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その土地に触れ、変化することで紡がれる物語。「VOCA展2021」大賞・尾花賢一インタビュー

全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式により選ばれる「VOCA展」。今回の「VOCA展2021」ではアーティスト・尾花賢一が大賞を受賞した。覆面の男などをモチーフにしたマンガ形式のドローイング作品で知られ、今回は上野の歴史を重層的に描いた《上野山コスモロジー》で高く評価された。同作が生まれるまでの背景やこれまでの制作について、尾花に話を聞いた。

聞き手=安原真広 構成=白尾芽

尾花賢一、「VOCA展2021」(上野の森美術館)会場にて

上野という場の構造

──VOCA賞の受賞おめでとうございます。受賞作《上野山コスモロジー》は、上野の地理的・歴史的な断片を劇画調でいくつも描き、木製のフレームとともに構成した作品です。まずは、どのように制作がスタートしたのか教えてください。

 僕にとって制作の重要なモチベーションになっているのが「どのような場所やシチュエーションで展示するか」ということです。今回も、上野の森美術館という場所で開催される、VOCA展という歴史のある展覧会で発表するに当たっては、その歴史的な背景や場所性から離れたものはつくれないと思いました。また、ここ数十年の災害やコロナ禍によって、文化的なものが命の二の次になっている状況があるなかで、現実の文脈とつなげる必要性も感じたんです。そこで、まずは上野という場所を探ることから始めました。

 普段は基本的に現地に行って様々なものに触れることから制作をスタートするのですが、僕はいま秋田に住んでいて、さらに制作がコロナの時期とも重なったので、一度も上野に行くことができませんでした。上野には国立の美術館などが立ち並ぶいっぽう、その下にはアメ横というラフな商店街が広がっている。駅では1日何万人という人が行き交い、日本各地から人が集まってくる。そして公園にはホームレスの方がいたりと、明るさだけでなく暗がりも含め、色々なものが織り混ざった場所です。今回は資料などを読み込むことによって、ひとつずつばらばらに取り上げるのではなく、客観的にその場所の不思議な構造を掘り下げていくことができました。自分の思いが先行すると見えてこないものがあるので、俯瞰できたことが逆によかったのかなと思っています。

尾花 賢一 上野山コスモロジー インク・ワトソン紙、木枠 250×400×20cm

──《上野山コスモロジー》にはスターバックスコーヒーの看板から公園のハトといった動物まで、様々なものがドローイングされ、その下に額縁の木枠が積層しています。描かれたモチーフと木枠とのあいだには、どのような関係があるのでしょうか。

 ドローイングのなかには、ゴミのようなものと美術館、あるいは動物園と害獣など、相対するものが散りばめられています。また、VOCA展がある種の権威的な展覧会であるいっぽう、同じ上野のなかでは、美術教育を本格的に受けたわけではない、いわゆる日曜画家のような人たちが作品を発表しています。芸術的に評価されているものと、未分化のものが並んでいる。ここには不思議なバランスがあります。作品のなかでは、こうした要素を良い/悪いで対比するのではなく、上野を構成するひとつの構造体として、それらが網目状に広がっていくことを意識していました。

 そして、今回ドローイングを構成するにあたって、何を土台にするかはとても悩みました。まったく脈絡のないものではなく、ドローイングと共鳴するようなものを扱いたかった。土台に木枠を選んだのは、キャンバスを貼った跡や団体展に出品する際のメモなど、絵画の「裏」にあるものが表に出ることで多くを物語ることができるのではないかと思ったからです。

──平面という範疇で、木枠とのバランスを取りながらドローイングを構成していくのは大変な作業のように思えます。

 描いたドローイングは全部使いたくなってしまいますが、あえて使わなかったり、絵を重ねたりと、絵画的なこだわりからどう離れるかということを考えながら構成していきました。今回は100枚以上ドローイングを描いて、作品に使ったのは半分以下です。

