ボランティアたちと共有した時間の厚み
──日本の美術館では、教育普及活動は学芸員の一業務とされるのが通例です。そのなかで、会田さんはこの領域を専任とする数少ない「ミュージアム・エデュケーター」として、主に山口情報芸術センター(YCAM)で活動されてきました。ラーニング全般のキュレーターを務めた「あいちトリエンナーレ2019」(以下、あいトリ)には、どのような経緯で参加されたのでしょう?
実際に「あいちトリエンナーレ2019」にお声がけいただいたのは、2017年の秋です。じつを言うとひとつ前の「あいちトリエンナーレ2016」にも参加を要請されたのですが、お断りをしています。当時僕は開館から11年関わったYCAMを離れ、東京大学の特任助教となったばかりで、お誘いいただいた教授への恩にも報いたかった。芸術祭の教育プログラムをやるからには遠隔での仕事でなく、地元に移り住み取り組むべきだと考えていたので、東大に移ったばかりのその時期は残念ながら辞退したのです。ですが、17年にふたたび誘っていただきました。契約年数を全うし、大学を離れるタイミングも近かったので、お請けすることができました。その後、2018年度は東京から通いながらプレイベントなどを行い、2019年の春から秋までは現地に引っ越してトリエンナーレに集中できる環境に身を置きました。
──先走って言ってしまうと、今回のあいトリにおいてラーニングの役割はとても大きかったのではないかと考えています。というのも、例の展示中止騒動の背景には、政治・社会的な要因以外に、そもそも「現代アートはわからないもの」という一般的な感覚があると思えるからです。ラーニングがその「溝」に関わる領域であることは言うまでもありません。開催前のお話から聞きたいのですが、今回ラーニングを担当するにあたり、どのような点に力を入れようとしたのでしょうか?
あいトリの教育プログラムは、過去三回とも充実したものだったと認識しています。そうしたなかで僕が今回イメージしていたのは、例えばミュンスター彫刻プロジェクトのように、学生からお年寄りまで、誰もがアートについて考えたことを話せる場所がある、というような風景でした。あいトリでもそんな風景が見られたら…...と想像していました。
具体策のひとつが、ボランティアの研修制度の改革です。あいトリには市民のボランティア組織があるのですが、あるときその登録者数が1200人近いと聞いて、「すごい。その数であれば何かが変わるかもしれない」と思ったんです。自由になる自分の時間を割いてアートに関わり、貢献したいという人がそれだけの数いるという事実そのものが、大きな可能性だと感じました。
キュレーターやアーティストの多くは、芸術祭が終われば現地を離れるいっぽうで、地元に残るのは、ボランティアなんです。だから、その人たちに何が残せるか。大きな予算もつけるわけですし、何か人に残ることをやりたいと考え、研修の回数をそれまでの実績と比べて大きく増やし、対話型鑑賞の専門家の平野智紀さんを特別講師として呼ぶなどして、トレーニングの内容を充実させました。
──今回、研修は望めば何回でも受けられたと聞きました。
そうですね。これまでと同様に今回も、全ボランティアのなかから、ボランティアツアーを担う「ガイドボランティア」さんを選出しています。その過程ではアートの知識を問う試験などもあり、試験を通過した方にガイドをお願いしています。従来は最初に試験があり、その結果に従って、その後の研修内容が異なっていました。ただ今回のあいトリでは、その試験の時期を可能な限り後ろ倒しにし、試験を受ける前でもある程度専門的な対話型鑑賞のレクチャーやロールプレイを通じた実践研修を受講できるよう変更しました。回数については、希望をすべて叶えられたわけではありませんが、同じ研修を複数受けることも可能でした。
というのも、ボランティア募集が始まる前に、ボランティア経験者のかたとお話しする機会があって、そのなかで「私はガイドボランティアではなかったので......」といった謙遜と自虐の混じった雰囲気を感じました。なのでもっと専門的な研修を希望する人が、なるべく受講できるようにすることは重要なのだと感じたのです。
──より多くの人がガイドボランティアになれる機会を得られるように、制度を変えた、と。
もちろん、そうするとコストがかかります。会場や講師の数も増えるし、僕自身一日に講義を3回行う日もあった。普通、それは大変だからやらないんですが、コストをかけたとしてもボランティア経験者のなかに知識のみならず、あいトリを自分ごととして捉えてくれるオーナーシップも育つだろうと思い、事務局と折衝して回数を増やしてもらいました。
──育成の場にとてもコストがかかっているんですね。
人的リソースも割きましたし、多くの人に協力してもらいましたけど、だいぶ充実していたと言えると思います。実際、回を重ねて学べば、単に一度レクチャーで聞くのとは違い、相互に対話型鑑賞のロールプレイなども経験を積めて、理解度はぜんぜん違うんですよね
──現実問題として、芸術祭のボランティア募集には「人手の確保」の側面もあると思います。しかし開催前に多くの時間を共有することで、その方たちの関わるモチベーションも変わりそうです。
おっしゃる通りで、ボランティアを無料の労働力だととらえる風潮は好きではありません。自分ならそう扱われたくない。僕が思うのは、トリエンナーレにもファンがいて、なかでも一番ディープでコアなファンがボランティアだということ。ある意味、トップ・プライオリティなのです。その人たちが楽しんでいる状態がつくれていれば、イベントとして成功に近づくことできる。なので、可能なかぎり力を注ぎました。
作品と人々をつなぐ、場所やキャプションの設計
──今回のあいトリの各会場には、「アート・プレイグラウンド」というスペースがありました。「あそぶ」「はなす」「つくる」「もてなす」「しらせる」という5個のテーマで、来場者が創造性を発揮できるスペースです。あのコンセプトはどのように考えられたのでしょうか?
