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大岩オスカール『はじめてアート』の魅力。松井茂が見たそのクリエイティヴのためのビジョン

現代美術家・大岩オスカールによる著書『はじめてアート』(ケースパブリッシング)はご存知だろうか。1995年に刊行され、昨年に絵本化された本書は、なぜ「アートを知るための本」として重要なのか。作家の活動を振り返りながら、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授の松井茂がその魅力について書く。

文=松井茂

大岩オスカール『はじめてアート』(ケースパブリッシング) © 2024 Case Publishing

 コロナ禍の最中、私のなかで存在感を高めた作家に大岩オスカールがいる。もちろん随分以前からその作家の存在も、作品も知っていたのだが、にわかに身近な作家となった。個人的な話だが、私の在住する大垣市の近隣、岐阜市にあるGALLERY CAPTIONで、2021年10〜11月に開催された「大岩オスカール ドローイング展」に並んだ、日常風景に紛れた《シャドウキャット》と《ライトラビット》、つまり光と影が織りなすいずれも虚像(片方が実像というわけではなく、じつは一対ですらないのかもしれない)が、私に侵入してきたのだった。それは1960年代の虚像を巡る書籍『虚像培養芸術論 アートとテレビジョンの想像力』(フィルムアート社)を上梓した直後というタイミングもあったかも知れない。現代アートの堆積が、視覚文化の厚みとなって、現代アートの堆積が視覚文化の厚みとなって、飛び込んできたのだ。そのとき「シミュレーショニズムの作家だよな」と、これまでオスカールにレッテルを貼っていた自分のパラダイムがあっけなくほどけてしまったのである。

 GALLERY CAPTIONに置いてあった、1998年のオスカールの個展「VIA CRUCIS」のカタログが、目に入った。「十字架の道行き」を意味するこの個展は、戦後再生された昭和の街並みが失われていく時期の寓話的なシリーズだ。すでにここに《ライトラビット》が現れている。そしてこのタイトル「VIA CRUCIS」は、通常14の儀式からなり、稀に15番目にキリストの復活が取りあげられるのだが、オスカールは15枚目に《ライトバード》を描く。15枚の絵画に対応する日記を読むと、東京を出立して、世界を巡って、帰ってきたか、やって来たのかがわからなくなった東京への回帰が述べられていた。

 程なくして「MOTコレクション Journals 日々、記す vol.2」に展示された20点の《隔離ドローイングシリーズ》に、私は吸収される。河原温の《Todayシリーズ》とともに並べられたオスカールの版画は、コロナ期間中の日記だ。日記といっても、キャンセルされた世界各地への訪問を空想で描いたり、植物や動物の進出によって廃墟化する未来都市像であったり、映画にあらわれる昭和の風景など、身近なニューヨークの生活は、寓話化されつつ現在の心象に接続する。コロナ禍とはいえ、オスカールの日記に描かれるイメージは、時空間を転覆する想像力に漲り、終末期でありながらも郷愁を誘う。透徹した世界観は揺らがない。「VIA CRUCIS」に描かれた世界と応答するし、冷戦期に淡々と日々を数えた河原の作品とオスカールの世界観がシンクロするなんて考えたこともなかった。

 そして2022年4〜6月、再び岐阜市にあるGALLERY CAPTION。オスカールが1995年に刊行した『はじめてアート』が28年振りに再版され、絵本出版記念の展覧会があった。再版にあたっては、10頁分の絵が2020年に追加で描かれ、作家は、25年前の「ぼくとのコラボレーション」と述べている。いまこれを見ると、1995年のそれぞれの絵の稠密なことに目を見張る。特にイメージを操作する技法的な観点への注目が強い気がするのだが、前半に述べた《隔離ドローイングシリーズ》に通じる時系列への指摘が、私の気を引く。それは「⑧どうしていろいろなアートがあるのだろう」だ。

大岩オスカール『はじめてアート』(ケースパブリッシング) © 2024 Case Publishing

編集部

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