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INSIGHT - 2019.10.5

盗難相次ぐバンクシー作品。ストリートアートはどう守られるべきか?

今年1月、同時襲撃事件の現場でもあるパリの劇場「バタクラン」に描かれた、バンクシーの犠牲者追悼作品が何者かによって盗まれた。9月には、ポンピドゥー・センター近くの路上に残されたバンクシーのネズミの絵の盗難も発覚。バンクシー作品の価格高騰とともに、各地でそのストリートアートの盗難が相次いでいる。作品/落書き、プライベート/パブリック、違法/合法など様々な論点を有するストリートアートは、どのように守られる/守られないべきなのか? 9月に著書『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』を発表した吉荒夕記が、バンクシー作品を例にストリートアートとの向き合いかたを論じる。

文=吉荒夕記

バンクシー メトロポリタン警察に歓迎されるバスキアの肖像(通称) 2018 ロンドン、バービカン地区 撮影=筆者

 2019年9月、パリの現代美術館ポンピドゥー・センター近くの路上に描かれたバンクシーのネズミの絵が盗まれた。ネズミはアーティストの分身として作品によく登場するが、このネズミも、顔を隠し、手にはカッターナイフを持っており、まるでステンシルの型をくり抜き、ゲリラ的に作品を残していく覆面アーティストのようだ。1年前に作品が設置された際のバンクシーの声明から、これは、パリの学生運動「五月危機」の50周年を記念し、近代ステンシルアートの誕生の地であるパリへ捧げたものだと理解できる。

ポンピドゥー・センター近くの路上にあったバンクシーのネズミの絵 バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より

 この、いわば “落書き”が盗まれたことに(ゴッホの絵が盗難にあったかのように)メディアが大騒ぎするのはなぜか。それは、2019年はじめ、東京都港区で“バンクシー作品らしきネズミの絵”が見つかり、都が社会混乱防止の目的で剥がし、都庁で展示した不可解さともつながる。その理由はバンクシーがいまや有名アーティストだからに他ならない。バンクシーの作品は近年、オークションで1億円以上の値で落札されるようになった。元来、落書き扱いされた作品の制作者が、世界的に著名なセレブリティになったのである。

東京都庁第一本庁舎で展示された、「バンクシー作品らしきネズミの絵」

 そのような“超高価な美術品”が、保護も監視もなく、戸外に放置されているわけだから、盗みを図る輩が出てきても不思議ではない。うまくいけば、闇のルートを通って、市場で高く売られ、巨額の棚ぼたとなる。

 パリでは、今年に入って2度もバンクシーの作品が盗まれた。過去には、バンクシーの本拠地であるイギリスはもちろん、アメリカでもパレスチナでも盗難が起こった。盗難だけではない。何者かに消されたり、行政によって剥がされたり、描かれた建物や備品の所有者によって剥ぎ取られたり。作品が路上に残された以上、そのような運命は付き物といっても過言ではあるまい。

 だが、ストリートアートの盗難/損害/撤去が一般的な美術品のそれと異なるのは、法的権利/利害関係が複雑に絡むことだ。その要素とは、私的/公的な所有物に勝手に作品を描くことの犯罪性、作品が残された建物の所有者の権利、アーティストの著作権、ストリートアートは文化財産として保護されるべきかといった課題である。

 そこで本稿では、ストリートアートというこの30年ほどの間に欧米を中心とした都市空間に出現し、目を見張る勢いで浸透しつつある新しい表現について、バンクシーの作品を例にとって、保護/撤去をめぐる社会的ディベート、法制度、慣習における変化を概観してみたいと思う。表現自体がまだ新しいならば、議論を深め十分に考察するには時期早々かもしれない。だが、同様な事件はこれからも頻発するのは目に見えている。撤去/保護をめぐる状況は、各国や自治体の法やポリシーの違いか、公共物かプライベートのものなのか、地元コミュニティの反応の違いよって、対応策は一筋縄ではいかないことを承知のうえで、ストリートアートをとりまく権利や保護に関する現状や変化、問題点を検証してみよう。その観点から、ストリートアートの本質も見えてくるのではないだろうか。

バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より

ストリートアートにダメージを与えるのは誰か?

