新インターネット民芸(2014年~現在)
さて、「新インターネット民芸」という時代に移行しよう。現在、もはや誰もインターネットを信じられなくなってしまっている。アラブの春は最終的には失敗に終わり、ドナルド・トランプが大統領になってしまった。多国籍企業が競うように人工知能の開発に努めるいっぽうで、管理社会が全面化している。インターネット民芸の黄金期に見出された可能性はほとんど消えているが、民藝の歴史を振り返ってみると、この結果は必然的だったのかもしれない。ミームにおける新しい集合の可能性は、早晩、国家にも気づかれてしまうのだ。
インターネット民芸も、民藝のように国家から乗っ取られたことがあった。今年の7月にブルームバーグ紙で発表された記事によると、2013〜14年頃から世界中の様々な独裁政権などがSNSやミームの利用を開始しており、この傾向は強まるいっぽうだという(*38)。ロシアによるアメリカ選挙への干渉を疑問視しない人はいないだろう。ロシアは数百人の「トロール」、すなわち「ネット上で嫌がらせ活動をする者」を雇い、いわゆる「トロール工場」をつくって、彼らが捨て垢やフェイスブックの投稿などを操りながら、ロシアの国内外の選挙に影響を与えられるようにした。ミーム(インターネット民芸)はその戦略の一部を占めている。例えば彼らは、アメリカにおける人種同士の関係を悪化させるために、様々な人種差別的なミームを流布していたとされている。
同時期に、こうしたミームを活かすトロールが自然発生的に(ロシアのように中央集権に指導されずに)アメリカのなかでも現れている。白人至上主義者やいわゆるオルタナ右翼が利用したいくつかのミーム、例えば「カエルのペペ」は人気を集め、ネットにおけるトランプの優勢を決定づけた。カエルのペペとは、マット・フリエという漫画家が2005年に描いたコミックが「4chan」の掲示板で盗用されて以来、いつの間にかトランプの象徴となったキャラクターだ。多くの場合、「Feels Good Man」、つまり「気持ちいいよ」というテキストも伴い、これは堕落的な行為を正当化するための言葉である(これはもともと、ペペがおしっこをするときにズボンを丸下げするイメージから来ている[図5])。転じて、ペペというミームの特徴である猥褻さがアメリカ人の反動的な若者の象徴となってきた。そして、それを知ったトランプ本人が、このミームの利用を促すため、15年にリツイートしたこともあった[図6]。なお、ペペは反ユダヤ主義の象徴だとして、名誉毀損防止連盟から批判されてもいる。
言うまでもなく、ミームの悪用などはアメリカだけの問題ではない。反体制派を脅すための「トロール工場」はインドやメキシコやサウジアラビアなどでも設立されている。さらに、草の根的な右翼団体が世界中で、民族主義や人種差別主義を煽り、ミームをつくっている。インターネット民芸の美を成「用」「多」「信」はすべて覆され、歪んでしまったのだ。しかも、様々な多国籍企業もミームの力を利用し始めている。とくにファストフード店は、ミームの文化資本を操って、広告にかわってミーム制作に投資している[図7]。ここで、柳が夢見ていた、そして私も希望を見出した「使用」にもとづくユートピア的な表現が、暴力的な悪夢に転換しつつあることは明らかだ。さらに、柳の理論における大きな欠陥が見えてくるだろう。つまり、民藝をなんのために なら使っていいのかというところがはっきりしていないのだ。この曖昧さは、インターネット民芸の欠陥でもあるのではないか。必然的な結果として、インターネット民芸も兵器化され、商品化されたのだと言えるだろう。
「終わり」という始まり
