ヴィデオゲームにおける意味論の重ね合わせ
松永は「表象」における統語論/意味論という用語を整理している。ある表象は内容と記号の二層をまたいだものだが、この記号の水準だけがどう構成されているかについての位相を「統語論(syntax)」と呼ぶ。たいして、どのような記号がどのような内容を示すかを「意味論(semantics)」と呼ぶ。この意味論こそ、絵画面を見ながら、表象を読み取り、しだいに水準の分節を手に入れていく鑑賞者が学んでいるものにあたる。鑑賞者は、記号と内容がどのように〈癒着しつつ剥離しているか〉を学んでいくのだ(*8)。
松永は統語論/意味論という区別をヴィデオゲームの分析に活用する(*9)。松永によればほとんどのヴィデオゲーム作品は、2つの意味論とそれを重ね合わせ(う)る1つの統語論によって成立している。2つの意味論とは、「フィクション」と「ゲームメカニクス」だ。松永に倣って『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂、1985)を例に挙げて説明すると、「フィクション」とは主人公マリオがヒロインであるピーチ姫を助けるために、敵を倒したり、キノコを食べたりする虚構世界の水準の意味論だ。たいして「ゲームメカニクス」とは、制限時間内にゴールを目指し、敵オブジェクトにぶつかるとダメージがあるとか、特定のオブジェクトに触れるとパワーアップするといった、ゲームのルールが実装された水準の意味論だ。ゲームではこれらふたつの水準が基本的には協働する。そして統語論はこの協働を保証するようなメタ水準だ。例えば画面上に表示されるドットの塊は、〈マリオ〉という虚構上の人物でありながら、〈プレイヤーキャラクター〉という操作すべき要素でもあり、この二種類の意味論の重なりをプラグマティックに保証する[図7]。ディスプレイに提示される記号という統語論的な水準での知覚を通して、プレイヤーは、フィクションとゲームメカニクスという2つの意味論を相互作用させ、そのゲームの仕組みを学んでいくのだ。つまり、ドット絵として知覚されるプレイヤーキャラクターを動かすということは、虚構世界上でマリオを前進させることである/になる/とされる/とできる。
絵画や写真などの静的な芸術(*10)にはヴィデオゲームのような明確なインタラクティビティはないが、しかし、複数の意味論が、ある統語論のもとでどのように癒着・剥離するかを、鑑賞しながら学ぶことができるという点では通ずるところがある。ひとつの意味論と統語論との関係から、もうひとつの意味論についても新たな情報を期待し、確認することができる。それが期待どおりに一致するにせよ(癒着)、食い違うにせよ(剥離)、そこでは読み取りの運動が起きているのだ。むしろ食い違うことは、表象のまとまりとしての絵画や写真を成立させる諸条件を批評的に開闢する批評的な営為といえる。
ヴィデオゲームに再び着目すると、『スーパーマリオブラザーズ』において、例えば統語論的水準として提示される〈キノコ状のドットの塊〉という記号は、「マリオが食べるキノコ」というフィクション的水準の内容と、「プレイヤーキャラクターが触れるとパワーアップする」というゲームメカニクス的水準の内容との2つに対応する。1つの記号について2つの表象が重なり合っているのだ。こうした重なり合いがヴィデオゲームのインタラクティビティの骨子になるとはいえ、しかしあらゆる要素が重なり合うわけではないことを松永は付言する。例えば『スーパーマリオブラザーズ』の背景にある雲は、ゲームメカニクスとしては空疎だ。それに触れようと何も起きない、ただ虚構世界の天気演出としてあるにすぎない。たいして画面右上に表示されるスコアや制限時間は、マリオのいるキノコ王国に存在するものではない。重なり合いの対応項をもたない要素が、フィクションの意味論にも、ゲームメカニクスの意味論にもそれぞれ存在する。
だが、対応が噛み合わないズレもまた、意味を読み込む創発的なきっかけになりはしまいか。例えば、本当は何も起きないはずの背景の雲に向かってジャンプしつづけたりする。アドベンチャーゲームで、開くことのない飾り扉を開けようとしてしまうことはしばしばあるだろう。あるいは制限時間というゲームメカニクス的要素もまた、それが尽きると冒険が途絶してしまうのだから、たとえ画面には表示されていなくとも、さらわれた姫の命のタイムリミットだとか、マリオ自身の寿命だというフィクションを読み込むことができる。それらは標準的なプレイ経験とは言えないが、しかし、ヴィデオゲームが意味論の重ね合わせを経験の要件とするゆえに、プレイヤーが空所を補充しようとして、意味をつくり出していく運動だ。
