新発見された、全国に広がった巡回展の記録
今年4月、改修工事に向けて丸木美術館内の整理をしていた際、位里と俊が書斎兼アトリエとして使用していた和室の押し入れの奥から、黒い鞄に入った大量の資料類を発見した。1950年代の全国巡回展に関連する、1000通を超えるチラシやパンフレット、入場券など。峠三吉や深川宗俊、川手健、上野誠、いわさきちひろ、真壁仁など、被爆者や文化人、巡回展を支えた関係者からの300通以上の書簡類。そして最初期の被爆者運動を伝える貴重な資料である『原爆被害者の会会則』(1952年8月10日)、『ヒロシマ通信』(1952年12月20日)も見つかった。
筆者は芸術という枠を超えて広がった「原爆の図」の受容史に関心をもち、とりわけ1950年代前半の占領下を中心にした巡回展の調査を行ってきた(拙著『《原爆の図》全国巡回』参照、新宿書房、2015年)。これまでに巡回展の動向を関係者がまとめた記録は見つかっていたし、各地の展覧会ポスターなども収集していたが、これほど多くの資料がまとまって見つかったのは初めてだった。

全国巡回のきっかけになったと思われる1950年10月の北九州の展覧会パンフレットや、1951年に産炭地を中心に北海道各地をまわった展覧会の各地の資料、1951年8月の参議院議員会館での展示を伝える「原爆の図三部作展協賛団体ニュース」、1952年9月の国会図書館の文化祭で展示された資料、1953年1月に長崎で行われた展覧会の開催趣意書や観覧券など、展示記録を裏づける貴重な一次資料が次々とあらわれた。
こうした巡回展は、朝鮮戦争とほぼ時期を同じくしていた。となりの国で再び戦乱の火ぶたが切られ、多くの命が失われている現実のなかで、広島の記憶を呼び起こすことは、過去だけでなく現在進行形の戦争暴力にあらがうことでもあっただろう。実際、全国に広がった巡回展の開催地は、朝鮮人コミュニティのある大阪の生野や、米軍基地のある立川、横須賀、岩国、佐世保などが含まれている。当時の展覧会の感想を読めば、原爆の惨禍の衝撃だけでなく、朝鮮戦争や米軍基地の存在、日本の再軍備に反対する声が目に止まる。今日、私たちが「原爆の図」にウクライナやガザの戦禍を想起したとしても、それは決して飛躍とは言えない。

「原爆の図」は1953年以降、国外にも巡回していった。ハンガリー・ブダペストの国立美術館をはじめに、中国の北京、ルーマニアのブカレスト、デンマーク国内各地、イギリス国内各地、さらにオランダ、イタリアなどヨーロッパ各地を巡回し、1956年からは国際運営委員会が結成されて、アフリカやオセアニアにもおよぶ本格的な世界巡回に発展していった。東西冷戦そして核実験の多発する当時の世界において、広島の惨禍は決してローカルな記憶ではなく、グローバルな意味をもつ切実な未来の予兆だっただろう。現在、国際的に美術館などの資料のアーカイブの整備と公開が進んでいるため、海外から「原爆の図」について問い合わせがあることも少なくない。今後の「原爆の図」研究は、次代の研究者によって、世界巡回の調査とその位置づけが進んでいくと期待している。




















