過ちは繰り返しませ
いくばくか長い話が始まる。
「わたし」と「あなた」の話をするつもりだ。
歌人・斉藤斎藤の第二歌集『人の道、死ぬと町』(2016)は、〈当事者〉という主題に貫かれた1冊だ。歌人、歌集というのだから、短歌の本だ。2004年から15年までの作品が編年体で収められている。短歌の最小単位は1首だが、数首から数十首をまとめて発表されることもあり、「連作」と呼ばれる。『人の道、死ぬと町』には80近い連作が収められている。
斉藤斎藤を簡潔に紹介すれば、〈自他のあいだにあるべき倫理を追究する〉歌人だと言える。
たとえば2007年の連作「今だから、宅間守」は、題のとおり、2001年に発生した附属池田小事件の犯人にして元死刑囚・宅間守を題材にしている。だが斉藤は、外部の第三者の立場から事件や顛末についてコメンタリーするのではなく、関係者複数の、ときにその立場を主語に借り、ときに心境の推定をまじえて、歌にしていく。被害者遺族それぞれ、宅間本人、死刑執行人の目線、そしてほかでもない「わたし」。全29首からなるこの連作から、一部を引こう。
うちの子は天使じゃない、と思っても言える空気ではなかったろう ある遺族はわたしが子どもを押しのけて登校すればとランドセル背負い わたしがもしも宅間だったら 宅間がもしもわたしだったら お菓子バリバリコーヒーガブガブカイロホカホカちんぽこスコスコ充実のわたし 穴から汁たれ流しつつ宙吊りの宅間守の欽ちゃん走り (「今だから、宅間守」 *1)
急いで言わなければいけないことがある。連作「今だから、宅間守」の各首はどれも、長い〈詞書〉を伴っている。詞書とは、歌本体に、それにまつわる情報を付しておくものだ。たとえば『古今和歌集』冒頭の歌「年の内に 春は来にけり ひととせを 去年とやいはむ 今年とやいはむ」(在原元方)には、「ふるとしに春立ちける日 詠める」と詞書がある。珍しい年内立春の浮つきを詠んだ歌に、その状況を付して説明しているのだ。わかりやすく言えば詞書とは歌本体のキャプション、リード文にあたるだろう。
斉藤の一連の歌にも、詞書が各々付いている。上では一旦省略したその詞書は──とても、長い。たとえば被害者遺族をモチーフとする、引用の1首目の詞書を引こう。
大阪池田小事件の被害者遺族は、『八人の天使の会』を結成する(*2)
同じく遺族をモチーフにした2首目にはこう添う。
「ある遺族は事件当日子どもの体調が思わしくないように感じられたのに登校させてしまったと、またある遺族は家族の病気が子どもにうつっていれば学校を欠席して殺害されることもなかったと、さらにある遺族は事件前夜子どもに傷んだものを食べさせて体調不良になって学校を欠席していれば殺害されることもなかったなどと、」(*3)
いっぽう引用の4首目は、宅間の目線の歌だ。さらに長い詞書を引用しよう。
「やはり、少しでもましな死刑囚生活を送るには、「金」です。そこそこ週刊誌等を買ってたいくつしないように、菓子をバリバリコーヒーをガブガブ飲んでいる毎日を送るには、最底、月、6万円かかります。/冬になると、使い捨てカイロを買いまくりホカホカ生活を送ると、月、8万円は、かかります。/それが最底の線の金なのです。/死刑執行される日まで、ホカホカ、お菓子ガツガツやると、年間80万円以上かかります。その充実した生活を送るには、オヤジが死ぬより他に道は、ありません。オヤジが死ねば、相続金が入るからです」(*4)
記録や台詞のような、これら長い詞書のいったいなんだろう。連作の末尾ページに、その出典が列記してある。
大阪地裁判決、量刑理由。大阪地方裁判所第二刑事部・川合昌幸、畑口泰成、渡邊英夫、二〇〇三年八月二八日 「怪物から届いた13通 宅間守獄中手記全文公開」『現代』二〇〇三年一〇月号、誤字は原文ママ(*5)