ヴィデオゲームのプレイは、まずその重ね合わせ自体の成立(あるいは不成立=空所)を学習する過程を含む。その過程とは、一方の意味論の要素に対応する他方の意味論の要素を、統語論的水準の記号をつうじて見出して対応づけていく運動の積み重ねなのだ(*11)。この運動は、まさにさきほど指摘した、「複数の水準が、癒着したり剥離したりしてたがいに触発することが、新たな癒着や剥離を生み、絵画面の情報をつぎつぎ波打っていく」こととパラレルである。
おわりに
さて、かくしてソフトウェア的操作の水準が、絵画における別の表象の水準として、鑑賞の経験のなかで成立し、ほかの水準と癒着/剥離する運動をもって、絵画面を豊かにする構造について検討できた。それは、制作者・鑑賞者へのソフトウェアについてのリテラシーの膾炙という今日的状況を背景に持つ。
最後に3点、議論のさらなる拡張のための道標を付しておこう。
まず、gnckの論考「画像の問題系:演算性の美学」もこうした絵画の二水準に関わるものである(*12)。特にドット絵について、gnckはビットマップ画像が持つ条理のピクセルという「演算性」や、またJPEG圧縮形式に特有なブロックノイズが、それが成立させる像の現前を介在することを「演算性の美学」と呼ぶ。ピクセルでありながら像として現前することをgnckが「奇跡」と呼ぶとき(*13)、本稿の用語でいえば癒着と剥離のぎりぎりのバランスで表象が成立する瞬間の価値を指しているだろう。
gnckは以上の視点を、エドゥアール・マネら印象派の筆致についてのクレメント・グリーンバーグの評論から引き出し、やはり「重ね合わせ」という語を用いている(*14)。要素の重ね合わせを芸術経験の骨子とする点では、松永の分析にも通じるところがある。とはいえgnckは、二水準があくまで剥離する瞬間、ドット絵がやはりドットそのものだと見えてくること、グリッチが起きて画像が演算だと示されることを取り上げながら、そこに美学を見出す。本稿が取り扱う「ソフトウェア的操作」の水準についても、固有の美学を見出せるだろう。その意味で、ヴィデオゲームやその周縁文化の分析は、絵画鑑賞の文脈を拡張するためのヒントになりえるだろう。
レフ・マノヴィッチは、テクストや画像、映像など近代のメディアがいずれも演算可能な数値に置き換えられたことを「ソフトウェア化」とみなし、その統括的な演算装置であるコンピュータを「メタメディウム」と呼んだ(*15)。だがここで注意したいのが、演算可能なひとつのデータのまとまりとなったものは、従来「画像」「映像」などと呼ばれてキャンバスや写真用紙、フィルムなどに固着されていたようなものに限らないという点だ。例えばPhotoshopは、ひとつないし複数の(演算可能化された)画像を編集して、最終的にあるひとつの画像を手に入れるようPhotoshopはデザインされている。ところでPhotoshopには「レイヤースタイル」や「調整レイヤー」という機能があり、これら各々のレイヤーに視覚的効果を付すことができる。視覚的効果とはすなわち追加される演算だ。「2階調化」という調整レイヤーは、ビットマップ画像の個々のピクセルごとの明度(HSVでいうV値)によって白か黒かに振り分ける。その閾値をユーザは、中央の画像が変化するのを手がかりに調整できる。さて、この「2階調化」という操作もまた、レイヤーとして扱われている画像そのものや、当のPhotoshopファイルそのものと存在論的に同じひとつのオブジェクトであろう。画像や映像ばかりがひとえに「ひとまとまり」のデータでありオブジェクトとみなされる傾向があるのは、それらがGUIの主役だからにすぎない。しかし「2階調化」というひとつの操作も、レイヤーウィンドウの下部のアイコンから展開するプラグインに、ある同定されるひとつの〈何か〉として、あるまとまりをもった演算操作として、それ自体もまた数値化されて存在しているのだ。
MacOSであれば、ソフトウェア「Adobe Photoshop CC 2018」を構成するファイルは、デフォルトでは「Application」の中の「Adobe Photoshop CC 2018」という名のフォルダに格納されている。そのなかの「Preset」フォルダ、さらに「Channel Mixer」フォルダには、「Black & White Infrared(RGB).cha」というファイルが保存されている。これはレイヤーの色彩に関わる調整レイヤー「チャンネルミキサー」のプリセットである「モノクロ赤外線(RGB)」にあたるファイルだ。データ管理上でも、明らかに操作は、jpgファイルやpngファイル、psdファイルそのものとも同じステータスで、ひとつのchaファイルというオブジェクトとして存在している。
