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2021.5.23

美術史上最悪の未解決事件。被害総額5億ドルの「ガードナー美術館盗難事件」とは何か?

ボストンにあるイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館は、そのコレクションとともに、1990年に起こった大規模な盗難事件でも知られている。この事件は多くの関心と憶測を呼び、最近ではNetflixのドキュメンタリー「ガードナー美術館盗難事件 消えた5億ドルの至宝」で取り上げられた。本稿では同美術館の成り立ちと事件について振り返る。

文=國上直子

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館 出典=ウィキメディア・コモンズ King of Hearts, CC BY-SA 4.0
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創立者イザベラ・スチュワート・ガードナーとは

 1840年ニューヨークの生まれのイザベラ・スチュワートは、リネン貿易と投資で富を築いた父を持ち、裕福な家庭に育った。ヨーロッパ留学中、アメリカ人の学友ジュリア・ガードナーと親交を深めたことをきっかけに、ジュリアの兄ジョン・ガードナーと知り合い、1860年に結婚した。

 1863年に長男を授かるが、2年後に肺炎により亡くしてしまう。追い討ちをかけるように、医師から再び子どもを産むことができないと告げられたイザベラは重度の鬱状態に陥ってしまった。ガードナー夫妻は精神回復のため、海外を頻繁に訪れるようになり、やがて旅先で美術品収集を開始。それが後のコレクション形成につながっていった。

 イザベラの夫ジョンはボストンの名家の生まれで、ボストン美術館の理事を務めるなど、社交界の名士として知られていた。当時、社交界の女性たちは同性同士で行動を共にするのが不文律だったが、イザベラはアーティスト、ミュージシャン、作家、学者など、幅広い交友関係を持ち、気心の知れた男性の友人らと、ビールを飲んだり、スポーツ観戦したりと、型破りな行動で注目の的となった。また演劇や音楽に造詣が深く、自宅に有名なパフォーマーを招き、知人を集めチャリティイベントを開くことも多かった。

 

美術品収集の加速

 19世紀末のアメリカには空前の好景気が訪れ、富裕層の間でヨーロッパの美術品収集ブームが起こっていた。イザベラも好んだレンブラントの例を見ると、1893年時点では30作品あたり1作品がアメリカのコレクターに所有されていたが、1920年代には全作品の7分の1がアメリカに渡っていた。このブームの背景には、「旧世界にアメリカの優位を知らしめる」という側面もあったと考えられている。やがて「社会的・経済的成功を手に入れた人物は美術館を設立し、コレクションの一般公開をするもの」という道筋が確立していく。そしてイザベラ夫妻も、例に漏れず、美術館設立の夢を描くようになった。

 イザベラは当初、収集手始めの定番として人気だった版画やサロン絵画を購入していたが、80年代半ば頃にはオールド・マスターの収集に注力するようになる。1891年に父が他界し財産相続をすると、イザベラの収集は加速し、フェルメール、ティシャン、ホルバイン、レンブラント、ティントレット、ボッティチェッリなどが次々にコレクションに加えられた。アメリカの富裕層の間で美術品の収集競争が激化するなか、優位に立つためにイザベラは、ハーバード大学卒業後ヨーロッパで美術研究を行なっていたバーナード・ベレンソンと1894年に正式なパートナーシップを組み、収集に関する助言を得るようになる。ベレンソンは当時まだ駆け出しの研究者だったが、イザベラのコレクションがのちに歴史的に重要なものになるという確信から、イザベラに「名作中の名作」だけ集めるよう繰り返し強調したという。その後の10年で、およそ40のオールド・マスターの名画がイザベラのコレクションに追加された

美術館設立

 1898年にジョンが亡くなると、遺産から美術品の購入資金を引き出すのに複雑な手続きを要するようになり、収集活動は減速せざるを得なかったが、イザベラは夫婦の夢であった美術館の準備に乗り出した。建設工事は1899年に開始。ベニスの宮殿をモチーフにした建物やこだわった内装には、イザベラの趣向が強く反映され、イザベラは作品の配置にいたるまで一切の妥協を許さなかった。1903年元旦、美術館は「フェンウェイ・コート」という名称で開館。「国内最高の絵画コレクションを擁する美術館」と絶賛され、「コレクションの質は、メトロポリタン美術館やボストン美術館を凌ぐ」と評する専門家もいた。そして1920年代にフィラデルフィアにバーンズ財団が設立されるまで、全米最大の私設美術館を誇っていた。

