孔子廟とは
「孔子廟」は中国の儒教(儒学)の創始者とされる孔子を中心に、歴代の儒者の霊を祀る施設である。儒教は中国から伝わった思想だが、江戸時代には、幕府が封建制度を維持するために奨励した。この流れから、日本国内の各地に孔子廟が設けられており、史跡や文化財に指定されているものもある。
今回の訴訟で問題となった「久米至聖廟(くめしせいびょう)」は、那覇市中心部の公園内にある文化施設である。判決によると、年に1度の祭礼の時だけ、門扉の中央が開き、酒を供えたり線香を上げたりする儀式がある。施設は一般社団法人「久米崇聖会(そうせいかい)」が2013年に建設し、管理している。市は論語の講座を開くスペースもあることなどから「体験学習施設」にあたると公益性を認め、年576万円の使用料を無償としていた。これについて原告は、実態は儒教を普及させるものではないかとの疑いを持ち、政教分離違反で市を訴えていた。市は「儒教は哲学で運営に宗教性はない」と反論していた。
政教分離をめぐる最高裁の憲法判断は、戦後つまり憲法が現在の日本国憲法になってから5件あるが、どれも神社に関するもので、儒教の施設が判断の対象となるのは今回が初めてだ。
儒教の施設は全国に点在している。日本最古の孔子廟は栃木県足利市にある史跡足利学校にある。また佐賀県の多久聖廟(たくせいびょう)は国の重要文化財に指定されている。これらは自治体の所有となっており、孔子を祭る儀式も行ういっぽうで、歴史的遺跡としても知られている。東京都文京区の湯島聖堂も、江戸時代の1690年に創建されたもので、「近代教育発祥の地」とも言われ、国の史跡に指定されている。土地も建物も国の所有である。市民向けに論語や書道の講座も開かれ、孔子祭も催されている。こうした文化活動を行っている各自治体の文化教育関係者や、その福利を受けている孔子ファン・論語ファンや書道家にとって、この判決がどう影響するか気になるところだろう。また、孔子廟以外にも、もとは宗教にルーツを持つ古美術を、公費で所蔵・展示している公立美術館や公立博物館は多数ある。そういったところにも影響があるのかどうか。
政教分離とは
政教分離は、国や自治体は宗教と結びついてはならないとする憲法上の原則である。国や自治体などの「公」が関心事とするべき政治政策と宗教とを分け、「公」は宗教の布教などを行ってはならない、という意味で「政」「教」分離と呼ばれている。日本国憲法上は、20条と89条に規定がある。20条は個人の「信教の自由」を保障したうえで、この保障を確実にするために、国による宗教活動・宗教支援活動を禁止している。また89条は、このことを財政面から確実にしようとする規定で、国や自治体が公の財産を宗教団体に提供することを禁止している。
この規定にはふたつの流れがある。ひとつは戦前の日本政府が国家神道を利用し、軍国主義を進めたことへの反省である。ここでは、かつて結びついていた国家と神社神道とを切り離すことが主な関心事となる。日本の最高裁が政教分離違反の訴訟に対して違憲判決を出したのはこれで3件目となるが、先の2件はどちらも神社神道に関するものだった。儒教施設に関する判断は今回が初めてとなる。
もうひとつは、より広い世界史のレベルの流れで、アメリカやフランスなど欧米の立憲諸国は宗教戦争や国内抗争の反省からこの原則を採用している。イギリスだけは敢えて国教を定めるという形で解決を図ったが、これも国内外の宗教抗争を終わらせて国内を平定しようという目的があってのことだった。200年以上も前、欧米諸国が中世から近代へと脱皮するとき、宗教による紛争を国政の関心事とすることをやめよう、そうすることで平和を確保しよう、という決意が共有され、それが各国の憲法の基本原則になったのである。例えばゴヤの絵には、この脱皮の時期の動乱が描かれている。どちらの線から見ても、政教分離は、宗教的信仰を個人各人の「自由」とすることに目的があり、決して宗教そのものの意義を低めているわけではない。
それでは儒教は、神社神道などと同じ「宗教」なのだろうか。
日本の研究者の間では、儒教は学問・思想に属するものとする見解が多いようだが、先祖と子孫の関係を軸とする宗教だという見方もある。キリスト教やイスラム教などに比べて、それ自体の宗教性は、はっきりしていない。
これまでの裁判は
裁判所の判断の流れを見ると、これまではおおよそ、このような考え方がとられてきた。
政教分離を徹底すれば、社会に広く浸透した行事や慣習ができなくなり、宗教的な文化財や私立学校を公的に支援できなくなる。そのため、政教分離の原則を緩やかにとらえ、公(国や自治体)の行事や公金支出などの行為が限度を超えた場合に違憲とする。では、どのような場合に限度を超えたと見るか。これについては、その行為を行った国や自治体が、宗教を支援助長する目的を持っていたか、またはそのような効果を持っていたかで判断する、という考えがとられている。しかしこの判断も実際には公に対して甘いものとなっていたため、政教分離の規定の趣旨を正しく汲んだものとは言えないとする批判が、多くの識者から出されてきた。
