目[mé]のふたり(南川憲二と荒神明香)と中野信子が初めて出会ったのは、「ただの世界」展が開催中のSCAI THE BATHHOUSEだった。鳥の群れのように小さな時計を空間に配置した《movements》などのかたちをもつ作品も展示されたが、メイン作品は、会場全体にインスタレーションとして構成された《Life Scaper》。Scaperとは、「景色」と「人」を組み合わせた目[mé]による造語であり、「現実にしては出来過ぎていると言えるような虚と実の間の存在」と定義づけられている。
ここで来場者が購入できるのは、人生のどこかで、儚さや滑稽さ、美しさが伴う光景に遭遇する可能性を得る権利だ。希望者に向けてヒアリングを行い、結果として目[mé]と契約を交わすことによって作品を所有することができるようになる。つまり、購入者はその時点で、契約を通してかたちをもたない作品を所有することになるのだ。「作品を展示して販売する場所であるギャラリー」でこの展示を実現した経緯から、鼎談がスタートした。
日常を作品に変える 《Life Scaper》
南川 例えば壁に作品がかかっていて、でも値段がついているわけではなく、ギャラリーのスタッフに聞いても最初はあまり教えてくれない。で、結構本気の顔で確認するとやっと価格表を見せてもらえるみたいな、そんなちょっと特殊なギャラリーの機能って面白いなと思っていました。最初は時計の作品《movements》などをメインにするプランも考えたんですが、荒神とも真剣に「価値とは何か」という話を重ねたうえで《Life Scaper》でいくことにしました。嘘なしで挑戦を続けることで後から価値はついてくる、と荒神が言っていて、それが僕にも刺さったのでプランをガラッと変えたんです。
中野 すごく目[mé]らしい作品だと思いましたね。日常の風景を切り取った写真や絵画などの平面作品はよく見ますけど、日常そのものを作品にしようというアーティストはあまり見かけませんので、すごく面白いと思いました。それも、過去のどこかにあった日常ではなく、これから起きるかもしれない日常を作品にしているわけですよね。起きるかもしれない、あるいは起きないかもしれない可能性を売るっていうのは、ある意味すごく人間らしい試みだと感じました。人間以外、約束を売るなんてことはしませんから。
──人間か動物かという違いに目を向けられるのが、中野さんならではの視点です。
中野 ものとものの交換というのは動物もしますが、保険商品であったり、教育であったり、将来生まれる価値に対して投資する行為は人間しかしません。それを促すアートというのがすごく面白い。人間が脳の中で面白いと感じているときには、ドーパミン系のアクティベーションが起こっていると考えられているのですが、それは実際にものを得たときよりも、得るかもしれないというときに最大になるので、目[mé]はそこにアプローチしていますよね。
南川 これは面白い話になってきたぞ(笑)。
中野 そう、うなぎを食べているときよりも、うなぎの匂いがしてきたときの方が、脳が活性化していたりするわけです。確約されているときよりも、確約されていないときに人間はワクワクする。
南川 悪徳商法はそこを突いてくるんですね。
中野 褒められることではないですけれどね。すぐれたエンターテイナーやマジシャンにはそれを悪用するのでなく、うまく利用して人を楽しませようとする人もいますね。学習によって起こる強化のことを表す「強化スケジュール」という理論があります。例えばラットの実験で、これを押すとエサを「得られる」というボタンと、これを押すとエサを「得られるかもしれない」というボタンを用意すると、「得られる」ボタンを用意されたラットはお腹が空いたときにだけ押すようになるんですが、「得られるかもしれない」の方を用意されたラットはボタンを押し続けるんです。つまりこの現象は「かもしれない」の方がより中毒性が高いことを示しているのではないか、と解釈されています。
例えばカジノでは、ゲームにはある確率で当たり外れがあり、必ず報酬が得られるようには設計されていません。昔、そういうゲームも存在したようなんですが、つまらなくて誰もやらないので廃れてしまったそうです。よく考えてみれば、必ず報酬が得られるゲームなんて、ゲームじゃなくて、ただの作業ですよね。難しすぎてもダメ、やさしすぎてもダメ。当たる「かもしれない」というきわどいところに、ハマるポイントがあるんです。ハマりやすくなる当たりの割合はすでに知られているんですが、あるときは3回に1回、ある時は10回に1回と変動比率にすると、さらに強化が起こりやすいことがわかっています。
南川 中野さんの作品分析は本当に面白いです。ちょうど僕も射幸心というものが集団でどう働くのか、ということが気になっているんですね。例えばサッカーの試合を見ていると、ゴールを入れられる側のチームが、ゴールを入れられることに加担しているような状態が起きることがあります。プレーが良くてゴールが決まるというだけの単純なものではなくて、サポーターの心理も含めてボールの動きに関わっていると思えるようなときがあって、スタジアムの全員がひとつの演技をしているような時間帯というのがあるんです。
