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2020.6.25

物語は、万華鏡のような明晰さを伴って映画全体に反響する。飯岡陸評 エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

1980年代におこった台湾ニューシネマを代表する映画監督、エドワード・ヤン。『ヤンヤン 夏の想い出』は2000年に公開され、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞するも、ヤンの遺作となった作品である。台湾の社会を見つめ続けてきたヤン監督が本作に込めた問いに、現代の私たちはどう応答できるか。キュレーターの飯岡陸がレビューする。

文=飯岡陸

エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』
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倫理としての群像劇

「映画は人生を写す鏡なんだ」 「人生を味わうなら 自分の人生だけで十分よ」 「叔父さんが言ってた “映画が発明されて人生が3倍になった”と」 「どういうこと?」 ──『ヤンヤン  夏の想い出』より

 エドワード・ヤンは1980年代に「台湾ニューシネマ」の旗手としてデビューし、2007年に早世するまで、それまで支配的だった制作システムに拠らない映画制作を模索した。映画に多くを要求し寡作であったが、一貫して台湾の台北市を舞台にした群像劇に取り組んだ。幼少期から手塚治虫に慣れ親しんだヤンは、自身のプロダクションにアトムフィルム(原子電影)と名づけた。

 ヤンの映画において群像劇を編むことは、台湾を成り立たせている地政学的な背景に自覚的になることと分かちがたく結びついている。カメラは都市の一瞬のあわい、人間の儚さやその気配をとらえる。断片的なシーンは、映画の進行とともに絡み合い、立体的な構築物をつくり上げる。

 互いに関心を持たない社会を背景とした『恐怖分子』(1986)では1本のいたずら電話、険悪な夫婦関係のなかで書かれた小説が、同じ都市に生きる他者を脅かし、その人生を破綻させるまでを提示する。1960年代の厳戒令下を舞台とする『牯嶺街少年殺人事件』(1991)では、日本占領時代の暴力の遺産、それ以降に中国から移住してきた外省人と本省人を分断する緊張関係が背景となる。政治的腐敗と社会不安のなか、エルヴィス・プレスリーに憧れを抱く少年らの抗争、それが殺人事件に至るまでを克明に描き出す。

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 都市を覆う閉塞感や政治的腐敗、不安や恐怖は人々のあいだを伝播し、悲劇的といっていいような結末を迎える。しかしヤンは、インタヴューのなかでこのように話している。「問題はそれが悲観的に見えるかどうかということではありません。人生において、もし他者に対する配慮、思いやりというものがなくなったら、そのときこそ悲劇が、悲観的とかれらが呼ぶ事態が生じてくるのだということです。それがわたしの映画の要諦なのです」(*1)。

 どういうことだろうか。彼の最後の作品となった『ヤンヤン  夏の想い出』(2000)には、その答え──ヤンが芸術に込めた希望、その倫理が内包されているようにみえる。緊急事態宣言下で書かれた本稿では、現在の私たちが置かれたこの状況において、時事的な対象を論じるのではなく、この映画を取り上げたい。

 『ヤンヤン 夏の想い出』のシナリオもまた、決して優しいものではない。台北市におけるグローバリゼーション、ITバブル、家族関係あるいは疎外といった問題が背景となる。病に倒れる祖母。身体が小さく周囲の女の子や教師に虐められがちな少年ヤンヤン。経営が悪化しはじめたIT会社で働く父NJ。隣の部屋に引っ越してきた同年代のリーリーとの関係に悩む長女ティンティン。僧侶がいる山に篭る母。それぞれが苦悩を抱え、映画に黄昏が訪れる。

 物語を動かすのは、あらゆる「かけ違い」だ。例えばNJの義弟アディは家族ぐるみで良好な関係を築いていたパートナーがいるにもかかわらず、別の女性を妊娠させてしまい結婚する。ティンティンは隣人リーリーの彼氏と付き合うことになる。NJは30年ぶりに偶然再会した初恋の相手、シェリーと日本を訪れる。その出張の目的である日本人ゲームデザイナー「大田」とそのコピー業者の「小田」。本作の英タイトルである『a one and a two』が示す通り、二者の重なりはこの映画のいたるところに登場する。

 音声もまた重要な機能を果たしている。本作を特徴づける演出に、シーンの切り替え時に音声と映像の転換タイミングをずらすというものがある(*2)。会話や独白は、別の文脈、時空間を示す映像と重なり合い、そこに意味作用のハーモニーが生まれる。胎児の影を映し出すエコー、植物の成長について説明する授業、雨が降る仕組みを説明する教材ヴィデオといった科学的な要素もまた、こうした演出に明晰さを与えるメタファーとして機能する。

 さまざまな年齢層の人々のそれぞれの物語は、万華鏡のように映画全体に反響する。劇中、登場人物らが演奏する音楽は、別の誰かのエピソードの劇伴となり彩りを添える。ある夏の数ヶ月を扱っているにもかかわらず、こうした演出は、結婚式で始まり葬式で終わるこの映画に「人生」というスケールを与える。複数の人生を重ね合わせることでひとつの人生を描き出すという特異さが、この映画を類い稀なものにしている。

 作中あまり言葉を発さないヤンヤンは、父NJからカメラを与えられ、密かに周囲の人々の背中を撮影している。映画終盤、自分の背中の写真を手渡されたアディがこれはなんだと尋ね、ヤンヤンは答える。「自分では見られないでしょ」。それはこの映画『ヤンヤン 夏の想い出』の態度表明としてあるだろう。自分の人生を超え出て、そうではない側、自分の裏側に想像力を向けること。つまり悲劇に置かれた誰かもまた、私たちなのだ、と。エドワード・ヤンの倫理はそこに賭けられている。

*1──加藤幹郎+西川敦子による1994年のインタヴュー「順応主義者たちの混乱 楊徳昌(エドワード・ヤン)監督インタヴュー」
(『CineMagazineNet! No.9』2005年秋号
www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN9/edward-yan-interview.html)

*2──ジョン・アンダーソン『エドワード・ヤン』(篠儀直子訳、青土社、2007)の訳者あとがきにおいて、篠儀は音声と映像のこうした編集手法をヤンの映画を貫くスタイルのひとつとして挙げている。またガラスの反射や透過と本作の音響について詳しく論じたものに以下がある。細馬宏通「夏の終わりを告げる声──視聴覚的な出来事としての『ヤンヤン 夏の想い出』」フィルムアート社編集部編『エドワード・ヤン 再考/再見』(フィルムアート社、2017)