 同時期にはJ・P・モルガンや、ヘンリー・クレイ・フリックなども、オールド・マスターの収集に熱を注いでいた。彼らと比較するとイザベラの作品の購入資金は非常に限られていたが、コレクションの質においては彼らに引けを取らず、イザベラの審美眼への高い評価につながっている。さらに、ひとりの女性がこれほどまでのコレクションと美術館を実現させた例は非常に珍しく、その点でもイザベラの功績は際立っている。1924年にイザベラが亡くなったのち同館は「イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館」へと改名され、今でもボストンの誇る文化施設として親しまれている。

盗難事件

 イザベラは美術館の維持費として120万ドルを寄贈するとともに、「美術品の配置を永久に変えてはならない」という遺言を残してこの世を去った。ところが時を経て、同館の資金繰りは厳しくなるとともに、イザベラの遺言も美術館の設備刷新を阻んでいた。1981年、ガードナー美術館はFBIから「盗難のターゲットになっている可能性がある」という警告を受けていたものの、セキュリティ設備の強化ができない状態が続いていた。

 そして1990年3月18日未明に事件は起こる。警官の制服に身を包んだ二人の男が「騒ぎが起こっていると通報を受けた」との口実で美術館に押し入り、美術館の警備担当2名を地下室に手錠で拘束。その後警官姿の男たちは、展示室を物色し、最終的にレンブラントの《ガリラヤの海の嵐》やフェルメールの《合奏》という貴重な絵画を含む13点を持ち去った。犯行時間は81分間。被害総額は5億ドルに及び、本件は史上最大の盗難事件とされるが、現在も未解決のままとなっている。

ガードナー美術館から盗難された作品 レンブラント・ファン・レイン ガリラヤの海の嵐 1633 キャンバスに油彩
ガードナー美術館から盗難された作品 ヨハネス・フェルメール 合奏 1665頃 キャンバスに油彩

 現在もFBIによる本件の捜査は続いている。ガードナー美術館は、作品の安全な返却につながる情報提供に対し500万ドルの報奨金を提示していたが、2017年に1000万ドルに引き上げている。

 これまで多くのドキュメンタリーや書籍がこの事件を追ってきた。事件には、地元ボストンのマフィアメンバーが関与していたという見方が強いが、事件そのものは1995年に時効が成立しているため、現在は作品の回復が最重要課題となっている。ガードナー美術館は2021年4月に改めて「作品が無事返却され、再び一般の人々に鑑賞してもらえるようになると信じている」との声明を出しており、引き続き一般からの情報提供を強く求めている。

ガードナー美術館から盗難された作品 レンブラント・ファン・レイン 若き芸術家の自画像 1633 エッチング
ガードナー美術館から盗難された作品 レンブラント・ファン・レイン 黒装束の婦人と紳士 1633 キャンバスに油彩
ガードナー美術館から盗難された作品 ホーファールト・フリンク オベリスクのある風景 1638 パネルに油彩
ガードナー美術館から盗難された作品 エドゥアール・マネ トルトニ亭にて 1875頃 キャンバスに油彩
ガードナー美術館から盗難された作品 エドガー・ドガ パドックからの退場 19世紀 紙に水彩と鉛筆
ガードナー美術館から盗難された作品 エドガー・ドガ フローレンス近郊の行列 1857〜60頃 紙に鉛筆とセピアウォッシュ
ガードナー美術館から盗難された作品 エドガー・ドガ 1884年6月15日夜会プログラムのスケッチ 1884 紙に黒チョーク
ガードナー美術館から盗難された作品 エドガー・ドガ 1884年6月15日夜会プログラムのスケッチ 1884 紙に黒チョーク
ガードナー美術館から盗難された作品 エドガー・ドガ 三人の騎手 1885〜86頃 茶色の紙に黒インクとグワッシュ
ガードナー美術館から盗難された作品 フランス・旗竿頂部装飾(ワシ) 1813〜14 金メッキ・ブロンズ
ガードナー美術館から盗難された作品 中国・殷王朝の杯 紀元前1200〜1100頃 ブロンズ