判決文と獄中手記。これらが2つの詞書の出典だ。本稿に引用しない歌の詞書にも、以下のような出典が付記される。「第二二回公判被告人質問」「第十一回公判被告人質問」「供述調書」「精神鑑定医が初めて明かす 怪物・宅間守との対決二ヶ月『週刊文春』」「戸谷茂樹主任弁護士への最後の手紙」。さらに、大塚公子『死刑執行人の苦悩』や、被害者遺族による手記・本郷由美子『虹とひまわりの娘』も並ぶ。
斉藤は、附属池田小事件を連作の題材にするにあたって、遺族、宅間、そして裁判所の言葉それぞれの文献や、宅間の妻の手記、さらに加えて、同時期に起きた児童殺害事件に関する資料まであたる。そしてそこにある言葉をもとに短歌をつくる。それはまるで、「彼らがその心境で短歌を詠んでいたら」を想定するかのような、リサーチにもとづくフィクションだ。
だが、懸念は拭えない。当時の資料をあたったからといって、「他人に成り代わるかのように心情を吐露する」ことは、はたして倫理的に許されるだろうか。簡単な回答は避けよう。なぜなら、斉藤斎藤の短歌には、〈自他〉をテーマにするための、意図的な日本語の工夫が見受けられるからだ。まず注目したいのは、「わたし」という代名詞である。上記にも引用した歌を、再び引こう。
ある遺族はわたしが子どもを押しのけて登校すればとランドセル背負い わたしがもしも宅間だったら 宅間がもしもわたしだったら お菓子バリバリコーヒーガブガブカイロホカホカちんぽこスコスコ充実のわたし(*6)
1首目の「わたし」は、遺族が、わが子に代わりたくとも代わることのできない自分を指して言う「わたし」だ。2首目の詞書は、被告人質問から、こうある。
「遺族の話を聞いて、どう思いましたか」/「立場を置き換えて、自分だったら謝罪されても何とも思わない」(*7)
宅間の口から出た、「立場を置き換える」という考えをもとに、斉藤は、「わたし」と「宅間」の交換可能性──〈わたしもまかり間違えばこうだったかもしれない〉〈もし宅間がわたしのような生を歩んでいたなら〉という想像をする……いや、まさか、そんな、ありえない交換の可能性は、想像できない。
人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。〔…〕然し彼は彼以外のものにはなれなかつた。これは驚く可き事実である。(小林秀雄「様々なる意匠」、*8)
斉藤は、自他のあいだの、度し難い〈差異〉をテーマに持つ歌人だ。わたしは決してあなたではなく、あなたもわたしではない。わたしは彼ではないし、彼はまた別の彼ではない。しかし同時に、彼は、あなたは、わたしは、まったくのブラックボックスではない。同じ有機体で、通じる言葉を発し、おおむねは似ている心理を持ち、ある社会のなかで、それぞれに暮らしている。わたしと彼とはお互いをすこし想像しえるが、一致すること、憑依することはけしてできない。もちろんそれは、コミュニティの相異と単純な照応はしない。
この当然の違いは、殺人事件、戦争、歴史、国政──大きな暴力にも関わるとき、改めて、そのあまりの度し難さが知れる。のうのうと生きて、歌人として、あるいは美術作家として作品を発表して、前科もなく暮らす20代のわたしと、少年・青年期にコンプレックスを抱え、一度逮捕されて職を失い、38歳で小学校に押し入って
閑話休題。3首目は、前述の詞書の通り、宅間守本人の獄中手記の言葉だ。獄中の生活と経済についての、赤裸々でぶしつけな吐露。手記のコラージュのような一首を締めるのはやはり「わたし」だ。
「わたし」は一人称の代名詞と言われる語だ。エミール・バンヴェニストは、「わたし」という語はつねに〈それが存する発話の話者〉を示していると整理した。「わたし」の中身は、発話のありかたによって、つねに代入されて入れ替わりうる。ロマン・ヤコブソンの用語でいえば「転換詞(シフター)」だ。
わたしは、遺族にも、宅間守にも、裁判官にもなれないが、「わたし」は、遺族にも、宅間守にも、裁判官にも、なる。
代名詞「わたし」を通じて、わたしを含めた、異なるはずの他者同士が、おぼつかなく重なり合う錯覚を起こす。「もしわたしが宅間だったら」という反実仮想は、しかしこの世でそれが仮想できるという点で、「反事実」でこそあれ、まったく「反現実」ではないのだ。自他のあいだの、不可能だが想像してしまう〈交換〉を扱うために、斉藤は「わたし」という代名詞が持つフィクション的な効果を用いる。