中野 ゴールを入れられてしまうチームが入れられることに加担するような状態というのは、もしかしたら集団催眠みたいなものが起きている状態なのかもしれません。砂漠の真ん中を走っていて、障害物があるとそれに当たってはいけないと思っていても、障害物を見ているとなぜかその方向に進んでしまうという現象が知られています。人間には、こうなってはいけないと思ってしまうと、否定形でありながらそれを意識してしまって、逆説的に「そうなってほしい」「そうなった方が安心だ」と思ってしまうところがあるようなんです。事故に遭いたくない、コロナに感染したくないと思っていても、ネガティブな情報でも意識することによってそこに寄って行ってしまう。
南川 コロナのことを考えていると、バタフライエフェクトの話を思い出すんですよね。蝶の羽ばたきが、どこか遠くの何かに起因しているという。プロジェクトをやっていると、想定からズレていく周期に入っていくことがあるんですね。東京オリンピックを巡って起こり続けたいろんな問題もまさにそんな気がして、ある人間が遠くお茶を飲む動作なんかが、この展開に影響しているのではないかなどと思わずにいられなくなるんです。
中野 カオス理論ってそもそも天気の予測から生まれたんですよね。ある公式に「1」を入れるのと、「1.0」を入れるのって、まったく同じことじゃないかと普通の人は思いますよね。実際にあるところまでは同じ軌跡になるんですけど、ある点から劇的に違ってしまう。天気の例では、3日目などあるタイミングを分岐点として軌跡がまったく変わってしまうんです。その様子が興味深い、ということでカオスと名付けられたというのが、バタフライエフェクトのお話の素地にはあります。この「.0」を入力するかしないかで、その後の予測が、というか未来が大きく変わってしまうのかもしれない。「蝶の羽ばたきが気象に影響を与える可能性がある」ということの寓意的な言い換えとして、バタフライエフェクトという呼称が使われるようになりました。
──些細なことが大きな何かとつながっていることを意識させる目[mé]の作品は、たしかにバタフライエフェクトを連想させます。ところで目[mé]の制作テーマとして、天気を扱おうと考えたことはありますか?
南川 天気は旬ですね。《まさゆめ》の顔も、パイロットの最終的なGOがないと、どれだけ条件が良くても上がらないんですね。命に関わるものなので、天気はもちろんですし、天気と同じぐらいにどうしようもできない、関わっているすべての人間の意識みたいなものも判断材料になってくるんです。
荒神 「よし」と判断をするためには、天候はもちろんだし、スタッフの心情とかすべてが反映されているようで、すべてを含めてどうしようもできない現象みたいなものなんですよね。
中野 面白い。天気というのは少なくともふたつの側面から考えることができて、ひとつは、天気は人の心に密接に影響しているという比較的、一般の人にもなじみの深い考え方です。脳機能を考えても、日照時間によって精神を安定させる神経伝達物質であるセロトニンの合成量は変わるし、気温によって攻撃性や内向性も変動すると考えられています。日照の少ない場所では鬱に罹患する人の割合が増えることも知られています。天気と、人の心は不可分のもの、というのが科学的にもよくされる説明かと思いますす。
もうひとつ違うレイヤーの話はやや、いわゆるニューサイエンス的な色彩を帯びた言説ととらえられるような考え方かもしれません。人間は自分の体を100パーセント自分でコントロールしている、という感覚を多くの人は持っていると思うんです。でもじつは、そうではないんですよね。我々の思考や行動パターンには多くの要素がかかわっているし、体さえも完全に独立しているわけではなく、食事や呼吸などによって常に外界と物質的にもやり取りがされている、開放系です。時空間の軸を大きく延長して巨視的に見れば、人間も天気の一部である、ともいえる。私たちが吐いた息がいつか雲になるかもしれないし、雨によって生かされている部分もあります。アメリカ大気研究センターとオックスフォード大学の共同研究によれば、コロナ禍で工場の稼働など人間の活動が抑えられ、エアロゾルが減少して空気がきれいになったことによって、地球全体の気温が平均で0.03度、アメリカ東部、ロシア、中国では0.3度~0.37度も上昇したといいます。我々自体が天気の一部といっていい現象です。相応の性能を備えた計算機と適切なモデルさえあれば、我々個人という要素も、気象条件のパラメーターとして、本来は同じように扱ってもいいものと考えられます。
荒神 世界全体に対して本当に小さな個人がどうやってタッチしているか、その瞬間って忘れてしまいがちですよね。本当は、こうやって空気を押したら、遠い宇宙の端の方の空間がちょっと動くかもしれない。そうやって個人が世界と接触していることを思い出すとワクワクするし、その感覚をつかめないかなとよく考えています。