 僕は「平面とは」「立体とは」みたいなことにあまり興味がないんですが、VOCA展は「平面とは何か」を問う側面がある賞だと思ったので、そこに平面でないものをぶつけて、色々な可能性を試してみたかったんです。今回は制限のなかで、のぞき込んだり、引いて見たり、文字を読んだりという鑑賞者の体の動きを引き出し、空間から物語に入ってもらうためにこのような構造になりました。 

彫刻との出会いからドローイングへ

──尾花さんのこれまでの制作活動についてお聞きします。油絵でキャリアを重ねながらも、2017~18年に発表されたシリーズ「森の奥、そして」ではマンガ的な表現をされるようになりました。作風が変化していった、その経緯について教えてください。

 大学の油画科を卒業してから10年くらい、まったく油絵を描けない時期が続きました。《上野山コスモロジー》にもつながりますが、幼少期に父と上野に行って美術というものに出会ってから、わりとまっすぐに絵を描いてきたところがあります。学校のポスターコンクールで表彰されたり、まわりの大人から期待されたりと、絵を描くというアイデンティティが肥大化した状態で大学に進みました。ただその頃は「現代美術」というものが強く押し出されていて、僕もそのなかで評価を得たいと思うようになっていったんです。やがて、自分がつくりたいものとつくれるものが合致しなくなってきて、精神的にも辛い時期でした。

 そんな日々を送るなかで、7~8年前、出産のために妻の実家がある秋田に行くことになりました。秋田でも絵を描けない状況が1ヶ月くらい続くなか、ふと、自分が頑なに守ってきたものを休んでみようかな、と肩の荷が下りた瞬間があったんです。ずっと「立体とかやってみなよ」と周囲に言われていた言葉が妙に響いて、そこから彫刻の制作を始めてみました。手を動かすことでかたちになっていくという経験に、一種の充実感や可能性を感じられました。

 たぶん、絵の具を重ねることでイリュージョンをつくるという作業が僕には合っていなかったんです。彫刻に彩色するときは、空間や奥行きに関係なく、ただそこにある対象に接することで造形を生み出すことができます。そこで自分が苦手なことや得意なことが見えてきて、シンプルな要素で緻密に描くドローイングにたどり着きました。もともと水木しげるやつげ義春といったマンガ作品も好きだったので、そういった要素が自分の作品の変化とちょうど重なったんだと思います。そうやって3年ほど前からマンガ的な表現を始めて、これが僕にとって楽な方法なんだと気づきました。

 しかしいっぽうで、作品とマンガはしっかり線引きしたいと考えています。マンガという読みやすく受け入れやすい形式を利用しつつ、コマ割りをあえて無視したり、トーンを使わずに手で描いたりと、絵画やドローイングとして、マンガとは微妙な距離を保つことに注意しながら制作しています。

尾花賢一 道をゆく 2018 インク、ワトソン紙 156×210cm

──今回の受賞作には描かれていませんが、尾花さんの作品には「覆面の男」もたびたび登場します。この人物が生まれた理由と、今回の受賞作に描かなかった意図を教えてください。

 子供の頃からよく仮面を描いていて、そこから派生して目出し帽を被ったキャラクターが生まれました。ヒーローというより、それに倒されてしまうモブキャラが自分にとっての自画像を描くには適していて、作品のなかでも多用していたんです。ただ、それと同時に顔を描くことの恐怖のようなものもあって、自分のなかで突き抜けられない部分を感じていました。

 それを打破する大きなきっかけになったのが、2018年にアーツ前橋で行った滞在制作です。長い時間をかけて制作を振り返り、多様なモチーフに触れる機会になりました。いままでは油絵や彫刻で何を表現できるかを追求してきましたが、これを機に表現したものにどういった仕掛けをするのか、という問いに逆転しました。北関東の強い風を擬人化して表現してみようと思いつき《風男》(2019)を制作しました。覆面のモチーフから少しジャンプすることができたんです。やはり自分がずっと描いてきたモチーフはそれが存在するだけで成立してしまうので、今回の受賞作ではその必然性がなく、あえて出す必要はないと考えました。

尾花賢一 風男 2019

──その土地でのリサーチが尾花さんの制作にとっては重要なことになっているとのことですが、どういった点が制作に寄与するのでしょうか?