斉藤が目を向ける〈交換〉は、自身と関係者とのあいだのそれだけではない。引用の1首目は「被害者児童」と「遺族」とのあいだの痛ましい交換不可能性を突きつける。「わたしが子どもを押しのけて登校す
代名詞、反実仮想、引用と出典明記。さらに斉藤自身による独白や創作童話なども交錯しながら、〈自他〉が、重なり合っては離れていき、そのあいだに横たわる冷徹な「驚く可き事実」に触れようとする。わたしは、斉藤が(おそらく)人格的に倫理的だからといって、この言葉の形式が必ずしも「無垢」であると言うつもりはない。贖いきれぬ自他の距離を、言葉のうえで成り代わり、そのひとのように行為して詠む──という綱渡りを、ただ看過はできない。この技法は、わたしが「わたし」に憑依して読もうとする
「わたし」──「広島復興大博覧会展」
下小岩小学校2年C組をころさなければ生きてゆくわたし(*9)
斉藤の同書所収の2005年の連作「君との暮らしがはじまるだろう(仮)」から引いた。この連作の題材は「結婚」で、
「NORMAL RADIATION BACKGROUND」シリーズは、東京電力福島第一原子力発電所事故以後の日本と、第二次世界大戦後に設置された巣鴨プリズン(拘置所)に収監されていた戦犯、都政にかかわる都民、事故当時ガイガーカウンターが振れる被災地に赴いた「わたし」……などをモチーフに、「今の東京のわたし」と他者との〈交換〉を問い続ける。また2012年の連作「予言、〈私〉」では、1950年代に生きた人々の手記や短歌実作を、ボルヘスのような手つきで再構成する。2013年のセクションに置かれたエッセイ「私の当事者は私だけ、しかし」では、題のとおり自他それぞれの当事者の交換をめぐる、「
こうした、自他をめぐる斉藤の主題は、短歌の形式や、日本語の文法にこそもとづいて追究される。結論から言えば、斉藤はきわめて〈ことばのフォーマリスティックな技術で自他の倫理を扱おうとする〉歌人なのだ。
斉藤の論考「文語の〈われわれ〉、口語の〈わ〉〈た〉〈し〉」は、文語と口語を並べて、それぞれの短歌が描く状況に現れる〈主体〉を、文法にもとづいて考察している。正岡子規の「写生」のコンセプトが、ある1点から、作者という固定した存在が、唯一無二の経験を描き出すような文語の文体を確立したのに対し、現代口語の助動詞や動詞活用はむしろ、歌の視点となる存在すなわち「わたし」が、多元的にスライドしうる文体を獲得した、という。
口語短歌はエンパシー型である。(*10)
斉藤によれば、口語文体がもたらす「エンパシー」とは、「相手のことがわからない前提で考え、もし同じ立場に置かれたらどんな気持ちになるのか、想像する」態度だという。対して〈今〉のわたしを特権視する文語短歌は、斉藤によれば「相手のことがわかる前提で考え」る「シンパシー」の文体だ。斉藤の短歌において日本語の口語は、厳密な「わたし」を限定(defining)できず、「わたし」がずれて動く(differing)からこそ、他者の心境へアプローチするための形式として採用されるのだ。
2013年の連作「広島復興大博覧会展」は、広島の原爆投下、当時の放射能被害と共存する原子力利用への展望、そして1958年に開催された「広島復興大博覧会」について、やはり多くの資料を参照している。それらをもとに現在の視点から、原子力の諸問題を改めて取り上げる未来の「広島復興大博覧会展」を空想するといった趣向の作だ。参照資料には、当時の『広島復興大博覧会誌』『中國新聞』『朝日新聞』『読売新聞』などが並び、また映画『ヒロシマナガサキ』(2007)に収められた軍人の証言、米山リサの著書『広島 記憶のポリティクス』(2005)に収められた民間人の証言も引かれている。
特筆すべきは、ほとんどが口語の歌であるなかに、ときおり文語の歌が入り交じる点だ。詞書を省いて一部引く。