言うまでもなく、インターネットは刻々と変わりゆくものだ。今後、インターネット民芸やディーンが言う「二次的視覚性」は、消えてしまう可能性が十分にある。いまや、インターネットは人間を中心に構造化されている世界ではなく、ボット同士のコミュニケーションや、至るところにあるアルゴリズムなどの脱人間中心的な要素がますます増えている。また、人工知能やほかのデジタル・テクノロジーの発達によって、「文字」の将来はおぼつかないことになろう。
この点に関して落合陽一は、近年の計算機技術について、「言語を介在せずに現象を直接処理するシステム」の可能性を指摘している(*39)。この可能性を追究するために彼は、「東洋文明」の「言語を超越する認識のあり方」、とくに華厳宗の教義、すなわち「事事無碍(*40)」を引用することで「近代」のフレームからの脱出を図っている。最新のテクノロジーを考察するにあたって仏教の理論を応用すること自体は面白いが、私はここに危険性を感じてもいる。なぜかというと、いわゆる「近代の超克」や、大東亜共栄圏を正当化するために華厳経の「事事無碍」を適用した思想家たちについてはほとんど言及していないため、落合がその歴史を認識していないように思えるからだ(*41)。過去の危機をそのまま現在の危機感にリンクさせることは、歴史反復論に求められている意義だ。そして、逆にその歴史の失敗や危険を強調することで、現在の危機をより効率的にとらえられると考えられている。
ここにはひとつの矛盾、というより逆説が存在する。すなわち、柳が最初から理念化していた「無銘の職人」などというものは、もともと存在しなかったのではないかということだ。「無銘の職人」は彼の前近代への憧れが生み出した想像の共同体にすぎないのではないだろうか。しかし、その理念と彼の活動によって、「無銘の職人」という存在は創造されたのである。主に「古民藝」の時代に柳は、その「無銘の職人」が残したつくり物を朝鮮や日本の地方で探し求めた。換言すれば、彼がそこで見つけた具体的なものを通して、それをつくった「無銘の職人」が副次的に生まれた。そして数十年後、柳の言うところの「無銘の職人」が具現化し、アメリカでインターネット民芸を発生させたのかもしれない。彼らの活動においては、柳の理念が生き抜いているといえるだろう。
柳は晩年、まるで戦争の記憶と民藝の悪用から離れるように(そして友人である鈴木大拙の影響を受けながら)仏教美学の形成を試みた。前述したように、彼は西洋の美学にあまり興味を持たず、普遍的な趣味の判断の基準ではなく、むしろ美学にある種の救済を求めたのだ。その結果、柳は民藝を成すひとつの特徴、すなわち「無銘」であるべきという原点から離れていた。この変容に関して、中見真理は次のように述べている。
「民芸」という概念を意識しながら「民芸的」な美を生もうとする人が出現するようになると、民芸概念が固定化・形式化し、運動に活力が失われることを警戒して、柳は、民芸への囚われは捨てるべきだと強調した。(中略)そして一九六〇年には「等楊の絵と民芸品」という文章において、民芸館では優れた美であるならば、在銘・無銘にかかわりなく陳列する、それゆえ等楊(雪舟)の絵も展示すると述べた(*42)。
このように、民藝から「美の宗教」を切実に成立させようとした柳は、浄土宗の他力本願を引用しながら、独自の思想を成していた。柳はこのように記している。「仏教美学の悲願は詮ずるに一切の衆生を美の国に結縁せしめたいとの切なる願望に他ならぬ(*43)」。これは阿弥陀仏の四十八願に直結しているが、柳の最終的な希望がここに表れている。つまり、素晴らしい美術をつくることができない大衆は、近代美術で讃えられたような、いわゆる「自力道・能力」に頼らず、「他力道」に入って初めて、「美」に到達することができるというのである。