ダムタイプに入るには?
長谷川 古舘さんとか摩利彦さんとか、皆さんどういう風にダムタイプに入ってらっしゃるんです? ダムタイプに入りたいと思ってる人は山のようにいると思うので、リクルートのノウハウみたいなものがあったら教えてください。
高谷 いや、もうみんなに手伝ってほしいんですけども(笑)。
長谷川 オープンコールですか。
高谷 ダムタイプに誘ったっていうよりは、僕が個人でやってる作品(パフォーマンス)ってひとりではつくれないんです(インスタレーションもですけど)。僕なんてプログラムが全然書けないので、古舘くんがいなければこの作品とこの作品はできないとかそういうことになってるぐらい。リクルートするっていうんじゃなくて、そういう関係のなかで手伝ってもらって、ああこれすごいできるなっていうので、「次ダムタイプの展覧会するから今度一緒にやろうよ」って言って。
古舘くんとか摩利彦くんは、それこそ《MEMORANDUM OR VOYAGE》(2014)のときにダムタイプで一緒にやるようになったんです。それまではダムタイプっていうよりは、古舘健、原摩利彦っていうアーティストと僕とがコラボレーションしてるっていうような、「手伝ってもらう」に近かったんですけど......いや、まあコラボレーションかな。手伝ってもらってると言うにはやってもらいすぎているというか。
長谷川 でも古舘くんにしても摩利彦くんにしても、「憧れの人と一緒にさせていただくだけで僕はもうとっても嬉しい」みたいな世界だと、私は傍から見てて思うんですけど。
高谷 そうだったらいいんですけど......。
長谷川 愛と憧れがなければ耐えられないと思う(笑)。
高谷 そうですよね(笑)。小姑みたいなおっさんとかおばさんがいっぱいいる中によく飛び込んでくるなと思いますよね。昔のダムタイプっていうのは一緒の大学の中で始まったサークルなのですごくフラットな関係で──いまも「公平」という意味では一緒なんですけど──もともとすっごくいい友達のグループ、同じジェネレーションが始めたっていう感じだった。いまはだいぶ年齢も違いますし、「ダムタイプ」があってそこに入るという関係なので、そこをどうやってフラットな関係に持ち込むかというのは、向こうも大変だしこっちも大変な感じではありますけどね。
長谷川 でもそれをやってらっしゃるのは凄いなと思います。
高谷 それは向こうに愛情や憧れがあるでしょうし、こちらからすると(自分たちが)できないようなプログラムができる人っていう技術的な魅力がありますから。ダムタイプが84年に立ち上がったときは、彼らはまだ高校生とか中学生でしたからね。生まれてない人もいまは手伝ってくれてます。昨日もちょっと話してたんですけど、親がまだ結婚してなかったっていう人もひとりいて(笑)。そんな話もするぐらいの若い人と一緒にやってますから面白いですよ。
長谷川 どこからダムタイプのメンバーとして認定されるのかっていうのが私は不思議でしょうがないんですけど、そこらへんはやっぱり信頼関係?
高谷 それはやっぱりお互いの関係がどこで生まれるかっていうことだと思います。
長谷川 そういう信頼関係への憧れはとても大きいと思いますね。
高谷 そうですね。それがないと無理ですよね。
ダムタイプの仕事と個人の仕事
長谷川 それは本当にすごいと思います。いま史郎さんは自分でも写真と映像の境界を実験するようなことをやってらして、パーセプションに関しては別のレベルの精度を通して、新しい知覚と概念をもたらそうとされています。ご自分の個人的な仕事と、ダムタイプの仕事でそれを反映するときと、距離感はやっぱり違いますか?