 1990年代にストリートアートが欧米の都市で広がり始めたころ、私有物や公共物に無許可で絵や文字を描くことは疑いもなく犯罪だった。建物の所有者は言うまでもなく、周辺住民からも嫌われ、撤去されるのが当たり前だった。しかも、ストリートアートは、行政当局によって消されたり、盗まれたりするだけではない。その“加害者”には、アーティストのライバルたちも含まれる。それはストリートアートの前身であるグラフィティの慣習を引き継いでいるからだ。グラフィティライターたちは、スタイルだけではなく縄張りを争うため、他人が残した作品に上書きする、あるいは削ることは日常茶飯事なのだ。

 バンクシーも2010年頃までは、多くの作品をライバルたちに上書きされている。他国にも頻繁に飛び、街角に作品を残しているが、やはり同様の目にあっている。世界的に有名になった2013年には、「Better Out Than In」と題して、1ヶ月間、毎日ニューヨークのどこかに作品を残すという活動を行ったが、当時のニューヨーク市長はヴァンダル(破壊)行為と非難し、警察も彼を捕まえようとした。バンクシーも警察から逃れ、最終的に約30点もの作品を残していったが、そのほとんどは上書きされたり、破壊されたりした。バンクシーという“イギリス人”が、自分たちのテリトリーに突如侵入してきたことへの報復でもあるが、ここには、ニューヨーク市のストリートアートへのゼロ・トレランスな対応もうかがえる。しかし、ストリートアートの表現が進化し、洗練され、独創性が評価されるにつれて、ときに住民に愛されるようになり、アートとみなされ、保護すべき対象として考えられるようになってきた。

バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より

壁は誰のものか?

 ストリートアートを支持体ごと剥がし、売却するのは、建物の所有者であることも少なくない。こうしたケースには、さまざまな法的権利や利害が絡まってくる。下の作品は、2012年にロンドンのウッドグリーン地区にあるプライベートの外壁に残されたものだ。

奴隷労働(通称) 2012 ロンドン、ウッドグリーン地区 バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より

 2012年は、英国王エリザベス2世の在位60周年とロンドンオリンピックの開催が重なった年で、それら行事に向けて、大量の英国旗が市場に出回った。この作品は、その愛国主義的祝祭ムードとグローバル経済の裏にある貧困国での過酷な児童労働のギャップを表していると解釈できる。政治的メッセージはタイムリーに発信され、反響を呼んだが、当の作品は、すぐに壁のオーナーによって剥ぎ取られ、売却されてしまった。その後、複数の仲介者を経て、海を超え、アメリカ・マイアミで《奴隷労働》というタイトルがつけられ、オークションにかけられようとしたのである。

 それを知って反対の声をあげたのは、ウッドグリーンの住民たち。彼らは地元政治家を通して、一連の出来事は非倫理的で法に触れるかもしれず、何より、「我々住民のためにバンクシーが残してくれたものだから戻すように」と、英国アーツカウンシルに圧力をかけた。作品に難癖がついたからか、《奴隷労働》はマイアミのセールからは外されたものの、オークショナーは、自分たちの行為は決して法に反するものではないと主張した。その後作品はイギリスには帰ってきたが、元の位置には戻らず、6年後、ロンドンのオークションで56万ポンド(約8500万円)で売却されたという。資本主義における不正や不平等を批判したバンクシーの作品が、その市場に絡め取られてしまったのは皮肉な結果で、道行くすべての人に、フリーで作品をみてもらいたいという意志をもつバンクシーとしても歯がゆいことに違いない。

