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2020.8.8

ゴッホの《ひまわり》はなぜ名作と呼ばれるのか? ゴーギャンとの出会いがもたらしたもの

フィンセント・ファン・ゴッホを代表する連作「ひまわり」。そのうちの1点が、国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されている。ゴッホが描く「ひまわり」はなぜ「名作」なのか? 複数の「ひまわり」を比較し、考察する(本稿掲載のロンドン版《ひまわり》以外は、「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」には出品されていない)。

文=verde

フィンセント・ファン・ゴッホ ひまわり 1888 キャンバスに油彩 92.1×73cm (c) The National Gallery, London. Bought, Courtauld Fund, 1924 ※「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」出品作品
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 ゴッホと言えば、ひまわり。ひまわりと言えばゴッホ。この両者ほど、強く結びついている組み合わせはないだろう。

 そして、「ゴッホの代表作」「ゴッホのヒマワリ」と言ったときに、必ず一番に連想されるのが、現在、「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されている《ひまわり》である。これは、ゴッホの代名詞的作品として、名高いだけではない。彼の友人ゴーギャンからも、「フィンセント(ゴッホ)の作風を本質的に表した完璧な一枚」(展覧会カタログ、p.230)と評されている。

 彼にこのように言わしめたものとは、一体なんなのだろう。なぜ、ゴッホの数百点もの作品のなかで、ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵するバージョン(以下、ロンドン版)が、特別な位置を占めているのだろうか。その理由について、探ってみよう。

フィンセント・ファン・ゴッホ 麦わら帽子を被った自画像 1887 メトロポリタン美術館蔵

ゴッホと「花」モチーフ

 1886年2月、パリに出てきたゴッホは、花を題材にした静物画を集中的に描き始める。動機のひとつは、モデルを雇うお金がなかったから。花の絵なら、売れやすい、という目論見もあった。

 ふたつ目の理由は新しい技法「色彩表現」の実験のフィールドとして。それまで、茶色を基調とした暗い色調で描いていたゴッホは、パリで印象派や浮世絵に出会い、その「明るく鮮やかな色彩表現」に魅了される。そして、確実に自分のものとして取り入れるべく、バラやキク、グラジオラスなど、あらゆる花の絵の制作を通して試行錯誤を繰り返すようになった。

 なかでも、彼がとくに熱中したのが、当時最新の理論だった「補色」の研究だった。例えば、1887年夏に描かれたこの《2本の切ったヒマワリ》(1887)を見てみよう。

・フィンセント・ファン・ゴッホ 2本の切ったひまわり 1887 メトロポリタン美術館蔵

 青色の背景に、横たえられた2本の黄色いヒマワリがくっきりと浮かび上がっている。このように互いの存在を強め合う青と黄色の組み合わせは、有名な《夜のカフェテラス》(1888)をはじめ、ゴッホの作品で頻繁に使われている。

 赤や青、黄などあらゆる色彩を、自らの内面を表すツールとして自在に使いこなす「色彩画家」ゴッホのベースは、まさにこのような実作の繰り返しのなかで培われたと言えよう。

 また、色彩実験の産物たる《2本の切ったヒマワリ》は、ゴッホにとって重要な出会いをももたらした。画家仲間と共に開催した展覧会に同作を出品したところ、自分の作品との交換を申し入れてきた人物が現れたのである。それが、ポール・ゴーギャンだった。

名作・ロンドン版《ひまわり》誕生

 1888年、南フランスのアルルへ移住した彼は、やがてある夢を思い描くようになる。「この地(アルル)に、画家仲間を呼び、芸術家の共同体(ユートピア)を作りたい」。ゴッホの呼びかけに、ゴーギャンが応じる。

 喜んだゴッホは、共同生活の場となるアトリエを12枚のひまわりの絵で装飾するプロジェクトを思いつき、1888年夏、早速制作に取り組み始めた。

 ひまわりは、ゴッホが「共同体」の象徴として選んだ花であり、前述したように、ゴーギャンとの出会いにも関わっていた。ゴーギャンへの歓迎を示すのに、ゴッホにとって、これ以上のものはなかっただろう。

 しかし、花の時期が過ぎてしまったために、当初の予定に対し、実際に描きあげられたのは4枚だけ。最後に描かれた4枚目こそ、ロンドン版の《ひまわり》だった。ここで彼は独自の試みをしている。花はもちろん、花瓶や置かれている台、そして背景の壁までをも含む全てをトーンの違う黄色を用いて描き出しているのである。

フィンセント・ファン・ゴッホ ひまわり 1888 キャンバスに油彩 92.1×73cm (c) The National Gallery, London. Bought, Courtauld Fund, 1924 ※「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」出品作品