高谷 僕自身はあんまり分け隔てがないんですね。例えば僕個人でもパフォーマンスを3つほどつくってるんです。そういうパフォーマンスをつくるときっていうのは僕が出ないので、どちらかと言うとパフォーマンスは僕にとって自分の作品のイメージがそんなにないというか。インスタレーションは全部をコントロールできるという意味においてやりやすいんですけど、パフォーマンスは難しくて。パフォーマーが難しいんじゃなくて、パフォーマーの動きを考えるとかそういうものが直接的にはできない。ディレクションや構成しかつくれないっていうか。
で、出てきたものに対して方向性を与えていくとかしかできないので、自分の外部でできてるっていう感じがして、そこが面白いですね。それとやっぱり時間軸がある。時間の芸術っていうかな。始まりがあって進んでいって終わりがある、っていう作品と、インスタレーションのようにどこからどこをどう見られるかわかったもんじゃないみたいな作品。もちろんインスタレーションにも時間軸はあるんですよ。でもどう見られるかがわからないなかでつくらないといけない。それは彫刻と一緒ですよね。
《OR》の映像を編集するために見てたんですけど、「ドミノ倒し」的につくってるなと思うんですよ。ひとつのことが起こって、それに派生して次のことを絡めて、ザーッと全部を一筆書きしたようなパフォーマンスだなと。
もちろん一筆書きじゃないんですよ。でも舞台装置にしてもパフォーマーの動きにしても、連続性をつくることが僕にとってはパフォーマンスだったのかなという気もします。ひとつずつの振りはパフォーマーから出てきたもので、僕がつくったわけじゃないんですけど、その関連性をどうやって保つかということ。時間をつくるっていうのは僕のなかではそういうことなんだという感じがしました。
インスタレーションではそういうことはないんですね。これが倒れていくからどうしようなんて考えなくても、倒れないようにすればいいんだから。そういう違いがあって面白いなと思います。やっぱり時間が全然違いますね。時間の考え方やとらえ方が。それは両方いいところもあるし悪いところもあるし、面白いところもあるし面白くないところもあるっていう感じで。
古橋悌二とはどんな人物だったのか?
長谷川 いまのお話はよくわかります。あと読者のかたは伝説的になった古橋さんが、史郎さんから見てどんな人だったんだろうかというのに興味があるのではと思います。それからいま大活躍の池田亮司さんを、史郎さんがどんなふうに思っていらっしゃるのか。
高谷 古橋はめちゃくちゃかっこいい人だったんです。僕にとってはね。大学で、美術学部生は大抵ツナギを着てるんですが、古橋は薄紫色のツナギを着て歩いていました。
長谷川 史郎さんは白いスーツとパンタロンで歩いてらしたって聞きましたけど。
高谷 いやー、なんかね(笑)。僕が芸大に入ったのはデザインというか、仕事としての造形とかそういうものを勉強したいと思ったからなんですね。アーティストっていうのはやっぱり選ばれた人がなるもんだから、「そんなものにどんな奴がなろうと思ってんだ」って。バカにはしてないですけど、「そんなの大学で勉強できるのかな」っていうくらいの感じで入ったんです。で、学校の中で古橋は彫刻みたいなものをつくってましたね。
長谷川 ビデオもやってましたよね。
高谷 そうです。写真とビデオと、当時ちょうど構想設計の野外展があってそのための彫刻的な造形物をつくっていて、ツナギ姿で粉まみれになって制作している姿を見てすごく印象的でかっこいいと思ったのを覚えています。
なんでしょう......まずビデオっていうものが作品になるなんて、その頃はまだ僕のなかではなかったんですね。テレビでビデオを見る、映像を見るっていう程度で。アートにもそんなに興味があった大学生じゃなくて、建築とかそんなことばっかり勉強してた。で、大学の一回生のときに古橋からダムタイプに入らないかって言われたのもあって、そういうものに興味が湧き始めた。当時はまだダムタイプじゃなくて演劇サークルで、「劇団カルマ」という名前が付いてたんですけど、そのときも古橋はビデオとか映像を使って作品をつくってたし、パフォーマンスのなかでもビデオも使おうって推進してるところだったんですね。
僕にとってはビデオなんてブラウン管の中だけのことだから、アートとしての質感が想像できてなかったんですけど、その作品を見ていくなかで、ブラウン管のかっこよさのようなものを彼から教えてもらったというか。そのあとにビル・ヴィオラとかゲイリー・ヒルとかに出会っていくんですけども、そういう人たちからメディア・アートについて学びました。
メディア・アートっていうのは、例えばブラウン管を使ったらブラウン管でしかできない表現を見つけていくことが、その作品の核なんだって思ったんですね。ブラウン管があって簡単だから使ってるっていうんじゃなくて、その質感をいかに使い切るかっていうことなんです。
