顔、その不可触なもの
2014年に日本で公開された蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の映画『郊遊』を見た私は、度肝を抜かれた。これで劇映画は引退し、アートの世界に深く入り込んで、今後は発表の場を美術館に移すと宣言した監督は、映画のラストでツァイ・ミンリャン作品すべての主役を務めてきたリ・カーションの背中をとびきり長時間の長回しでとらえ、部屋の壁の滲みをクローズアップで定点観測していた。たとえ途中で眠ったとしても、起きてもまだ「壁」という具合に、何かが起こると期待する観客を裏切り、映画の概念を超越する作品を誕生させていた。
それまでも俳優に脚本を渡さず、カメラ前のドキュメント性を重視してきた監督の最終通告の一作は、もう映画のカメラを絵画の筆のように扱っていきたいのだという、強い意志を感じさせた。この事物を事物のままに、ただ存在が保有する時間を映し出すものとして撮る長回しのカメラが、「顔」という媒体を通して、劇場に帰ってきたのが映画『あなたの顔』(2018)である。
本作では、ひたすらクローズアップで顔が映し出される。編集点は存在しない。10分なら10分、彼/彼女たちがカメラ前に座って、ぼんやりどこかを眺めていたり、寝てしまったり、またおもむろに起きて話したり、吹き出したりする時間にひたすら付き合う。かつての悲恋や、親孝行ができなかったという後悔の念を話す人もいるが、ほとんど彼/彼女たちは、カメラ前で何をするでもない、ただそこにいるだけだ。それが13人続く。90分間、彼/彼女たちがただ存在している、その時間にひたすら付き合う。
少し恥ずかしそうに目をきょろきょろさせて戸惑う女性は、急に笑い出すのだが、その笑顔のキュートさに彼女自身が人生をどうとらえているか、その豊かさが顕現されたりする。いっぽう口を半開きにしてカメラを、というか他者そのものを、もうことさら意識していないような老人を見つめていると、この人の過去に起こった体験に対する決断の履歴が、その顔に刻まれていると感じ始める。戦争があったかもしれない、悲劇も喜劇もあっただろう。この人が家族や友人と交わす会話や、人間との距離をどう取る人なのかを想像する。人生とは一体なんなのだろう。こうして私たちは、落ち込んでいても浮かれていても、いつ何時も顔を他人に向け続け、なにがしかを訴えかけている。
私は長い入院の末、亡くなった祖父と過ごした病室を思い出す。最近読んだ面白い本の話や、なにか喜ばせる話をしたくて私は口を開くのだが、言葉は虚しく空中に舞い、心許なくてすぐに黙ってしまう。でも祖父はただ私がそこにいればいいようで、私は黙って祖父のそばにいることに慣れるのに、しばらく時間がかかった。人はどれだけ多くの、何も起きない瞬間を生きていることか、人は、その人のなかで堆積した時間と未来への予兆のなかでたゆたい、ただそこに存在している。
ふと仏像を眺めているような心地になる。人は仏像を見つめ無心になるが、心は解放されている。この映画を見ている時間は、その状態に近いのだ。ここに映っているのが、顔たちが存在している時間そのものだからだろう。それは台湾という国の時間でもある。黙り込む彼ら/彼女たちの背後に響く、オートバイの音や近所の人の話し声。犬が吠え、太陽が陰り、風が吹く、かの国の奥深さをも思う。コロナ禍でも迅速な素晴らしい対策を行った国。能力のある人がきちんと適所に就き、才を発揮することができる国。私たちは指を咥えて彼らを見ていた。そう思い出してもう一度この映画を見ると、人間たちの顔に皆てらいがなく動物的というか、人間理性が蓋をし繕っているモードのようなものが少ない。カメラの前で寝たり、舌の体操をしたり、ハモニカを吹いたり、みな自由で抑圧的なものを感じない。きっと監督自身も屈託ない顔でカメラ横にいるのだろうと感じさせる。だからこそなのか、この映画は顔だけが映し出された極北的な前衛映画なのに、どこか軽やかで風通しがよい。人間が自然界や動物界とあまり隔てられず、地続きのアジアの時間。「東洋の自画像」という言葉も浮かぶ。
最後には、男神リー・カンションの顔が出てくる。父との思い出を語り、もう少し何かを思い出そうとするが記憶の淵にまた沈み込むようなカンションの顔を見ていて、ツァイ監督は本当にカンションのことが、彼の顔が好きでたまらないのだという感情の塊のようなものを受け取る。泥の川と化した台北の街で首が曲がる奇病にかかり(『河』(1997))、スコールのやまない街でベッドマットレスを運び(『黒い目のオペラ』(2006))、水のしたたる部屋でブリーフ姿で過ごしていた(『HOLE』(1998))カンションが、少し皺の増えた顔をこちらに向けている。そこだけプライベートフィルムのような親密さを感じて、ツァイ監督とカンションがふたりでつくってきた映画の歴史を想像していると、画面はロングショットとなり、洋館のホールのような空間を映しだして、静かに終わってゆく。
監督が切望したという坂本龍一が書き下ろした音楽は、ピアノの弦を指で弾いたような不思議な音や、チューバだろうか、深い管楽器の息の感触、あるいは人の鼓動のようなノイズが、水底から響いてくるように沸き立ち、心身の琴線を震わせる。私たちが彼らの顔から受けとった森厳な印象を、盛り立てるでも、介入するでもなく、思考を深く喚起する。ラストに建築空間に鳴る音もまた、冥界から響いてくる亡霊たちのささやきのようで、ここで私はようやく深く息を吸うことができた。日本が統治していた時代に建てられたモダニズム建築に、光が射したり翳ったりしている景色には、私の感情が入る余地があったのだ。
逆にいえば、それまでの時間、他者の顔を見続けることは、私に張りつめた緊張感を要求してきた。人間の顔とはこちらの想像を超越している。そのことが私を畏怖させていた。ユダヤ人としてナチス軍に収容され、親族のほとんどを亡くした経験を持つ哲学者エマニュエル・レヴィナスは、人間の顔こそが「汝殺すなかれ」と、他者に倫理を要請してくると言った。顔は私たちに何事かを問いかけ、私たちの行為や反応を促す。しかし、だからこそ他者の顔とは、私たちの配慮や予測、行為をつねに逃れ、理解することができないものなのだとレヴィナスは言う。その他者からの、「私を殺さないで」というメッセージとの往還が、人に倫理を発生させるのだと。他に開かれてある「顔」が有している、触れることができないという深い不可触性がある。この映画が内包しているのは、その他者の時間というはかりしれない存在感だった。
マスクやフェイスシールドに覆われ、あるいはヴァーチャルな壁の向こうに見える顔と顔を突きあわせているいまの私たちは、「他者の顔」からの応答をキャッチできているのだろうかという不安にもまた、苛まれたのだった。