 リサーチというのは表現する人にとって特別な行為ではなくて、山を描くなら山に登ってそこの草木を見たほうが絶対にいいし、必要なことだと思います。なので、作品のなかで「リサーチする」という行為を強く押し出すことには違和感もあります。

 秋田にたくさんのアーティストがリサーチをしに来るなかで、「この人は秋田にこういうイメージをもって来たんだな」というのが見えてしまうと、受け入れる立場としては引っかかってしまって。「こういったものをつくろう」と最初から考えて、それをそのまま実現しただけということが、作品を見るとわかってしまうんですよね。現地に来たからこそ、見たものや触れたものがつながってどんどん考え方が変わっていくということが、その土地に対する敬意になるのかなと思います。予想外のものに出会う経験が、作品に大きな力を与えてくれるのではないでしょうか。

地方で活動する意義

──これまでのお話を聞いて、尾花さんの葛藤そのものが作品に結実していると感じましたが、やはり秋田という地方で再出発したことの意味が大きかったように感じられました。

 今回の展示で、都市と地方の関係性に対する実感がまた強くなりました。少し前まで、地方は大都市に収奪されてしまうような関係性でしたが、僕自身秋田で制作しながら、程よい距離感で互いに繋がることができるコミュニティにいるからこそ濃密な時間を過ごして、新たな展開に出ることができた。

──都市と地方という対比は、都市で開催される現代美術のメインストリームで国際的に活躍するアーティストの企画展と、様々な地方美術館で開催されている団体展との対比にも重なるように感じられました。

 そうですね。団体展というものは、言葉は悪いですが、美術業界のなかでは無視されているというか、過去のものとして扱われている。ただ、地方にいると団体展の存在をとくに強く感じるんですね。長いスパンで美術をみたときに、団体展が大きなムーブメントになったときもあるし、逆に現代美術がブームになったときもある。繰り返す歴史の波のなか、それぞれの一瞬だけで価値や意味を判断をするのは、視野が狭すぎるように感じます。僕も上野という都市の中心的な場所で美術と出会っているので、ただ批判するのではなくて、両方とも存在するから意味があるんだということも、作品のなかに散りばめられたらという思いがありました。

──尾花さんは秋田公立美術大学でアーツ&ルーツ専攻の助手も務められています。教える立場として近年の美術教育について考えていることはありますか。

 中学校の美術教員を勤めていたこともあったので、幅広い年代に関わるなかで気づいたこともあります。例えば僕が深みにはまってしまったのも、受験絵画のようにどこかに模範的な答えがあると目指してしまったから。誰かに良い評価をもらいたい、理想の作家や作品を目指してしまうことで、枠組みや価値観に縛られてしまっていたと感じています。

 現在関わっているアーツ&ルーツ専攻は、課題を自分自身でつくる専攻で、学生たちの制作へのひたむきな姿勢から学びや刺激を受けてばかりの毎日です。教える人、教わる人という一方通行の関係性ではなく、互いに並走しながら高めていけるような関係性をつくっていくことに可能性を感じています。

──最後に、今後の展望などがあれば教えてください。

 最近は、固有の場所や展示する空間といった取っ掛かりがないと、作品に取り組むことができなくなってきたという実感があります。次は、例えばギャラリーや商業的な場所など、自分では想定していない場所や空間に出会うことで作品の幅を広げていきたいですね。まったく違うところに連れて行かれてしまうような、新たな出会いを楽しみにしています。

編集部

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