 ここで、出来事を法的観点から整理してみたい。まずは、他人の所有物に無断で絵を描く行為自体だが、ずばり違法である。イギリスでは「Criminal Damage Act 1971」 という法律に抵触し、求刑される。バンクシーは周知のように覆面で活動しているので、当然ながら持ち主に許可を得てはいない。この法律は、公布年からわかるように、グラフィティの発展を阻止するのが目的で制定された。だが、時とともにこの表現を社会が受容していくなかで、行政の手も和らいでいった。2006年には、「Code of Practice on Litter and Refuse 2006」 という規約が成文化し、地区行政が所有者と協力してグラフィティやストリートアートをとりのぞくことを“提唱する”という姿勢になった。地区行政に判断が委ねられるようになったわけだ。

 ストリートアートが多く残されるロンドンのハックニー地区では、行政の方針として、「カウンシルとしては撤去という基本姿勢をとり、所有者の許可を得ずに作品を残すことは、法を犯したとみなす」としながらも、「合法的で適切なストリートアートは決して地域環境の損害の原因にはならず(…)それを受け入れ、サポートする」と明言している。

 《奴隷労働》に話を戻そう。バンクシーの行為は非合法としたうえで、では、その壁を剥がして、転売し、利益を得た所有者の行為は、法に触れるのか。こちらは合法である。所有者は自分の所有物をどうしようが、その人の自由であり権利だ。イギリスの法律では、個人の所有物の上に作品が残された場合、その作品も所有者のものになり、皮肉にも、それから生じる利益を主張することもできる。つまり、それを剥がして、売却しても法的に問題はないし、転売先でオークションにかけても違法ではない。《奴隷労働》が、アメリカで売買されなかった理由は、元あったエリアの住民から強い抵抗があったこと、そして、ストリートアートが所有者の法的権利を超えて、その地域に属するという社会認識が広まったからだろう。

バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より

アートは誰のものか?

 ところが、ストリートアートが公共の所有物に残された場合は、話が変わる。先述のように、20年前までは、行政当局によって撤去されるのが当たり前だったが、バンクシーなど社会に認めたストリートアーティストの作品については、少なくともイギリスでは、寛容に受け入れられ、賞賛や歓迎を受け、描かれた場所で保護されるように変わってきた。好例が、ロンドンの複合文化施設バービカン・センターにある美術館での「バスキア」展(2018)に合わせて、バービカン・センターそばの公道に残されたバンクシーの作品、通称《メトロポリタン警察に歓迎されるバスキアの肖像》だ。この絵は、バスキア自身の人種差別というテーマを継承しながら、その場のコンテクストに合わせて、絶妙のタイミングで描き残された。展覧会後も、ロンドン市とバービカン・センターの話し合いの結果、このストリートアートは半永久的にその場で保護されることになった。​

メトロポリタン警察に歓迎されるバスキアの肖像(通称) ロンドン、バービカン地区(2018撮影) 撮影=筆者

​ 2019年9月には、彼のスタイルに極めて近いと専門家が検定するものの、バンクシー自身は公言していない作品も保護の対象になるという出来事が起こった。その作品は、同年4月、ロンドンのマーブルアーチの公的な広場にあるフェンスに残されていた。当時、その広場は、「Extension Revelion(絶滅への反抗)」という地球温暖化や生物絶滅の危機に講義する非暴力的な社会運動によって占拠されたのだが、作品にはその運動を支持するメッセージが込められている。

ロンドン、バービカン地区(2009撮影) 撮影=筆者

​ バンクシー作という保証がないのにかかわらず、すぐに透明の板で保護されたが、数ヶ月後、管轄区であるウエストミンスター・カウンシルは正式にオリジナルの位置で保護することを決定し、次のようにコメントした。「我々が優先すべきことは、ここを訪れる人々が当の作品を楽しめるよう、人々の目に触れるようにしておくことだ(…)我々は、ウエストミンスター地区が興味深く、活気あふれるエリアであってほしいと望んでいる」。つまり、このストリートアートが、残された環境に所属する、価値ある作品であることを認めただけではなく、地区に人を呼び、活性化させ、経済効果をもたらすと判断されたわけだ。