なぜ甘くてはいけないのかというと、これは宗教的同調圧からの自由、とりわけ宗教的少数者の自由を確保するためのルールだからである。もともと公は、社会の多数者の意見や気分を反映しやすい。その公が無自覚に同調圧力に加担してしまうことを防ぐ規定なので、「まあいいじゃないか」という多数派の気分を法の世界でそのまま通してしまっては、この規定が存在する意味がなくなってしまう。ここからすると、日本の政教分離は、政治の世界でも司法の世界でも、かなり甘い状態が続いている。今回、そこに一石を投じる最高裁判決が出るかどうかが、憲法の世界では注目されていた。
政教分離が裁判で争われたときの判断基準を最高裁が初めて示した判決は、1977年の「津地鎮祭(つ・じちんさい)訴訟」判決だった。津市が市立体育館の起工式で神社神道式の地鎮祭を行い、その謝礼を公費から神社に支払ったことをめぐる裁判だった。判決は、日本で政教分離を完全に実現することは無理で、憲法は「宗教との関わりを全く許さないものではない」とした上で、憲法違反となるかどうかは問題となった行為の目的や効果によって判断するとした。結論は、津市の行為はこの基準で見て憲法違反となるとは言えず合憲というものだった。
1997年、最高裁は「愛媛玉串料訴訟」判決で、この基準に従って初めて違憲判決を出した。愛媛県知事が靖国神社に公金支出によって寄付をしていたことを憲法89条違反としたものだった。
その後、二度目の違憲判断となった2010年の空知太(そらちぶと)神社訴訟の最高裁違憲判決は、今回の孔子廟判決と同種の公有地の無償使用をめぐる判決である。北海道砂川市が神社に市有地を無償で使わせた行為について、最高裁は「施設の性格や無償提供の経緯、一般人の評価などを考慮し、社会通念に照らして総合判断する」との基準を追加したうえで、違憲とした。
「特定の宗教を援助」
今回の最高裁判決は、おおむねその下級審判決である那覇地裁判決(2018年)を支持する内容となっている。地裁では、上記の空知太神社訴訟判決を踏まえ、今回の訴訟で問題となった「久米至聖廟」を違憲と判断した。孔子の霊を迎えるため供物を並べたり、祭礼日だけ門扉の中央を開いたりする宗教的儀式を行っている点や、会の正会員を特定の血統子孫に限っている点で閉鎖性があると指摘し、「儒教が宗教に当たるかにかかわらず宗教的性格の色濃い施設だ」として、使用料免除は憲法が禁じる「宗教的活動」にあたるとした。
その控訴審の福岡高裁判決(2019年)は、合憲か違憲かについては基本的に同じ判断をしつつ、土地の使用料については市に任せられた裁量だとして、額について言及しなかった。これに対して、違憲な行為であれば市が団体に金銭的便宜を与えるのはおかしい、全額を徴収すべきだ、との姿勢で原告が最高裁に上告したため、今回の最高裁判決となった。
つまり、市の行為が政教分離に反しているという点では、地裁・高裁・最高裁のすべての判決で一貫しており、判断が分かれたのは、市が一般社団法人から徴収すべき土地使用料についてだった。この点について最高裁は「市に裁量はない」として、全額を徴収すべきだとした。高裁よりも、原告の主張に沿って、市側に対し厳しい判決が出たことになる。
この判決で最高裁は、建物などの配置や参拝の状況から、社寺との類似性を認めた。孔子の霊を迎える年に一度の祭礼も、宗教的な意義を持っており、そのための施設には宗教性が認められるとした。土地使用料免除額(年570万円超)については、「施設側が受ける利益は相当に大きく、社会通念に照らしても許容できる限度を超えている」と判断した。そのさい、無償提供されてきた土地の広さも問題視している。
前述の「空知太神社訴訟」の最高裁判決で示された「総合的判断」にのっとった判断と言えるが、「社会通念」「総合的」という言葉を「まあいいじゃないか」と丸める方向で使うのではなく、総合すべき複数の要素それぞれに具体的に踏み込んでいる。そして儒教が宗教かどうかを判断することはしないまま、「祭礼の観光化」を嫌っての閉鎖性や、免除額の大きさをもとに、市が使用料を免除したのは「宗教的活動」に当たると判断したわけである。
依拠した基準は同じでも、この分野のこれまでの判決に比べ、厳格で踏み込んだ判断となっている点は、憲法的観点から見て望ましい方向である。しかし、文化芸術関係者にとっては、悩ましい内容でもあるだろう。
この裁判では市側が「施設は渡来中国人の歴史や文化を伝え、観光資源としての役割を果たしている。特定の宗教の優遇にはならない」と反論していた。今回の判決は、こうした歴史的な価値や観光資源としての役割を考慮しても、市と宗教との関わり合いが限度を超えていると結論づけた。しかも、宗教法人として認定を受けているような明確な「宗教」でないものでも、実態に照らして「宗教的な意義」があるとされれば違憲違法となる可能性がでてきたわけだが、ここが多くの自治体の文化政策・行政関係者にとって、心穏やかでいられない部分ではないだろうか。