ニュース映画に撮るとふライトに原爆で焼きし腕をば向けて座りぬ 放射能の雨まだ止まず鷄の小屋を閉づると出でし夜ふけを 共稼ぎの妻歸り來る時刻なり魚も燒け電氣釜の飯も炊けたり 電燈のともるよろこび間近にて逝きたる祖父を今もあはれむ 毒藥も使ひやうなり原子力伸びよ榮えよ平和のために 原子爐によき火は燈火とともるとふ我等の家もやがて明るからむ(*11)
旧仮名遣いで、漢字も旧字体を用いたそれらの歌は、一見して、斉藤が資料から再構成した口語の歌とは、佇まいがまるで異なっている。それらは斉藤が、1950年代の短歌誌から引用した、当時の人々の歌そのものだ。アプロプリエーションやファウンドと言えばわかりやすいだろう。文壇に認められた者ではない、無名の人々の、放射能を蒙りながら、原子力という新エネルギーに期待と恐れ交々の心境を抱えていた声を、文語のそのままで引用する。斉藤の言では、文語は「シンパシー」の歌だ。平成令和のわたしたちが、当時の人々に「シンパシー」を、いかなる資格で持ちうるだろうか。
〈彼等の当事者は彼等だけ、しかし〉。斉藤はかつての〈文語〉の歌を、その文体ゆえに、不可侵唯一の個人の視点をそれぞれ抱え込み、自他の交換の驕傲さを拒むものとして引用する。それが口語のエンパシーや詞書のさなかに挿し挟まるとき、わたしは、ただ現代の時点で巧く再構成された「原子力詠」を読むだけでなく、突然に1950年代の「我」に衝突する。時代も環境も隔たった〈挫折するエンパシー〉に跳ね返され、彼ら彼女らという他者の世界との差異を痛感する。
斉藤斎藤の一連のプロジェクトは主に、口語日本語による「わたし」の多元化、そしてリサーチと引用による他者への〈失敗するしかないエンパシー〉によって成り立つ。だがその失敗は無為ではない。繰り返し他者の顔、他者の言葉、他者の視点を破廉恥にも略取しようとしては、その遥かな実存に跳ね返され、それでもしかし──と、自他のあいだに拡がる距離の度し難さをそのたび俎上に載せる。
自他の倫理を、言語・文法に根差したフォーマリスティックな技術によって、失敗を約束されながらも検討し〈つづける〉ことに、斉藤の制作の倫理がある。連作「広島復興大博覧会展」はこの歌で結ばれている。
目は私をじっと見ている あなたよりもわたしが強いことを知っている目が(*12)
「あなた」──同質コミュニケーション
さあ、ここから「あなた」の話だ。
代名詞である「わたし」がいくつもの話者、声に成り代わりうるように、「あなた」もまた、至極不安定な呼び名だろう。
物語論研究者モニカ・フルデルニクは、従来の理論では「二人称で語られる文章」は扱い切れないと指摘して、新たな概念を提案する。「同質コミュニケーション的(homocommunicative)/異質コミュニケーション的(heterocommunicative)」という一対の性質だ。
話には「送り手」と「受け手(addressee)」がいる。「受け手」とは、小説を買って読んでいる読者であり、このウェブページを読んでいるあなただ。この文章を話している存在から、あなたはこの文章を受け取っている。
だがその文章のなかで「あなた」と呼ばれるとき、それは必ずしも、実際の読者のあなただろうか。書簡体の小説で「あなたに会いたい」と書いてあったら、その「あなた」は読者のあなたではなく、手紙の送り主が宛てた相手を指すのだ。「あなた」は作中のキャラクターだが、あなたは作外の読者だ。重松清の小説『疾走』(2003)の一節「シュウジ。おまえは臆病な少年だ」の「おまえ」も、読者のあなたではない。「おまえ」は作中のシュウジで、あなたは作外の読者だ。
このような、話の「受け手」が、作中のキャラクターつまり「行為者(actant)」とは別の存在であるような文章を、フルデルニクは「異質コミュニケーション的」と呼ぶ。
「同質コミュニケーション的」とはその逆だ。
