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REVIEW - 2019.7.29

身体をめぐる切実な希求がかたちになるとき。中村佑子評「塩田千春展:魂がふるえる」

糸を用いた大規模なインスタレーション作品などで、世界的に高い評価を得ている塩田千春。25年にわたる活動を網羅的に見せる過去最大規模の個展が森美術館で開催中だ。一昨年にがんが再発し、死と寄り添いながら治療と制作を進めてきたという作家は、いま、身体や魂の存在とどのように向き合い、かたちにするのか。映像作家の中村佑子がその軌跡を論じる。

文=中村佑子

不確かな旅 2016/2019 鉄枠、赤毛糸 サイズ可変 Photo by Sunhi Mang 画像提供=森美術館 Courtesy of Blain|Southern, London/Berlin/New York

疎外された生の回復 

 赤い糸がからまりあい空間全体を満たしている。その糸を一身に集めるようにすっと、舟が何艘か床にうち置かれている。舟と舟は交わらないが、そこから伸びる糸は無数につながりあっている。

 私たちはこの世界に、ひとり一人が孤独な衛星のように生み落とされているが、つねに何かとつながっている。それは人間世界の関係性というだけでなく、数万光年隔たった新星の爆発かもしれないし、意識という限定的なものの外部でネットワークをつくっている細胞たちとの密かな対話かもしれない。巨大なものと微小なもの、目に見えるものと見えないもの……。私たちは網の目のような「世界」に絡めとられながら、生命のきっさきに願いや希望を結わえつけながら、死に向かってただヒタと曳航している。

 塩田は、そうした世界に投げ出されている自己の鏡像のような姿を、見る人に呼び起こす作家だと認識していた。しかし、現在開催中の「塩田千春展:魂がふるえる」で、初期のパフォーマンス作品(《絵になること》、1994)に触れ、私は展覧会場で雷に打たれたように固まってしまった。19歳の塩田が、顔中赤い塗料まみれになってこちらをまっすぐ見つめている。こんな無防備な目でアートのなかに身を晒すことのできる人だったのか……。

絵になること 1994 パフォーマンス/インスタレーション、エナメル塗料 Photo by Ben Stone

 美大に入った当初、塩田は抽象絵画を描いていたが、「絵のための絵を描いている」という思いから、突然絵が描けなくなった。四角いキャンバスに油絵を描くことは西洋絵画という歴史の果てで絵筆を動かすことだ。塩田は自らの身体を赤い塗料まみれにしてみた。すると自分が絵のなかで生き始める。そのとき身体は抑圧から解放され、世界や生命との紐帯を取り戻しはじめただろう。

 その後、塩田はドイツに留学先を移し、パフォーミング・アーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチに学ぶという経験を経ながら、自分自身をアートのなかに置く作品を深化させていく。

私の死はまだ見たことがない パフォーマンス/インスタレーション、骨、卵 1997 Photo by Ben Stone © YEAR and the artist
私の死はまだ見たことがない パフォーマンス/インスタレーション、骨、卵 1997 Photo by Ben Stone © YEAR and the artist

 牛の骨が円を囲み、その中心に塩田が顔半分まで泥水に浸かるインスタレーション《私の死はまだ見たことがない》(1997)では、牛の頭蓋骨を肉屋からもらい、夜な夜な肉をこそげ落としたという。獣の肉をはぎ、隠滅した罪は、いくら洗っても落ちないとでもいうように、泥のなかでひとり「死」に見つめられている。これをかたちにできるエネルギーはきっと、塩田自身の身をも滅ぼしかねない力だろう。人間が疎外され、生命が生と死を蠢くように生きることを排除されるクリーンでリジッドな現代のシステムは、ますます強化され続けている。塩田は自己の内部の声を聴くという私的な行為を通じて、この世界のなかで、私たちは何を回復するのか、できるのかを問う。それは、塩田が文字通り身を削っている、その身体と切り離すことができないものだろうと思う。

 彼女がモチーフにする舟は、ものを受けとるかたちをしている。ゆりかごのような、ひとつの器のような、内側に何かを抱きとめることを宿命づけられたかたちだ。天から雨粒が落ちてきたら、その水を。他者が訪ねくれば、その人にいっときの休息をもたらすゆるやかなカーブ。塩田はことさら女性性を押し出しはしないが、それは女性が生命を宿すものとして運命づけられたかたちでもある。他者を招き入れるがゆえに柔らかいが、同時に他者性を感受しすぎるために、猛々しさに転化するような、裏腹な身体の受容器を通して、塩田は世界に触れ合っているのだろう。アイスランドの溶岩の大地のなかで、裸で赤い糸まみれになり、自然と一体化したあと、ベルリンに戻ってきた彼女は、「人はなんのために生きているのかわからなくなった」と述べている。美術家と呼ばれる者のなかには、社会の業苦(ごうく)にいち早く感応し、それを「かたち」にする人々がいるが、塩田はまさにそうした美術家のひとりだ。だからこそ道のりは苦悩を伴うものだろう。巨大なインスタレーションは、こうした身体感覚に裏打ちされているものであることを知り、なぜ塩田の赤い糸が我が身に迫ってくるのかを会得した。