文化活動への萎縮効果は
この日の判決では実際、この憂慮を汲んだ反対意見が1名の裁判官から出ている。概要をまとめると、久米崇聖会は、琉球王朝時代風の孔子廟を維持すること、祭礼を続け、論語などの東洋文化を若い世代に普及させることを目的としたもので、宗教としての儒教信仰を普及させようとしているとは言えない。祭礼は伝統ないし習俗の継承であって、宗教性はもはや希薄である。その中で、外観のみで宗教性を肯定し、政教分離規定違反とすることは、歴史研究・文化活動への公的支援の萎縮効果などの弊害すらもたらしかねない、というものである(林景一裁判官の反対意見)。
この反対意見は、多くの文化芸術関係者の懸念をよく代弁しているものではないだろうか。筆者も、この「萎縮」の懸念は、当たっていると思う。
しかし、この「萎縮」を乗り越える道は、この事例を「合憲」とすることではなく、関係者がこの判決を丁寧に受け止め、憲法の原則を正確に理解することである。筆者が本稿を書いているのも、そのためである。
そこで、この判決から文化芸術関係者が読み取るべきことを、もう少し丁寧に見てみたい。
まず、ここまで見てきてわかったように、今回の最高裁判決は、「儒教は宗教か? 孔子廟を公が支援することは憲法20条・89条に反するのか?」という問いに一挙に決着をつける内容ではない。そこを最高裁は判断せず、別の面から検討した。
したがって、全国にある孔子廟がこの判決によって違憲となるわけではなく、土地の無償使用をいきなり打ち切られる心配もない。ただ、各地で施設のあり方の見直しをする必要はある。判決の論理から言えば、今後、これまで明確に「宗教」として扱われてこなかったものでも、その運営実態から憲法20条違反、89条違反の判断を受ける行事や施設がありうることになるからである。先に見た判断基準からすると、各施設の運営実態や地域住民の受け止め方など、多くの要素と実情に照らして総合的に判断することになるため、今回の判決が影響するかどうかは施設ごとに異なってくる。
「公共」の名にふさわしい運営を
まず、文化財ないし歴史的意義や芸術的意義に照らした価値があるかどうかである。
今回の判決は、施設の「文化的・社会的な価値や意義」によっては使用料の免除も適法になり得ると指摘した上で、文化財としての位置づけがない久米至聖廟はそれに当てはまらず、旧施設の宗教性を引き継いでいると述べている。ここから、文化財その他、歴史的・文化的な価値が認められているかどうかが判断の要素として重視されることがわかる。
逆から言えば、発祥としては宗教的信仰から出たものであっても、現在、歴史的・文化的価値が認められているものであれば、相対的にその公共価値が認められやすいと言えるだろう。その価値認定は、裁判所が直接行うわけではなく、その領域の専門家の判断を尊重する姿勢がとられると考えられる。たとえば、湯島聖堂(東京都文京区・前述)は国の史跡に指定されているが、こうしたことが政教分離違反の可能性を後退させ、公的支援を正当化する可能性を高めると考えられる。
ただし、この要素も万能ではない。
例えば、古美術としても文化財としても評価が確立している美術品や施設があったとしても、その展覧のあり方が今回の判決でいう「宗教的意義」に当てはまるものであった場合には、政教分離違反の判断を受けることになるだろう。例えば、文化財や古美術として知られている仏像や仁王像も、一般市民に開かれたものとは言いがたい聖化・秘儀化をともなう礼拝対象としたり、その管理や継承が「公共」の精神とは相いれない血族的特権(とくにその神に仕える血族といった理由に基づく継承であればなおさらである)となっていたりすれば、政教分離違反の判断を免れなくなるだろう。
ただ、孔子廟を公的支援することそのものが違憲と判断されたわけではないので、那覇市の孔子廟も、その運営方法を変えて出直すことにすれば、あらためて公有地の無償使用を受けることはできるはずで、そこは面倒でも萎縮せずに存続を検討してほしいところだ。
今回の判決の論理は、靖国神社など公有地に建つ戦争や災害の慰霊施設が宗教性を帯びている場合をどう考えるか、という問題についても、これまでより一歩踏み込んだ議論を可能にする芽を持っている。これは本来ならもっとずっと以前に、どこかで通らなければならない道だった。
反対意見が懸念する萎縮は、文化行政関係者にとってはたしかに大きな問題となってくる。しかし、この判決が投げかけた《学び》の必要を、萎縮という形で受け止めてしまえば、「あいちトリエンナーレ2019」に端を発した各地の公的芸術支援の萎縮の二の舞になってしまう。
この判決を、公的文化支援にたずさわる者が持つべき知識として受け止め、「なぜそんな憲法原則があるのか」を理解しよう、この基本ルールを使いこなそうという気構えを持つことで、萎縮を乗り越えることが求められている。文化芸術の領域の人々と憲法研究者が知恵を出し合う場面が、またひとつ増えた。