「美の法門」というエッセーのなかで柳は、「仏の国において美と醜との二がないのである」と述べている。そして、「一切のものはその仏性においては、美醜の二も絶えた無垢のものなのである。この本有の性においては、あらゆる対立するものは消えてしまう」と続けている(*44)。これは、般若心経の「空」を表す「色即是空 空即是色」という有名な言葉にも通じている(*45)。本稿で私は、ミームなどインターネットに氾濫する画像を働かせるロジックの説明に柳の民藝論を応用したが、柳が最終的に民藝運動から離れて仏教美学を追究したことは、ひとつの象徴的な意味を持っているのではないだろうか。ある時期まで民藝に救いの可能性を感じていた柳は戦後、民藝に幻滅したのだといえるだろう。それは、すべてが相対化されているポスト・インターネットを生きている私たち──少なくともアメリカ人の若者──の状況でもある。そして、私たちは、戦後の柳のようにある種の分岐点に立たされている。
本稿で論じたとおり、「民藝」は現在まで歴史上少なくとも2度繰り返されているが、これは決して民藝に見られる可能性の終わりだとは考えられない。民藝は、近代から始まった、近いうちに終わりそうもない根本的な問題につながっているからである。いまでも、あらゆる独創的な実践は、柳が提示した「在銘」/「無銘」という二項対立における政治学と無縁ではない。つまり、ある「もの」をつくった「作者」を特定できるかどうかという政治性である。この点について、ディーンは共産主義者である以上、革命に大衆の救いを求めても不思議ではないが、私は逆に、日常的な美に基づく民藝の本来的な可能性と無銘性に希望を見出している。「民藝」とも「インターネット民芸」とも異なる、つまりは国家と多国籍企業に回収されえない、無銘に基づいた表現を模索し続けることは今後の課題である。柳の言葉は、これからも繰り返し響き続けるだろう。
*1――http://ga.geidai.ac.jp/2018/05/28/jodi/を参照(最終検索日:2019年12月2日)。
*2――「二次的視覚性」に関しては、Jodi Dean, Crowds and Party, Verso, 2016に詳しい。
*3――コミュニケーション資本主義による搾取とは、主にデータマイニングや個人にカスタマイズしている広告形態などの、 情報社会における新しい搾取の発現を指している。
*4―― 本稿では民藝の用語を使うようにするが、「無銘性」は「匿名性」を意味する言葉として理解してもらいたい。
*5――注目してほしいのは、この時点では、柳はジョン・ラスキンやウィリアム・モリスと彼のアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けつつ前近代の民藝(下手物)を対象にし、当時つくられていた工芸品には興味を持たなかったということだ。ラスキンとモリスと同様、柳も前近代における伝統や共同性を理想化しがちだったが、この点から柳を批判するのは安直であるため、本稿では取り上げない。
*6――柳宗悦、「正しき工藝」、『工藝の道』、講談社学術文庫、2005、64頁
*7――同書、67頁
*8――同書、69頁
*9――同書、72~73頁
*10――同書、75頁
*11――同書、77頁
*12――同書、81頁
*13――同書、84頁
*14――同書、87頁
*15――同書、90頁
*16――同書、92頁
*17――もとの写真は以下のサイトで見られる。
https://kabosu112.exblog.jp/9944144/
*18――同書、229頁
*19――同書、230頁
*20――Lev Manovich, The Language of New Media, The MIT Press, 2002, p.65.