だから1秒間に30フレームのアメリカと25フレームのヨーロッパではやっぱり違う表現になるんだろうなとか思いながら、ぼやっと横で見ながら手伝ったりしてました。古橋はそういう憧れの存在でもあったし、実際に一緒に作業を始めると──小山田さんも全員ですけど──先輩たちはものすごく真面目に取り組んでる。すごい時間を費やしてひとつの作品をつくってる。本当にいまから思い出しても感動的なぐらい、ものすごい時間を費やしてひとつの作品をつくっていました。それは学生だからできるっていう感じはしますけどね。商業的な目的でやったら絶対に成り立たないっていうか。
本とかも全部手作業でつくってたんですが、そういうのが面白かったですね。例えば今回の展覧会でも、いろいろ外注してモノをつくってもらいましたけど、それをつくるための図面を書いたりとかは全部手作業なんですよ。もちろんコンピューターでやってはいますけど。でもそのために電話をしたり発注したりすることが、作品づくりにおいてはクオリティを確保するためにものすごく重要なんです。業者さんに説明することも重要ですし、時間を惜しまないっていうことはその頃からずっと変わらないなって思います。
長谷川 ある意味では京都的ですよね。職人技の精巧な丁寧さやプロフェッショナリティと、ブリコラージュ的な手仕事や発注かけるときの会話などからいろんなことを学んでいく。手探りで次々と新しいものが見えてくるみたいな、スポンティニアスなやりかた。それは本当にすごいなと思うんですね。
高谷 古橋なんかは文章も書けたし、やっぱりアーティストだなと思いますね。だから僕なんかは本当にお手伝いみたいなもんなので、なんていうのかな......いま「アーティスト」みたいに言われるのもどうなのかなーと思うぐらい。
それとあとはね、古橋はすごく面白い人でもありましたよ。むちゃくちゃ面白かったです。ずっと笑い転げてましたよ。ミーティングでもそういうのがなかったらもっと進んだんじゃないかと思うぐらい(笑)。
長谷川 なるほど。でもそれも非常に重要だったんじゃないかと。
「いつまでもダムタイプがあると思ってるのか」
高谷 表に出していたのは氷山の一角で、かっこいいところだけ出して、面白いとこは全部水の下に隠してあるっていう感じですね。記録はいろいろ残ってますけどこんな爆笑なものは出せないっていう。面白い半面、すごく真面目に作品づくりに取り組んでる人って言ったらいいかな。僕なんかも大学には毎日行ってましたけど、ダムタイプでミーティングするために行っていて、授業はほとんど行ってなかった。作品提出の瞬間だけ行ってパッと終わらせて、あとはダムタイプをやってたって感じでしたね。それは本当に面白い時間だった。そのあと僕はそのままずっとつながっちゃってるから。
僕は大学卒業後、一度建築事務所に就職したのですが、そこにもね、古橋が呼び戻しにきてくれたんですよね。建築事務所で仕事してたら「高谷くん、友達が来てるよ」っていうから誰だろうと思ったら古橋が来てて。ちょうど《pH》をつくってるときだったんですけど、「高谷がいなかったらできない。なんでいまこういう建築事務所に行ってるのか」って聞かれたから、「スキルアップして図面とかもちゃんと書けるようになってからもう一回ダムタイプをやりたい」って言ったんですよ。そしたら古橋に「そんな悠長なことを言っていて、いつまでもダムタイプがあると思ってるのか、いますぐにでも消滅するかもしれないのに」って言われて。あ、そっかって思って、その場で事務所に辞めたいですって言いました。そしたら「急に辞められても困る。いまやってる仕事だけは終わらせてくれ」って言われて、当然ですよね(笑)そこから1ヶ月か2ヶ月くらいは辞めるのにかかったかな。
その日、僕を説得するために古橋は僕の仕事が終わるまで待っていてくれて、いろいろ話しました。結局終電もなくなりその晩は家に帰れなくて、一緒にクラブに行って踊り明かして。そのときに《pH》の話をしたりしましたね。そんなふうに面白くて先が見えてる人だったような気がします。僕はそのときは全然先が見えてなかった。ダムタイプで自分のやりたいこととか頼まれたことを整理していって、図面書いたりとかモノをつくったりはしてましたけど。やっぱりどうやってダムタイプを構成していくかっていうのは古橋とか小山田が考えたんだなとは思いますね。
そのあと池田くんが入ってきた。池田くんも僕にとっては先が見えてる人、フォワードしていくような能力のある人だっていう感じがしますね。なにせパフォーマンスをつくるなかで時間を決めていくのはやっぱり音楽なんですよ。古橋も音楽をつくってたし──もちろん山中さんも一緒につくってくれてるんですけど──全体をフォワードしていくのはやっぱり古橋だった。古橋亡き後、山中さんの音楽ももちろん重要だったんですけど、僕の中では全体を推し進めていくのは池田くんだった気がします。
池田くんが言ってたんですけど、ダムタイプでどういう音楽をどういう風につくっていくかは、《S/N》のCDをつくるときに勉強したと。当時、池田くんはプロデューサーとして関わってくれたんですね。スパイラルから頼まれてダムタイプのCDをプロデュースするっていう。プロデューサーなんだけど、ほとんど技術者としてマスタリングとかを全部池田くんがしてくれたんです。