最後に、「操作」の来歴を意識した画家に、パブロ・ピカソがいる。アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映像作品『ミステリアス・ピカソ』(1956)は、《ラ・ガループの海水浴場》という絵画をピカソが描き進める過程を、真っ白なキャンバスからおおまかな下書き、大規模な構図の直し、微調整から完成に至るまで終始とらえたものだ(*16)。それはつまり、ピカソが成した個々の操作の記録であり、それを鑑賞した上で、完成品である《ラ・ガループ》を観るとき、事細かな来歴をその後ろに透かし見ながら、その二水準の癒着と剥離を垣間見ることになるだろう。
作品に操作の来歴を保存しようとする取り組みとして、ジョシュア・シタレラがウェブ上で企画した展示「THE .PSD Show」も思い出される。10人以上が参加したこの展示の作品はすべてPhotoshopの保存形式である.psdファイルであり、鑑賞者は自身のコンピュータにそれをダウンロードして、自前のPhotoshopアプリケーションで開いて鑑賞する。psdファイルは、操作の来歴(ヒストリー)は保存されない仕様だが、レイヤー構造や、それぞれのレイヤーに付された効果を確認することができる。それらを消すことで、完全ではないにせよ、選択されなかった操作や、効果を付される前の画像の状態を見ることができるのだ。
*1――「画像をPhotoshop上で構成し、『指先ツール』で加工を施すことが多いです。『指先ツール』には何百種類という筆があって、すごく大きなデータを加工する場合には、パソコンの演算のスピードが追いつかず、ウゥーーンと鈍くずれながらエフェクトが生まれる。結果が予測できないうえに、何回もやり直しができるところが気に入っています」(今津) 「美術史、私、テクノロジーが指さす景色。今津景インタビュー https://bijutsutecho.com/magazine/interview/18061
*2――「小林さんの作品を見ていくと、一番特徴的なのはPhotoshopの指先ツールです。それを使うと筆跡みたいなのができるわけですよね」(荒川徹) 「小林健太「#photo」を巡って|小林健太×荒川徹×飯岡陸×大山光平(G/P gallery)」 https://note.mu/art_critique/n/n980564c24578 この直後で荒川はさらに、小林が写真にシャープネスをかけることで、等高線のような線が析出し、画像に立体感の水準を重ねることを指摘している。本稿の視点からいえば、この立体感の水準が、表象される風景や人物と別の水準にありながら、相互に情報を注入するような運動こそ肝要であり、ひとつの画面が複数の水準を持つことのポテンシャルである。
*3――とはいえ、「指先」ツールの使用はあくまで彼らにおいて比較的共通して顕著かつ、冒頭の山本の実践とも類比的であるばかりに本稿は取り扱っているにすぎず、彼らの作品には同様の視点で注目できる点が数多くある。今津《[]》(2016)は画像を思わせる矩形の輪郭を強調しながら、中央付近の赤い絵具の膜や、下部のブラシストロークのこすれによって、それがなお「絵具」で物質的に描かれていることを突き合わせる。あるいは《Journey of PUMA》(2016)では、194センチ四方という巨大なスクリーンにしては長いストロークが画面を横切り、さらに薄い影が落ちている。実際の絵具では一筆で描けないだろう、あるいは身体のサイズに合わないだろうストロークの長さは、それがPhotoshopのGUI上でデザインされたことを示している。あるいは荒川徹が指摘するように、小林は「シャープ」ツールを用いて、RGBの差異を強調することでピクセルの条理性をあぶり出したり、あるいは「指先」ツールにおいても、その終端をツールの丸い形状そのもので終わらせるか、筆先のように調整するか、作品ごとに判断されている。彼らの実践は「指先」ならぬ「ストローク=ひとかき(stroke)」なるものの多元性への批評的実践ととらえることができるだろう(あるいはそうした批評的視点が、ストロークというモチーフをあぶり出すだろう)。今津におけるPhotoshopの活用は、相対的に筆-絵具のストロークの物質性を俎上にあげるし、また小林は「指先」の活用を、シャッターを押し込む指の動作と、光学的・情報的に定着される画像とのギャップを感じ取っている。いわば写真とは全体がレンズの「ひとかき」でなされるものだが、小林はそこに、ツール編集やそれで模した筆先の感触を加えることで、「ストローク」を多元化する。この「ストローク」の多元性が画面に宿りつつ相互に及ぼす影響にこそ、本稿は着目している。
*4――永田康祐「Photoshop以降の写真作品」『インスタグラムと現代視覚文化論:レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』久保田晃弘・きりとりめでる共訳・編、ビー・エヌ・エヌ新社、2018