同質コミュニケーション的な二人称のフィクションは、語る人か語りを聞く人、もしくはその両方が、物語の中身のレベルと、それを話として語っているレべルとにまたがって存在する。(*13)
たとえば家具の組み立て説明書は同質コミュニケーション的だ。その説明書は、まさに読者のあなたに、こう組み立てなさいと命令する。法廷が被告の犯行を「あなたは現場で……」と描写するときも、被告と、説明のなかで犯行を行う「あなた」とが一致する。あるいは「風邪をひいたあなたに」というCMは、広く消費者一般のあなたを指してコミュニケーションする。
この短い説明で、あなたはわかっただろうか……これは、読者のあなたに働きかける、同質コミュニケーションだ。
代名詞の「あなた」は、ヴィデオゲームによく見られる。物語論研究者のマリー=ロール・ライアンは、『クモの巣』(1998)というゲームの一節に注目している。閉じたドアを開けようとするプレイヤーに対して「あなたはどうすればいいかわからない(You don’t see how)」とシステムが通告する。それまで物語中の世界を描くことに徹していた語り手が、突然「あなたは」と指してくる。この「あなた」は、基本的には異質コミュニケーション的にゲーム内の主人公を指しながらも、なかば暗黙に、現実のプレイヤーに退散するよう働きかける。
「あなた」の、より同質コミュニケーション的な使用の例には、同じくライアンが取り上げる『メタルギアソリッド2 サンズ・オブ・リバティ』(2001)の台詞が挙げられる。ストーリー内でゲームをプレイするキャラクターに向けられる、「今すぐにゲーム機の電源を切るんだ(turn off the console now)!」「長時間プレイすると目が悪くなるわよ(You ruin your eyes sitting this close to your TV)」という通信は、まさに〈今ゲームをしている〉プレイヤーを「あなた」と呼んで勧告・命令する、同質コミュニケーションの錯覚を引き出す。
あなたがゲームをしているという状況を利用して「あなた」と呼びかけられることで、あなたは、直接その話し手から働きかけられているように感じる。あなたの状況を「あなた」にまとわせる。同じ手法は、小説にも見られる。イタロ・カルヴィーノの小説『冬の夜ひとりの旅人が』(1979)は、「読んでいるあなた」について語ることで、読者に働きかける。
あなたはイタロ・カルヴィーノの新作小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。リラックスして、精神を集中して。余計なことは考えなくていい。(*14)
「ゲームをする」「読む」行為そのものが、「あなた」を通じて、作品外の枠組みと、作品内の内容とをない混ぜにする。あなたはただ、ゲームをプレイし、文章を読んで、映像を見て、その表される内容を把握するだけではない。あなたはそのなかに表されている、ゲームに興じる、文章を読む、映像を見る「あなた」を、あなた自身として感じさせられる。鑑賞はコミュニケーションになる。あなたは「あなた」と呼ばれて連れ去られた。
しかし、追い出されたその「余計なこと」こそが、まさにあなたを、かけがえのない
さあごらん。それともちょっと戸惑っているのかい。(*15)
うろたえるな。これはゲームだ。いつものゲームなんだ。 (『メタルギアソリッド2』より *16)
「しかし」──戸惑い
わたしが、いつのまにか作品のなかの登場人物の「あなた」とされて呼びかけられることへの戸惑い。それは、今その作品──ゲーム、小説、美術作品──を鑑賞しているその行為自体が、そこで言及されることで引き起こされる。