 では、ストリートアーティストの著作権はどうなっているのだろうか。イギリスでは、基本的にはストリートアートも「著作権法1988」の傘下にあるはずなのだが、グラフィティと同様に規制は甘く、制作者の著作権は真剣に守られていないのが現状だ。同じアーティストでも、ストリートではなく、伝統的なアートの形態で制作された作品(例えば絵画)は、著作権法で正当に守られる。ストリートアーティストが自分の所有する壁に作品を描いたなら、これも同法によって保護される。ところが、他者が所有する建物に描かれた場合には、制作者の著作権よりも所有者の所有権の方が優先されるというわけだ。もし、作品が残されたのが公共物であれば、バンクシーら社会的に認められたアーティストの作品に限っては、コミュニティの財産になるという共通認識が広まっている。

バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より

遺産の観点からみるストリートアートの本質

 これらの事例からわかるように、少なくともバンクシーのストリートアートについていえば、今後も保護の対象になっていく傾向が見てとれる。この「保護の対象」とは、一般的には文化遺産を語る文脈のなかで使われる言葉だ。とすると、次のような疑問が生じてくる。ストリートアートを公の文化遺産としてみなしてよいのかという、根源的な認識問題である。将来にわたって保護されるべき遺産として社会が認めるためには、相当の時間経過と広い社会的評価が必要なはずだ。かたやストリートアートの歴史は浅い。バンクシーに対する評価は一時的な現象かもしれない。また、マーブルアーチの事例が示唆することだが、ストリートアーティストはバンクシーと同様に覆面であることが多いが、では、いかに作品と作者を結びつけるのか。アーティストが特定できない場合は、どんなストリートアート作品なら、文化遺産として認められるのか。この表現形態がまだ新しく、いまも発展途上にあるなら、その評価について社会的な基準をつけるのは困難だろう。

吉荒夕記『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』(美術出版社、2019)

 これまで多くの論者が指摘し、拙著『バンクシー:壊れかけた世界へ愛を』(美術出版社、2019)でも主張したように、ストリートアートは残された場のコンテクストのなかにあってこそ意味をなす。パリのネズミからマーブルアーチの作品まで、本稿で取り上げたどの事例をとっても、場やそこに住む人々、道行く人々とのつながりが強い。そこから剥がされてしまったものは、もはやストリートアートではなく、一点のキャンバスにすぎない。そのため、なるべくその場で保護しようという近年の傾向は理に叶っている。その反面、戸外である以上、都市開発や自然災害の影響で永久に同じ状態を留めて保管できるわけではない。戸外から剥ぎ取ったキャンバスであれば、物理的な保護も、法的な保護も有効だが、ストリートに残されたものは、安全かつ完全に保護できるわけではない。

 ストリートアートのコンテクストには、もうひとつ重要なファクター、“時間”がある。《奴隷労働》は、女王在位記念やオリンピックの年だからこそメッセージが響いたように、時代に応じて意味をなす。場や時間との結びつきのなかで生み出され、そのコンテキストを共有した人々のなかでこそ、生き生きとしたコミュニケーションをつくりうる。それがストリートアートの特徴であることを再認識したとき、この新しい表現形態は遺産という概念にしっくりと収まるものではないことに気づく。ストリートアートの価値が伝統的ファインアートの概念やシステムに馴染まないように、保存や保護の対象という考え方ともソリが合わないのだ。

 最低限の守られるべき権利は法が徹底してサポートする必要があるが、法体系で杓子定規に介入するのではなく、ケースに応じてフレキシブルな解釈をつくり、関係者の話し合いのを通して、様々な立場の個人やコミュニティや文化が守られていくべきだろう。ストリートアートは社会や時代の変化のなかで生み出され、住民や街行く人々とダイレクトにコミュニケートする。その出会いは、人々にとって、たんなる大衆の一員ではなく、それぞれが都市風景の中で主体性を獲得していく契機になりうる。そのダイナミズムこそがストリートアートの本質だと言えないだろうか。

バンクシーのウェブサイト (http://www.banksy.co.uk/out.asp)より