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トライベッカはいかにして新たなギャラリー集積地になったのか? ブームの裏側を探る

これまでチェルシーを中心に栄えてきたニューヨークのギャラリーシーンは、近年その勢力図が変わりつつある。高騰する家賃や商業化が進むなか、ギャラリーは新たな拠点を求め、ダウンタウンのトライベッカが注目を集めている。本記事では、トライベッカへの移転の背景やその魅力、さらに今後のアートシーンに与える影響について探る。

文・撮影(*を除く)=國上直子

ブロードウェイ

 ニューヨークは第二次世界大戦後、世界屈指のアートの中心地へと成長した。市内には数々の有名美術館に加え、1400にも及ぶアートギャラリーが存在すると言われている。これまで多くのギャラリーがチェルシーに集中していたが、その勢力図に変化が生じ始めている。 

チェルシーの繁栄と変容

 チェルシーにギャラリーが集まり始めたのは、1990年代後半のこと。それ以前、ソーホーがギャラリー街として機能していたが、家賃高騰やアパレルブランドなどの出店によって、商業化・大衆化が進んだのを嫌ったギャラリーたちが別の拠点を探すようになった。

 もともとチェルシーは自動車整備工場などが軒を連ね、夜には売春婦が客待ちをする場所として知られていたが、80年代にはザ・キッチンやディア・アート・ファンデーションといった美術系のNPOがオープンしており、美術関係者にとって無縁の土地というわけではなかった。大きなスペースが格安で借りられるのに加え、無機質で独特の雰囲気を持つ街並みが、エイズの蔓延や不景気で鬱々としていた当時の美術業界の状況と響き合い、ギャラリーたちの興味を引いた。一定数のギャラリーがチェルシーに移転するとほかのギャラリーも追随し、2007年頃にはギャラリー数は350ほどに膨れ上がっていた。 

再開発中の頃のチェルシー

 この流れは結果として、美術界に大きな変化をもたらした。チェルシーの巨大な建物構造は、ソーホー時代には考えられなかった大規模展示を可能にし、大型作品の制作を促した。そして世界規模での富裕層急増との相乗効果で、作品価格の上昇、現代美術市場の拡大へとつながった。急成長した有力ディーラーたちは、メガギャラリーと呼ばれるようになり、いまや彼らは、美術館を凌ぐ影響力を持つと言われている。

 いっぽうで、「アートの街」としてイメージアップしたチェルシーを収益化しようと、2005年、ブルームバーグ市長(当時)により区画整理が行われ、商業施設や高級コンドミニアムの建築ラッシュが始まった。周辺の大規模再開発もスタートし、ハイライン、ホイットニー美術館、ハドソンヤードが相次いでオープン、ハドソン川沿いの公園も整備された。 

ハイライン(中央)なども整備されている

 これに伴い、チェルシーの地価は高騰。家賃の無理な釣り上げや、建物解体などの理由から、撤退を余儀なくされるギャラリーが続出した。また、拝金主義的な再開発に辟易し、自ら退去を検討するギャラリーも出始めた。そこで新たな拠点として目を向けられたのが、トライベッカだった。

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