*5――永田、同、98-99頁
*6――松永伸司『ビデオゲームの美学』慶応大学出版会、2018 第四章 記号と内容にかんして「統語論/意味論」という用語を整理する箇所であり、本稿の以降の議論にも関わる。
*7――ジェラール・ジュネット『物語の詩学 続・物語のディスクール』和泉涼一・神群悦子訳、書肆風の薔薇、1983/1985、194頁
*8――本稿の「癒着/剥離」という比喩は、東浩紀が『存在論的、郵便的』で紹介した、デリダ/フロイトの「マジック・メモ」のイメージに触発されている。参考:東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』、新潮社、1998
*9――松永伸司、同、第四章
*10――本稿では説明の紙幅の都合で取り上げなかったが、同様の構図は、彫刻などの立体作品や、映像などのタイムベースドメディアについても言えるだろう。例えば彫刻に期待できるソフトウェア位相としては、3DCGソフトにおけるスカルプトや、マテリアル、テクスチャのような側面である。例えば山形一生による3Dプリント作品《cloth simulation》(2018)が挙げられる。布の形状だが、その表面の布模様(テクスチャ)は、形状と皺が食い違っている。アクリル樹脂で成立した作品でありながら、その表象される布という具象物とのあいだに、UV座標という3DCGソフトウェア特有の問題を想起させる。あるいは映像についても、Adobe Premiere Proなど多くのシェアを占めるソフトウェアの代表的ツール(例えば、ディゾルヴトランジションやクロマキー)が作品内で使用されるとき、同様のポテンシャルが期待できるだろう。
*11――金田淳子はゲーム実況者・しんすけの、ゲーム内の要素を過剰に読み込んでいくプレイについて言及している。『ドラゴンクエストIV』のプレイ終盤、仲間のホイミスライムに「ぼくと同じホイミスライムが[敵として]出てきても なさけをかけちゃダメだよ」と言われて以降、それまで倒してこなかったホイムスライムをしんすけは容赦なく倒すようになる。これは、もともと単なる演出でしかない仲間登録やセリフについて、「同じ種族を倒さないようにする」「以降はホイムスライムを見逃さない」という独自のゲームメカニクス的要素をあえて読み込んでいるのだ。もはやこれは単純に「ゲームプレイ」のカテゴリに含められるだろうか。それは癒着/剥離した二層の意味論を持つビデオゲームにたいする積極的な鑑賞行為のうち、ゲームプレイを包含するような新たな実践である。絵画における意味論の複層性もまた、ビデオゲームのフィクション世界観ほどに明晰に言語で記述できるかは怪しいにせよ、こうした「創発的な読み」を促し、独自の読みを定立させる足がかりとなるだろう。 金田淳子「ゲーム実況、そして刺身。ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」『ユリイカ』2009年4月号、青土社
*12――gnck「画像の問題系 演算性の美学」、『美術手帖』2014年10月号、美術出版社
*13――「ドローイングやキャラが美しいのは、描線であることが明らかなのにもかか関わらず、それが像として現前しているからである。ドット絵が美しいのは、それがピクセルであることが明らかなのにも関わらず、それが像として現前しているからである。最小限の手数で、しかも十全に成立しているものは、奇跡なのだ」(gnck、同、174頁)
*14――「エドゥアール・マネにおいては、その筆触は明らかに絵具であるにも関わらず、描かれた形態としてもそこにある。/この、2つの状態の重ね合わせこそが、絵画の魅力であろう、そして、像を成立させる筆触という、画家の手業こそが、キャンバスに刻み込まれているのである。」(gnck、同、173頁)——この「関わらず」という逆接こそ、「癒着/剥離」という相反する性質の同居なのだ。それの片項となる「筆触」については、*3も参照されたい。
*15――参考:レフ・マノヴィッチ『ニュー・メディアの言語』堀潤之訳、みすず書房、2001/2009
*16――参考:平倉圭「合生的形象——ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》における物体的思考プロセス」『表象11』、月曜社、2017 平倉の議論は、本稿があくまで鑑賞の認識として考察したような運動が、ピカソにとっては制作の中核となる「発見」の理論であり、むしろこの運動こそを第一義的にとらえていたことを、ピカソの発言などを参照しながら考察している。純粋な造形ではなく、それを操作する運動こそ芸術の本分だとピカソがとらえるとき、操作の来歴が映像として記録される意義が明らかになるだろう。
- 1
- 2