたなかで、絵画作家である自分ならではの向きあい方があるのではないかと考えました。書物を読んでいると、膠をつくっていた昔の人々も同じような考え方で、いのちの活用方法を模索していたのではないかなと。そういった経緯が熊膠をつくってみようと思うきっかけとなりました。
膠をつくるには動物の皮や骨を煮出してゼラチン成分を抽出する必要があります。あくまで私のいる環境にあわせた膠のつくり方になるのですが、まずは余分な脂を取り除きます。そして毛皮の毛を抜くために糠と酒粕を混ぜたものを塗り込んで2週間置き、発酵させます。その後皮を煮詰めるのですが、じつはすごい匂いがします。服に匂いが染み付くくらい。他人からすると「何してるの」という感じですよね。ただ長い時間関わって鼻が慣れてくると、自分が普段触れあうものとは別の領域で手足を動かしてる感覚が芽生えます。
──作品をよく見ると、クマの体に山や街の風景が描かれていますね。これらは永沢さんの地元、秋田の風景ですか?
永沢 はい、県南から県北にかけて連なる奥羽山脈の景色をモデルにしています。地形はミックスしていますが、実際にある景色です。真ん中あたりに描かれているのが、今年有害駆除のために入った里山で、毎年通ってるマタギの里は奥羽山脈を超えた県北にあります。自分が通ってきた道と、クマが人里に近い山まで渡ってきたと思われる道を描き、私たちの道が交わる出会いを表しています。
今回描いたクマは、全長が1メートル40〜50センチくらいの独り立ちしたばかりの若いクマでした。クマの社会を観察し続けると、人間社会に似ている部分が多いです。例えば秋田に住んでると都心への人口流動の話をよく耳にするのですが、クマも同じです。畑がある便利な人里まで降りてきます。ほかにも、人の怖さを知らないからそのまま人前に出てきちゃうとか。都心に出てきた若者が人に騙されてしまう、みたいなことが自分たちとも重なるようにも思えたのです。
フィールドワーク重視の制作スタイルが確立したきっかけとは
──永沢さんの経歴についてもお聞かせください。ご出身校である秋田公立美術大学 アーツ&ルーツ専攻ではどのようなことを学ばれましたか。
永沢 入学時は専攻が分かれておらず、アーツ&ルーツ専攻に入ったのは3年次からです。色々な物事の根底をフィールドワークを通じて調査し、体験することが重視されています。調査を経て自身のなかでアウトプットしたいという思いが強まったときに、表現の仕方を模索します。なかには版画やプログラミングを通じて表現を行っている人もいましたが、私の場合それが絵であったというわけです。
──そのフィールドワークを重視した絵画制作を始めたきっかけがあれば教えて下さい。
永沢 大学2年生あたりまでは、人の心を癒やすジブリのようなきれいな風景を描くことが好きでしたが、徐々に見た目の美しさだけでなく、そこに息づく自然と人とのつながりに興味を持ち始めました。そのきっかけのひとつとして、実家が魚屋であったことが挙げられるかもしれません。
釣り人を訪ねて取った魚を描かせてもらったことがあるのですが、その際に「ツボ抜き」という魚の内臓を処理をする場面を描きました。ツボ抜きは通常めでたい場面で行われ、切腹を想起させるさばき方を避けるという意味あいがあります。私が訪ねた方はご自身の釣り堀で魚も育てており、 「我が子のように育てた魚を腹切りしたくない」という理由から、1匹1匹すべてをツボ抜きで処理していました。実際はかなり大変な作業なのですが、そういう手間を惜しまず行っていました。作業自体はややグロテスクな見た目ではあるのですが、その方にとっては愛のある行動なのだと思います。見た目とは裏腹に想いが込められているそのちぐはぐな行為に、自分が立ち会ったからこそ理解できることなのだと思います。
卒業制作では、サケやマスなど産卵期に遡上する魚に関わる孵化場で働く人たちを取材し絵を描きました。実際の生き物とその場所で自然と向きあい続けてる人たちから話を聞いて、自分もその魚を釣ったり食べさせてもらったりしました。この絵を制作したときはそのサケをもらってきて、大学の校内でさばきながら絵を描く、といった不思議な体験をしました。