小泉明郎のVR作品《Sacrifice》(2018)は、鑑賞者の「あなたの身体」に言及することで、わたしを戸惑わせる(*17)。わたしはいつのまにか、映像の舞台である戦地イラクの当事者に重ね合わされる──「しかし」その自他の距離は埋まらないのだ。あるいは「TOKYO 2021」美術展「un/real engine ──慰霊のエンジニアリング」(戸田建設本社ビル、東京、2019)で展示された山内祥太《Lonely Eyes》(2019)は、鑑賞者が台座に乗って、VR歩行装置に搭乗し、銃のかたちのデバイスを手にプレイするゲームのような作品だ。VR映像のなかではデバイスは魔法の杖になっていて、プレイヤーは逃げ惑う人物に向けて「魔法を撃つ」ようスタッフに導入される。その通りにすることで場面は進み、最後にメデューサのような怪物と対峙して、暗転する。目が覚めるとプレイヤーは台座の上に固定されていて、ギャラリーの侮蔑的な目がこちらを見ている。
そしてVR装置を脱ぐと、実際にわたしは、この台座の上で、展示を見ている周りの人々、座って待っている人々、スタッフたちに、見世物として見られていたとわかる。銃を振り回す、暴力の身体として。まるで、マルセル・デュシャン《遺作》(1946〜66)の裸体を覗き込む鑑賞者が、穴に顔をなすりつけるはしたない見世物になるように。
いずれの作品も、作品自体とのコミュニケーションとして「見る」「プレイする」わたしが、いつのまにか、イラク人青年として、暴力の主体として、ゲームのなかの内容に同質化させられる。鑑賞の仕方が条件づけられ、インストラクションがある。そうして指定された鑑賞者の行動が、作品が表象をするための要素になっている。そうなることなしに、鑑賞は遂げられない。わたしは作中の「あなた」、行為者として、暴力にまつわる状況の当事者のふりをすることになっている。なっていた。
見るわたしにそれを〈使役〉していたのは誰だろう。鑑賞するわたしが、暴力の「あなた」として、台座という舞台の上で、人々に鑑賞される作品となるとわかっていて、それを
代名詞はそれ単体では何にもなれない。それを囲う文章の意味と文脈、そして形式が、「わたし」や「あなた」を、殺人者に、遺族に、過去の人々に、読者に、プレイヤーに、仕立てて呼んでみる。「しかし」そんな錯覚で、自他という度し難い距離の両端は交換できない。能動的であろうと、受動的であろうと、「当事者」になる試みは必ず「失敗」する。この「失敗」にこそ、他者の尊重は約束されているはずだ。たとえその他者が架空で、抽象的であっても。エンパシーはシンパシーとは違う。
はたして、あなたと「あなた」との境界を侵犯するよう演出したり、侵犯させられた衝撃を受けたようにするのは、ひどく「作者的=権威的(authoritarian)」ではないだろうか。あまつさえ、アイロニカルにそれを「芸術なのだから、承知であえて犯している」と斟酌する鑑賞者は、それが「表象」されているというだけで暴力を芸術に止揚してはいないだろうか。
表象というのは、それ自体としては、絶対的な悪なのです。なぜなら、あたかも善であるかのような思考を周囲に煽りたてるからです。 (蓮實重彦 、*18)
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空の台座
彫刻家・小田原のどかは、ある中学生が被爆証言者に投げた「死に損ない」という暴言について、自身の祖父の戦中での政治思想転向に触れながら、こう述べる。
だから名も知らぬ少年の「死に損ない」という言葉を私は自分に発せられたものと受け止めている。(*19)
中学生が誰か「あなた」に向けた言葉が、ときに「わたし」に突き刺さる。だが「私」は他の誰にもなれないはずだ。中学生の投げた「死に損ない」と、小田原の承けた「死に損ない」とのあいだにも、埋めがたい距離がある。小田原は、当の被爆証言者に成り代わってその言葉を承けはしない。あくまで自身の出生や家系を鑑みて、別の、ありえたコミュニケーションを想う。「という言葉」「と受け止めて」と二重になった〈引用〉の助詞「と」には、自他の距離の実存的な埋めがたさに「私」が直面することの倫理的な拮抗が現れている。