 ミュンヘンのノイエ・ピナコテークが所蔵するバージョンを含め、それまでに描かれた3枚は、パリ時代の《2本の切ったヒマワリ》と同じように、青や青緑を背景とすることで、色同士を対比させ、花の存在を際立たせていた。しかしロンドン版ではそれがない。

 代わりに、ゴッホは、ある工夫をこの作品において行っている。それは、絵の具の塗り方を変化させることだった。近くで見ると、メインである花の中心部や花弁の部分は、チューブから絞り出した絵の具をそのまま掬い取って乗せたかのように、厚く盛り上がっている。とくに花弁部分は、うねるような勢いでもって筆を動かしたのがわかるほどで、それが花に生命力を付加することにもつながっている。

 対して、背景は、やや薄いトーンであっさりと、しかしムラや塗り残しがないように、丁寧に塗られている。

 このように、同じ黄系の色を使いながらも、トーンや、絵の具の塗り方にメリハリをつけることで、ゴッホは、メインモチーフたるヒマワリの存在をより前面へと押し出すことに成功しているのである。

フィンセント・ファン・ゴッホ ひまわり 1888 ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)蔵

ゴーギャンと《ひまわり》

 1888年秋、ついにゴーギャンが、アルルにやって来た。寝室に飾られた絵のなかでも、彼はとくに黄色づくしの《ひまわり》を気に入り、絶賛する。共同生活を始めて2ヶ月が経った頃には、《ひまわり》を制作したときのゴッホの姿を想像しながら、描いてみたりもしている。

 しかし、共に強烈な個性の持ち主だったふたりの生活はそれから間もなく破綻する。ゴッホが自らの耳を切り落とす事件を起こし、ゴーギャンは逃げるようにアルルを後にする。その後、ふたりは直接会うことはなかった。しかし、手紙のやり取りは続けており、あるとき、ゴーギャンは次のような頼み事をしている。「あの《ひまわり》(ロンドン版)を送って欲しい」。

 ゴッホはロンドン版をもとに、3枚の「ひまわり」を制作するが、結局それらをゴーギャンのもとに送ることはなかった。これを最後に、ゴッホはひまわりを描くことをふっつりとやめてしまう。「共同体づくり」の夢が潰えてしまった以上、彼が夢の象徴でもあったひまわりを描く意味は、もうなくなってしまったのかもしれない。

 アルルで共に暮らしたあの頃に戻ることは、できない。いま、ゴーギャンの頼みを聞いたところで、何か変わるのだろうか?

 いっぽう、《ひまわり》は、ゴーギャンの記憶のなかにより強く根付いた(手に入らなかったせいもあるかもしれない)。晩年、彼は友人に頼んでヒマワリの種を送ってもらい、下のような作品《肘掛椅子の上のひまわり》(1901)を描いている。

ポール・ゴーギャン 肘掛椅子の上のひまわり 1901 ビュールレ・コレクション

 肘掛け椅子は、かつてアルルでゴッホがゴーギャンのために用意していたもの。そこに、ゴーギャンは、ゴッホの筆跡を真似るかのように自らのサインを書き込んだ。

 また、ひまわりを入れた花器の青は、かつてゴッホと交換した《2本の切ったヒマワリ》の背景を連想させる。

 ゴッホの夢は潰えてしまった。しかし、彼が夢を託したひまわりは、たしかにゴーギャンの心に種を蒔き、根付き、そして10年以上の歳月を経て、新たな花を咲かせたのである。ゴッホにとって、「ひまわり」連作に取り組んでいた1888年の夏ほど、未来への希望と前向きな感情とに満たされていた時期はなかったのではないだろうか。

 ゴーギャンがアルルに来てくれる、と知ったとき、ゴッホは夢の実現への一歩を踏み出せた気がしただろう。その実感を噛み締めると共に、次のような思いも生まれたのではないか。

 この年上の友人に、画家として、いまの自分の最高の出来の作品を見せたい。

 パリで作品を交換したときから、自分がこのアルルでどのように進化したか、見てもらいたい。

 友への思い、そして「未来」に対する期待は、ひまわりを描きあげるごとに高まっていっただろう。そして、それらの感情は、連作の最後にあたるロンドン版においては、「黄色」という色彩を通し、画面いっぱいに満ち、息づいている。まさに、色彩を、自分の内面(感情)を表出させるツールとして使いこなす、「フィンセント(ゴッホ)の作風を本質的に表した完璧な一枚」と呼ぶのがふさわしいのではないだろうか。

ポール・ゴーギャン ひまわりを描くフィンセント 1888 ファン・ゴッホ美術館蔵