──《Life Scaper》でも、個人の日常という小さな領域と、社会や世界という大きな領域の接点に言及されているように感じられます。
南川 《Life Scaper》のときもそうでしたが、よく作品で思い浮かべるのが首都高速で、例えば夜の首都高速を上空から俯瞰で見ると、車が光となって集まってきて、一定距離を走ってから外に出ていくという単純な運動の繰り返しが起こっていますよね。でも、1台1台の車には、1台ずつ固有の、かけがえのない時間が流れている。個と公の関係が俯瞰して見えてくるというか。
そういう話をしていたときに荒神が、その個と公の関係の接点を「運命」と言えるんじゃないかと言っていて。つまり、宇宙の運動というものに個人の意思が加担したと感じられたときを運命と呼んでいたのではないかと。そこからこの作品をどうやってかたちにするか、それを、契約という形式にしてみようと考えるようになったんです。
中野 私の一番の関心事も個と集団の関係なので、関心領域が近いですよね。個人は個人の意思で動いていると思いがちだけど、むしろほとんどの部分はそうではない。誰かの影響を受けずには存在できないんです。完全に一個人で可能な意思決定というのもほとんどない。環境からの影響、それから複数の人の意思、周囲の人との緩やかなあるいはタイトなつながりによって、個人の行動は決まります。
個の意思と集団の意思ってすごく違いますよね。一般には、流されずに個の意思を優先させるのがカッコいいというような、耳触りはいいのだけれど根拠のよくわからない煽り文句が流布されたりするのですが、いざ有事となったり、災害が起きたり、経済が危機的な状況に陥ったりというときには、主張の強い個から排除されていく傾向があります。集団でいることのメリットが大きくなる方向にシフトした状況下では、個の意思は全体の意思に飲み込まれてしまう。そういう現象に対してアンチテーゼをぶつけようとしているのが現代の欧米発の作品によくみられるジャーナリスティックなアートだと思うんです。それを否定するわけではないけど、説明的すぎるアートには、あまり自分は心が動かないなとは感じます。目[mé]の表現は、そういった説明的な階層とはまったく別の感覚を指向しているように思います。個と集団の乖離を示しながらも、それを説明するのではなく思惟させるように提示しているのがいいと思うんですよ。
南川 すごく嬉しいです。個と集団といえば、ここに飛んでくるムクドリの群れの話をしようと思っていました。時計の作品《movements》にもつながるんですけど、ムクドリの群れって、コンピュータ制御されたかのように一体化して飛んでいるように見えるんですね。だけど実際には、ムクドリ自身にとっておそらくあの群れは見えていないはずです。ただ飛んでいるだけで。結局、見る人の存在があって群れが存在しているのかなと。見ることによって存在している、見るという一方的な力によって存在を決定づけてしまっている。ムクドリ一羽ずつの意思を無かったことにしてしまうような見方ですよね。
中野 観察者の話ですね。観察者の問題って科学の分野でも100年ぐらい前に議論になっています。科学では基本的に、観察者と系(システム)は独立で、無関係なものとして扱うんです。しかし、量子論の研究者たちが、観察したことによって系が変わる可能性を示してしまいました。もっと正確に言えば、我々が物体を観測していないとき、観測したときと同じ性質をその物体が有していることを、量子論は保証しないというものです。系と観察者は独立の関係ではいられない。けれど、我々は実際のところ、科学においてさえそれを独立であるとして近似的に仮定して理論を組み立てています。目[mé]って、その問題に対してクリティカルに切り込む意思を感じる名ですよね。見ることは系に対して、観察者として関わること。手で動かして介入しようとしなくても、存在して見るだけで世界が変わるかもしれない。そのことを暗示している名だととらえることができます。そこに思い至ったときに、鳥肌が立つような思いがしました。
──《まさゆめ》は荒神さんが中学生のころに見た夢がモチーフとなっているわけですから、「見る」ことが大きく関わってくる作品ですね。
中野 非常に話題になりましたね。すごく面白い作品ですよね。夢を見るという表現も、よく考えてみると面白い。見ているんだけど実在するものを見ているわけではない。でもそのいわば認知の中の世界を、特別な日にだけ東京の空に実現しちゃったわけですから。
南川 中野さんがこの前話されていた、貝殻の話を思い返しました。公募で選んだ顔を空に上げたわけだから、一般公募してくれた誰かの顔を「食べられない貝殻」にしたのかなって。貝殻の話を説明していただいてもいいですか。