「あいちトリエンナーレ2019」豊田会場の「とよパーク」に、小田原の作品《↓(1923-1951)》が展示された。地上4mを超える白い台座は、かつて東京・三宅坂にあった北村西望《寺内元帥騎馬像》(1923)の台座を模したものだ。像は戦中に金属接収を被り、残された台座は1951年に低く直され、電通が菊地一雄《平和の群像》を改めて設置した。三体からなる《平和の群像》(1951)は、戦後日本の公共空間に初めて据えられた女性裸体像だ。
この像を契機に「女の裸」と「平和」が結びつき、日本中に裸婦像があふれたと小田原は指摘する。戦前の男性英雄の顕彰像との男性中心主義的思考の連続性を、小田原はこの台座に見る。
《平和の群像》を含む公共空間の女性裸体像は「ナショナリズムを十全に定着し得る形態」であるとともに、敗戦と占領というこの国の歴史をうつす存在だといえるだろう。(*20)
台座は、イデオロギーの変遷のたび、象徴を据えられる。ラカンの用語で言えば、地に現れた「浮遊するシニフィアン」だ。その象徴の意味するところが、1930年代以降の日本の「彫刻建立癖」に乗って、イデオロギーを伝播する。台座は代名詞のようにそれ自体が空白であることで、情況に応じて据え物を担ぎ、象徴として晒すのだ。
《↓(1923-1951)》の台座は何も載っていない。裏側には仮設階段があり、傍らの説明文には、裸婦像をめぐる上述の経緯と、以下の文言が記されている。
この台座が当時と違うのは、誰でも好きに上がれること、そして降りられることです。彫刻になった気分で、ぜひ台座の上の景色を眺めてください。
作品を見ること──勧誘の副詞「ぜひ」を伴うインストラクションに促されて見ることが、あるイデオロギーを〈象徴〉する彫刻「として見る/を見る/として見られる」ことに、重ねられる。わたしの鑑賞行為が、作品の内容へと同質化されて、わたしは戸惑う。
わたしは、裸体像をいまだ公共空間に放任している社会の当事者だ。通りすがりに見遣る当事者だ。しかし、わたしが像当事者の「気分になる」とき、わたしと像とのあいだの距離──そこにこそ視線の暴力が介在する、実存的な埋めがたさは、「わたし」を媒介した自省へ還元させられてしまう。
見る行為の空間──裸婦像の在る空間──が抱える罪深いエコノミーが、美術作品を見る「わたし」たちの視線にこそ便乗することを、現に「見させて」突きつけるアイロニー。わたしがいまやその〈象徴〉として晒される。
しかしわたしは、作品の上で暴力のフィクションを、「降りることができる」というエクスキューズありきで着せられる鑑賞を、どう拒むことができたんだろう。むしろわたしが「見る人の像」の象徴として見せられるのを拒むとき──視線の同質化を「しかし」と拒み、もしくは、「わたし」へ易々と同質化しない慎重な畏れと
トーキョーアーツアンドスペース本郷で開催された「TOKAS-Emerging 2019」での小田原の個展「近代を彫刻/超克する」では、件の裸婦彫刻の写真や、戦後GHQが調査のために撮影した、国内の顕彰像やその跡の写真が掛けられていた。壁には、GHQがモニュメントについて市民に聞き取りしたアンケートの文言が掲げられており、その主語は「you」だ。鑑賞者のわたしがこの写真を、文言を見て、近代日本の「彫刻」をめぐる、見ることの疚しさを読み取るとき、おのずと「わたし」=「you」の立場でも裸婦像を見ることを余儀なくされている。わたしは今も戸惑いながら、展示室に立っている。
過ちは繰り返しませ
あなたは、1万2000字に及ぶ長い文章に目を通して、いくばくか疲れている。ところどころ読み直すつもりかもしれないし、余韻に浸っているかもしれない。もうすぐあなたは、ブラウザを閉じて、この記事を読み終えるのだが、しかし、あなたは今、すこし戸惑っているだろうか。
ここで話しかけられている「あなた」は、あなただろうか──と、戸惑いつつ、傍らの紅茶に手を伸ばす。外から爆音が聞こえる。あなたは今、文章を読み終えること、その意味を理解することを、今、当のこの文章に指し示されることに、今、戸惑いを覚えて。
だから最後にこの言葉で別れよう。
わたしを読むなかれ。(モーリス・ブランショ、*21)