《淵源回帰》のキャンバス上部には孵化場の柵を描いています。それをなぜだかサケたちは超えてくる。そこがたぶん生命の本質だと思います。もっと上流で産卵したいという執念が人と生き物と自然のサイクルを越えてくる。 生死のはざまにある根源的な力を目の当たりにしました。右側にはウロコが白くボロボロになっても上流に上ろうとするサケのすがたを描いています。
こういう感覚は人から話を聞いたり、たんにリサーチするだけではたどり着けない境地だと思います。なので取材の仕方を工夫し、できるだけ食べてみたり、自分も解体に参加したりなど、できるだけ対象との接点を増やしつつ、現地で自然と向きあう人々の声にも耳を澄ましながら、1つの作品を制作するようにしています。
旅先に制作物を残していく。
土地と一体となる芸術作品のあり方とは
──永沢さんは現在、地元の秋田で狩猟や釣りをしながら作家活動をされていると思います。今後の活動や活動拠点についてお考えがあれば教えて下さい。
永沢 秋田を中心にというよりは、全国を巡りながら活動がしたいと考えています。東京に住んでいたこともあるのですが、そこから全国旅をしようと考えていた矢先にコロナになり、計画を断念しました。きっかけさえあれば、自由に旅をしながら制作を続けていけたらと思います。海外での制作もやってみたいことのひとつですね。
──秋田や東京以外で絵を制作したことはありますか?
2019年に沖縄のうるま市で開催された「うるまシマダカラ芸術祭」で滞在制作をしたことがあります。絵は沖縄に置いてきちゃったのですが。大がかりな作品の場合、会期後に地元の人々で維持していくことが負担になったり、持って帰らないと解体されてしまうことが多いのですが、その地で描いたものはその地に残しておきたかったんです。そのときは古民家に住まわせてもらっていたので、そこに置いておける巻物の形式で絵を制作しました。この巻物をきっかけに、その地の方々が滞在制作での出会いを思い出してくれたらありがたいと思ったんです。
──旅先に絵が残るというのは永沢さんのフィールドワークによる制作スタイルともマッチしているように思います。
ほかにも秋田県内ではあるのですが、ある限界集落の村で毎年夏に「かみこあにプロジェクト」というアートプロジェクトが行われるんです。それに参加したときは廃校の体育館から卓球板をもらって、教室にあったチョークで絵を描きました。なんだか黒板っぽいなって思って。ほかにも大きな丸太が校庭にドンと置かれていて、話を聞くと東京で建設された新国立競技場で使われた秋田杉の残りでした。そこには、足元にいる生き物や、いつかかたちが変わってしまうかもしれない村のすがたを描きました。
そこに元々あったものにその場にあった画材で描かせてもらって、そのままその場所に残されている。丸太に描いた作品はどう保存していくかにもよりますが、通常は自然と朽ちていきます。それもおもしろいですよね。ですからプロジェクト終了後の作品のあり方はその土地の方々に委ねることにしています。大事に保管してくれるところもあれば、隅に寄せられることもある。芸術祭が終わった後にその地の人たちがどうアート作品を扱っていくかという視点にも興味があるので、実践してみたいですね。
残してほしいとか丁寧に扱ってほしいというよりは、委ねたものををどう見ていくか。芸術祭は一過性のイベントになりがちですが、その土地からもらった要素で自分たちが作品をつくるという行為は、土地と一体であることが大切だと思うんです。そのクオリティを出せてるのか、またそれを大事にしてもらえるのかどうかとか。制作活動をする作家とそれを支えてくれる地元のサポーターとのコミュニケーションの結果がそこに現れてくるのではないかと思っています。人との縁は大切です。
──ありがとうございます。最後に、永沢さんの今後の展望をあらためてお聞かせください。
永沢 現在は秋田中心の活動が多いので、様々な土地を巡りながら展示や制作の機会など、活動の幅を広げていきたいです。ほかにも絵画だけではなく、映像や音をメインとした作品、絵本など、キャンバスに囚われず新たな表現方法も模索してみたいです。