内と外 2009/2019 古い木製の窓 サイズ可変  Photo by Sunhi Mang 画像提供=森美術館
Courtesy of Kenji Taki Gallery, Nagoya/Tokyo

 かつて一本の線も描けなくなった塩田は、やがて枝を展覧会場の壁に並べて線を描き、それが毛糸や糸を編むというモチーフになっていく。自分が描くのではなく、自然物や、「編む」という行為のなかに「線」の必然を託したのだ。この変遷により、作品からは肉体の物象性が消え、そこに「不在の身体」が現れてくる。ドレス、靴、ベッド……その人の記憶が刻まれたものを対象にすることで、肉体は不在のなかで記憶とともに昇華する。不在という陰のなかに実在を見はじめた塩田は、やがて集団の記憶、つまり歴史へと不在性を拡張させる。東ベルリンの廃墟の窓を重ねた《内と外》(2009/2019)には、誰かがここに住み西側を眺めていた痕跡がある。肉体が不在である場所にやどる、記憶の集合としての歴史。 

外在化された身体 2019 牛革、ブロンズ サイズ可変 Photo by Sunhi Mang 画像提供=森美術館

  そうして広がっていった塩田の軌跡はどこに漂着するのか。新作《外在化された身体》(2019)では、切断された手足のブロンズ像が、赤い皮の網目に絡まっている。身体のなかでじっと聞いてきた声たち、その声が聴こえるからこそ泥をかぶったり塗料をかぶったりせざるを得ず、一度は不在化した身体が、今度は目の前に「かたち」となって現れている。きっかけは、やはり彼女の身をむしばんだがんという病(やまい)なのだろう。

 作品を見ながら、身体とは実は抽象物なのではないか、という言葉が頭をよぎった。普通人は身体を具体物だと思い、自分が動かしていると錯覚しているが、実は身体への実在感を感じて生活はしておらず、抽象的な場所にとどまっているのではないか。塩田にとって病とは、身体の実感が手元に降りてくる体験でもあったのかもしれない。流産や出産体験を通しても、身体は抽象であることをやめなかったのではないかと。私自身の体験を反芻してみても思う。妊娠出産にまつわる痛みは、何かこの世のものではないようで実在感がなかったし、すぐに消えてしまった。しかし病は違う。だんだんと身を侵食し、死に向かう人間の速度を早め、時間尺を変えてしまう恐怖だ。作品に自己の身体を浸し解放してきた彼女が、死に向かいゆく身体の、孤独な実在感に心ふるわすように触れたことは容易に想像できる。

小さな記憶をつなげて 2019 ミクストメディア サイズ可変 Photo by Sunhi Mang 画像提供=森美術館
小さな記憶をつなげて 2019 ミクストメディア サイズ可変 Photo by Sunhi Mang 画像提供=森美術館

 その切迫感は隣接した作品を見るとわかる。少女の小さな手が慈しんだであろう、人形の洋服や椅子など小さくいたいけなものたちが赤い糸でそっとむすばれている《小さな記憶をつなげて》(2019)。ぬいぐるみを触ると、身体がホッとするような生理的安心感。優しい子守唄のような浄化。病とともに、塩田の身体が切実に求めていたものだったのだろう。

 胸つまるような想いで展覧会を巡ったあと、最後のビデオインスタレーションが、長い旅のあとの一服の清涼な水のようだった。塩田の娘と同じ年頃のドイツの小学生たちに、「魂とは何か」を尋ねた映像作品だ。

 なかでも印象的だったのは、「魂は小さな糸みたいなもので、バラバラにできなくて、すっごく長くて透明だと思う」「魂は紐みたいで、透き通っていて、その紐は何か思い出を意味していて、人がその思い出を忘れると、その紐もきえてしまうと思う」という言葉だった。塩田の作品を知って答えたのか、偶然の一致かはわからないが、塩田がかたちにしようと求めていたものに、子供たちが純真にたどり着いていることに心打たれた。

 生まれたとき、私たちはもっと多くのことを知っていたのだろう。死に向かって運命づけられている身体が何とつながり、何をその内部で燃やしているのかを。それを「魂」と呼ぶのかは知らない。しかし生命が時間を遡ることを許されず、ただ前進するだけの宿命を背負っていることは、宇宙でも細胞でもみな同じだ。死に、消滅に向かって世界は動いている。すべての人のうちにある、その壮絶な姿を呼びもどす、圧倒的な展覧会であった。