中野 名古屋大学博物館の門脇誠二先生の研究なんですけど、旧人類で絶滅したネアンデルタール人と現生人類の集落で出土するものの違いとして、現生人類の方からだけ貝の化石が出てくるそうなんですね。集落の位置は海岸から50km以上離れていて、海に行って帰って来るだけでも大変な場所なんだけど、そこから食べられない貝の化石が出てくるという。その人たちは貝の象徴的な価値を利用していたのではないか、と考察されているんです。その美しさに価値を見出して何かと交換していたのかもしれないし、ただ美しいと思って飾っていたのかもしれない。それらを大事にしていた集団だけが長く生き延びていたのが面白いところで、ただ経済合理性や生産性を重視したのとは違って、一見無駄な価値を重視していた集団の方が生存戦略として適応的だったということが興味深い、という話をSCAI THE BATHHOUSEでお会いしたときにお二人にしたんです。
──機能などがなくても、そこに意味や価値を見出せる貝殻が集落に残されていた理由は、アートの存在理由とも結びつくのではないでしょうか。
中野 これは私の本当に仮説ですけれども、共有地の悲劇(*)ってご存知ですか。ゲーム理論でも扱われるモデルです。概要を、やや解釈を加えながら説明しますが、共有地を共有している人々が、それぞれに必要な分だけを共有地から得る、という上品な戦略をとってさえいれば、資源は全員に行きわたる程度に潤沢にあるはずであるのに、おそらくそこに「富の蓄積」という概念が加わってきたことで、必要分以上に、所有される富の増大を求めて乱獲が起こる可能性が生じる。利他的行動よりも利己的行動のもたらす利得が大きくなるため、潤沢にあったはずの共有資源の枯渇が起こる、というものです。縄文時代は大きな争いもなく1万年ほど続いたと言われています。その後の弥生人は、稲作文化を獲得したことから、米を富として蓄積できるようになりました。資源を富として蓄積できるという事象がもたらしたものは、豊かさと、格差です。
豊かさをもたらすはずの農耕技術によって、逆説的に富を蓄積できる人々と食べられない人々が出てくる。誰もにいきわたるだけの潤沢な資源があったはずなのに、ひとり、あるいは一つの集団が経済合理性を追求し始めると、貧しくて食べられない人々が生じ、必要のなかったはずの争いが、生きていくためには不可欠の要素になります。そして、共有財産はいくらあっても足りないという心理的飢餓状態がもたらされ、共同体の全員が大規模な戦乱に巻き込まれていく、という考え方です。
長くなりますから端折りますが、いっぽうの経済合理性を追求していなかった時代には、生産に費やしていなかった時間を何に費やしていたのでしょうか。小学生で習うと思いますが、弥生土器と縄文土器を並べてその形態の違いについて、特徴を教わりましたよね。合理性と効率を重視してつくられた薄焼きの弥生土器と、機能性よりも創造性、装飾性をむしろ重視したかのような縄文土器。縄文人は合理的であることよりも美しさを大事にしたのではないかという仮説を立てることができます。この人たちは経済活動のためにではなく、美に時間を費やしたんじゃないかというとらえ方です。現代社会では、近年でこそアート思考がビジネスシーンで話題になりましたけれど、美のために時間を使うことは長らく無駄なものだと考えられてきたきらいがあります。ですが、無駄な時間がじつは、1万年続いた平和のために、不可欠の要素だったのではないか、リソースを枯渇させずに共有するために重要な価値だったのではないか、というのが私の仮説です。経済合理性を重視するマインドセットからはこういった世界の顕現は困難です。創造性を重視する価値体系であればこそ、自分たちと違う集団が入ってくることで生まれる多様性に高い価値を見出したはずでしょう。アートの存在理由は、平和で豊かな社会のサステナビリティと不可分である。そんな深くて遠い世界までの思惟を、目[mé]の作品群は私たちにもたらしてくれるように思います。
荒神 アートも人間にとっての資源ですよね。私も自分たちのためにアートをつくるのではなく、生み出し続けて共有することで価値になるのではないかと思うんです。自分たちで作品をつくっていても、自分じゃなくてもいいんじゃないか、という感じが実はいつもするんですよ。動かされているというと大げさかも知れないけど、《まさゆめ》のプロジェクトも、他の誰かが見た夢をもとに進められて、空に浮かぶ顔をみんなで共有できてもよかったという気持ちがどこかにあるんです。自分自身が抱える意味とか名前もなくなって、世界に溶けて自分すらなくなったときが一番幸福な瞬間なんじゃないかとも想像します。もしかしたら、いまアートを続ける先にそういう状態があるのかもしれません。
*共有地の悲劇──アメリカの生物学者、ギャレット・ハーディングが1968年に発表した行動モデル。ある集合体において、メンバーが協力的な行動をとっていればメリットを共有できるが、そこに乱獲が起こった場合、あるいはそれぞれの利己的行動が起こった際に共有資源の枯渇を引き起こすことを示唆している。