*21―― 柳が親鸞を高く評価したことは、決して不思議なことではない。戦前から活動していた河上肇と三木清をはじめとする知識人、そして戦後の思想を率いた丸山眞男や吉本隆明まで、親鸞を評価した知識人やアーテイストは非常に多かった。深い悩みを抱えながら戒律を破るに至った親鸞は、近代人にとって共感しやすかったからだろう。この点は、『現代思想』2018年10月臨時増刊号(総特集=仏教を考える)に掲載された近代仏教に関する討議において論じられている(167~174頁を参照)。
*22――他方、イメージは、どこかの文脈から盗用されているが、これは問題にはならない(言うまでもなく多くのミームのイメージは盗作されている)。
*23――「ヴェイパーウェイヴ(Vaporwave)は、2010年代初頭にWeb上の音楽コミュニティから生まれた音楽のジャンルである。大量生産の人工物や技術への郷愁、消費資本主義や大衆文化、1980年代のヤッピー文化、ニューエイジへの批評や風刺を特徴としている。インターネットが成熟を迎えた2010年代を象徴する音楽ジャンルである」(ウィキペディアより。https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴェイパーヴェイヴ 最終検索日:2018年12月2日)。
*24――インターネットという媒体を中心に制作されるアート作品。
*25――インターネットという媒体にこだわらないゆえに、より広く、インターネットと人間文化の関係性を追求するアート作品。伝統的なスタイル、とくに絵画を使うことが多い。
*26―― 柳、前掲書、98頁
*27―― 言うまでもなく、筆者はインターネット民芸を率いようとしているわけではなく、(偉そうに)それを目指してできるものでもない。インターネット民芸とは中心なき、断片化されつつある現象だから。
*28―― 大澤真幸『戦後の思想空間』、ちくま新書、1998、8~24頁を参照。
*29―― 柳が頻繁に朝鮮に渡った背景には、1910年から韓国が大日本帝国に併合されており、事実上の日本の支配下にあったことを忘れてはいけない。しかも、柳は中国と日本のあいだで繰り返し侵略の憂き目にあう朝鮮の美を「悲哀の美」と表現したが、この描写は、特に70年代以降の韓国の詩人と学者から「植民地の正当化や美化」だとして辛辣に批判されるようになった。菊池裕子はこの詩人たちのそれぞれの批判を検討しながら、柳宗悦の言説を「オリエンタルのオリエンタリズム」として論じている。Yuko Kikuchi, Japanese Modernization and Mingei Theory: Cultural Nationalism and Oriental Orientalism, Routledge, 2004, pp.137–138.
*30――Kim Brandt, Kingdom of Beauty: Mingei and the Politics of Folk Art in Imperial Japan, Duke University Press, 2007,pp.11–15.
*31――書道で使用される、水をつぎ足すための道具。
*32―― Kim Brandt、前掲書、pp.38–39。
*33――こうした経緯は、ブラントが『Kingdom of Beauty』の第3章で詳細に論じている。
*34―― Michael Hessel-Mial, “The Poetry of Digital Life”, Real Life, October 13, 2016, https://reallifemag.com/the-poetry-of-digital-life/
*35―― https://knowyourmeme.com/を参照。
*36―― https://arxiv.org/pdf/1805.12512.pdf この論文は、欧州連合からの資金提供を受けて書かれている。
*37――以下を参照。https://knowyourmeme.com/memes/people/steve-roggenbuck
*38―― Michael Riley, Lauren Etter, Bibhudatta Pradhan,“A Global Guide to State-Sponsored Trolling,” Bloomberg, July 19, 2018,
https://www.bloomberg.com/features/2018-government-sponsored-cyber- militia-cookbook/
*39―― 落合陽一『デジタルネイチャー──生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』、PLANETS/第二次惑星開発委員会、2018、18頁
*40――「経験的世界のありとあらゆる事物、事象が互いに滲透し合い、相即渾融するという存在的思想」である。井筒俊彦『井筒俊彦著作集9東洋哲学』、中央公論社、1992、122頁
*41 ――石井公成「大東亜共栄圏の合理化と華厳哲学(1)紀平正美の役割を中心として」(『仏教学』42、2000)や「大東亜共栄圏に至る華厳哲学──亀谷聖馨の『華厳経』宣揚」(『思想』934、2002)などを参照。
*42――中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』、岩波新書、2013、187~188頁
*43―― 柳宗悦「仏教美学の悲願」、『新編 美の法門』、岩波文庫、1995 、16頁
*44――同書、88~89頁
*45―― この言葉は、上座仏教の伝統によって二分化されている煩悩と悟り、すなわち涅槃と娑婆の差をなくしている。
*本稿は応募時から校正を経たものです
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