僕の関わってきたメディア・アートの領域に限らず、直接的なインタラクションを観客に求める作品は増えているように感じます。そこで重要なのは、能動的に作品を見たり、いろいろ試したりできる面白い人を増やすことで、そのための「かかわりしろ」をつくること。つまり、観客をただの受け手ではなく、能動的にアクティビティを掴みにくる人たちだという風にとらえる。地域フェスティバルという側面も持つあいトリでは、これを機に初めて美術館を訪れる人も多いわけで、そんな人たちが美術館でアートに積極的に関わり、話をし、ものをつくるのが当たり前という地域になったら面白いと考えました。
──たしかに、芸術祭に限らず通常の美術館の展示においても、鑑賞後に感想を言い合える場はそれほど多くありません。普段、モヤモヤした気持ちを抱えたまま美術館を後にする人は多そうですね。
何かモノを見て考えたら、それを他人に言うことで整理できるはずです。面白いかつまらないかという二者択一の判断の内実は、話すことで初めて構造化される。でも、基本的に日本の美術教育では、「鑑賞」とは「自己の内なる声との対話」になりがちです。本当はもっと他者と会話をしていいはずで、そこが分かれ目なのかなと思っていました。
──また、アート・プレイグラウンドには、大人向けになりがちな芸術祭において、子供の受け皿となる側面もあったと思います。そのあたりはどう考えていましたか?
僕は、「本質であれば子供も大人も楽しい」という考え方を持っています。なので、アート・プレイグラウンドの対象は全年齢にして、とくに理由がない限り年齢制限はしてません。子供向けにフォーカスするのではなく、子供も参加できるものを目指したわけです。
なぜ、子供も参加できることが重要かと言うと、子供は、「王様は裸だ」と忖度なしに言える鋭さを持っているからです。この一種の野性性、獰猛さはアーティストにも通じますよね。つまり「アートを子供へわかりやすく解説をしよう」という姿勢ではなく、むしろ鋭さを持っている子供の視点が、アートの現場にとって必要だと考えているのです。
アート・プレイグラウンドでは、来場者の創造性を際立たせたいと思っていました。そこで、例えば愛知県美術館にあった「あそぶ」の会場では、観客用の通路を高い位置につくり、遊んでいる参加者との間に「見る・見られる」の関係をつくりました。建築家の遠藤幹子さんとも検討を繰り返し、コンセプチュアルな空間としても設計しているんです。
──作品のキャプションにも会田さんが関わったとか。
キャプションは、8割程度を僕が書いています。もちろん、作家によっては自分で書きたい人やキュレーターが書いた方がいい作品もあったので、それらは相談しながら進めました。
──あいトリを訪れた読者はわかると思いますが、非常にわかりやすい解説でしたね。
僕は、本来は解説を読みながら作品を見るのは、視点が固定されるので苦手です。でも、現代美術の場合、最初の取っ掛かりがないと「何これ?」で思考停止してしまうこともある。とくにあいトリのようにアートファン以外も多く来る場所では、テキストを掲示するメリットのほうが大きいな、と。そして、書くんだったら、読み手に優しいものにしたいと思いました。
キュレーターが書く解説というのは、美術史にきちんとコミットする意識が強いために、ときに素人の目線からは難解になることもあります。決して、初心者フレンドリーではない。津田大介芸術監督はそれを冗談交じりで「ポエム」と呼んでいましたが、彼は出自がライターなので、素人がどう読むかということにすごく意識的なんですね。それは僕も共感するところです。解説が難解であるがために、逆にアートへの乖離が進むのは本末転倒です。
じゃあ、どうするか。作品を見て全員が共有できる「fact」を入口にしました。対話型鑑賞の世界では「fact」と「truth」と言うのですが、目に見える事実は事実としてまず共有したうえで、それを鑑賞者のなかでどう解釈できるのかという「truth」へと積み上げていく。そのプロセスをテキストの構造に適用しました。
──それこそ解説が難解なものだったら、例の騒動はより深刻だったかもしれませんね。読めばなんとなくでも理解できる、アートの世界は理解不能ではないと実感できることが重要だった。
分断の距離を埋めるとき、その目立たない機能がつなぎ止めた部分はあるかもしれませんが、あの状況に対して影響が大きいかどうかは、正直わかりません。
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