そのとき初めて、ダムタイプは録音したものを全部コンピューターに取り込んでハードディスクで作業するということをやったんですが、それを全部池田くんがやってくれた。池田くんは何度も繰り返し楽曲を聴いて、そこからダムタイプのパフォーマンス音楽の構造を学んだそうです。なぜ、普通の楽曲ならば不自然とも思えるようなブランクが途中に入ってくるのか、それはパフォーマーの動きを前提に音が構成されているのだということがわかった、と。音楽ができた時点でパフォーマンスができてるんだっていうのをそのとき勉強した、すごく面白かったって池田くんは言ってて。だからダムタイプに参加したいと思ったみたいです。そういう話をこの前ちらっと聞いたのが面白いなと思って。
長谷川 パフォーマーがいて、それにタグがあってそのパフォーマンスの動きに関わって音をつくるっていうのは初めての体験だったと思うので、池田くん的な方法にパフォーマーもコレオグラフィーも歩み寄りながら新しいものができていったのかなと思います。でもダムタイプから多くのことを学んだということはいろんなインタビューで仰ってます。
で、いま話を聞いて思ったんですけど、悌二さんと史郎さんと亮司さんってすごくかっこいいじゃないですか、3人とも。しかもめちゃくちゃ頭が良くて、コミュニケーションもできて、人間性が豊かで、ヴィジョンがあって。悌二さんと最初に会ったとき、こんなに頭が良くてセクシーな人が日本にいていいんだろうかって思いましたよ。
高谷 僕も本当にそう思いましたよ。でもあんまり周りの人が褒めると「いやいやそんなことないよ」ってつい言いたくなちゃうんですよね(笑)。すごく近かったのでね。面白いとこはほんとに面白かった。京都の人なんですよね。バーバラ(・ロンドン)も本に書いてくれてますけど、めちゃくちゃチャーミングな人だったんですね。すごく礼儀正しいですからね。裏では何言ってるかわからないですけど。
長谷川 そういう裏表も含めていいなあと思います。亮司さんも、あれだけ自分の世界を押し通して、ちゃんとアーティストとしてやっていけてるっていうのはすごいなと思います。アーティストの鑑みたいな。史郎さんもこのメンタリティとこの物腰の柔らかさから、どうしてあんなに強烈なものがつくれるのだろうって。
ダムタイプは変わり続ける
長谷川 ダムタイプがかっこいいっていうのは、やっぱりかっこいい人たちがやってるからという、シンプルな因果関係なのかなといま思いました。皆さん来年の3月に新作公演をされますが、どのような感じのものになるのでしょうか。
高谷 まだアウトラインもないような状態でどうなるのかって思いながら......。まあいつもこんな感じなんですよね。いままでだって別に早めにできあがって、左うちわで初日を迎えるっていうことは全然なかったので。
ただ、これまで話してきたように、アクチュアルないまの問題をどう扱うか──それもコレクティヴのダムタイプという集団で、溶け合って絡み合ったような世界を、どういう風に切り取って違う角度から扱うか──というのがものすごく難しい時代ではあると思います。ずっとそうなんですけど、どんどん難しくなってるとは思います
長谷川 鑑賞者との関わりで、何か新しい実験的なやり方がまたあるのかなと楽しみにはしてるんですが。
高谷 プロセニアムの舞台も使うんですけど、何か違う視点をお客さんに持ってもらえるような、とっかかりみたいなものをどう仕込んでいくかがキーになっていくのだろうなとは思ってます。ダムタイプというグループの性格から、それは可能だとは思ってるんですけどね。
今回の展覧会も、長谷川さんに何度も「やっぱり年表無理です」って言おうかなって思ってたんですけども、最終的にはできあがった。
長谷川 ダムタイプの活動を12メートルの年表にしたんですよね。さすがダムタイプというかっこよさ。
高谷 空間と時間がひとつの表になってるようなものなので、そういう新たなるサイトスペシフィックな切断面みたいなものが見せられたらなとは思います。でもそれはいつも一緒のことなので、いまをどういう風に切っていくかっていうことだと思うんですよ。切るときにどういう風にテクノロジーを使って、そのテクノロジーがなければ切れないような切り口を見せていくっていうことだと思います。抽象的なことしか言えてないですけど、そういうことをずっとやってきたし、これからもやっていくんだろうなって、なんかそんな歌ありましたね(笑)。吉田拓郎でしたっけ。
長谷川 ま、とにかくダムタイプは変わり続けるというか、ずっとこれからもアクティヴに続く──「アクション+リフレクション」ということで、今回の展覧会はその経過の一コマを切り取って見せるっていうことだと思います。
高谷 そうですね。いままでの12メートルがどうやって終わるんだろうとか、どうやって続きつくるんだろうとか、どんな風になるんだろうなあとかっていう話をしててちょっと面白いなと思ってます。
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