サックラー・ファミリーに対する報道の過熱
サックラー・ファミリーは、世界各地の美術館・博物館・大学などに巨額の寄付を行う慈善事業で知られており「サックラー」の名が冠された建物や展示室はいたるところに存在する。しかし一族が、オピオイド危機の元凶となった処方箋薬「オキシコンチン」を販売するパーデュー・ファーマを経営していることは、長い間一般には知られてこなかった。
「オキシコンチン」が流通し始めたのは1996年。非常に高い中毒性を巧妙に隠したマーケティングによって、同製品は急速に浸透、数年後には年間売り上げが10億ドル(約1100億円)を超えるようになった。99年以降「オキシコンチン」を始めとする処方箋オピオイドのオーバードーズによる死者は20万人にのぼる。現在でも毎日130人のペースで犠牲者が出続け、アメリカ国内で「公衆衛生上の緊急事態」宣言がなされている。
パーデュー・ファーマは「オキシコンチン」の販売で、累計350億ドル(約3兆3900億円)を超える売り上げを得たとみられている。それに伴い、サックラー・ファミリーの総資産も爆発的に増加。16年の『フォーブス』の調査では130億ドル(約1兆4400億円)と推定されている。
パーデュー・ファーマは非公開企業であるため、利益の行き先や、サックラー・ファミリーの関わりなどについては、不透明な部分が多かった。同社は公衆衛生を無視した悪質な営業手法から、これまでも訴訟の対象となってきたが、それらは和解金の支払いで解決されてきたため、サックラーの関与が表立って報道されることはほとんどなかった。
しかし17年、『ニューヨーカー』と『エスクァイア』から、オピオイド危機とサックラー・ファミリーの関係に踏み込んだルポが相次いで発表されたのを皮切りに、サックラーの築き上げた巨額の富が、多くのオピオイド犠牲者の上に成り立っていることが人々の知るところとなった。
それまでの裁判ではサックラーが直接訴えられることはなかったが、昨年マサチューセッツ州の裁判所に提訴されたケースで初めて、一族のうち8名が被告となった。今年2月に公開された裁判資料には、サックラーとパーデュー・ファーマが、多くの犠牲者を出すことを熟知したうえで、積極的な販売を行っていた証拠が数多く含まれており、メディアの注目するところとなっている。他の州でも同社に対する多くの訴訟が起こっているのに加え、連邦裁判所にも1600を超える訴状が提出されており、この問題に関する報道は日に日に加熱している。
サックラー・ファミリーとの関係解消を急ぐイギリスの美術館
このスキャンダルに対し、いち早く行動を起こしたのは、サウス・ロンドン・ギャラリーであった。同美術館は、昨年9月に新しい施設をオープンしたが、この設置にあたってサックラー・ファミリーの財団のひとつから、12万5000ポンド(約1800万円)の寄付を受けていた。しかし館長のマーゴット・ヘラーはこの資金の出所に大きな不安を感じ、理事会で協議の結果「サックラーから寄付を受けることは、美術館としての評判を損なう恐れがある」と判断、昨年寄付金の返却を行っていたという。
これに続いたのは、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)であった。同美術館は、サックラー・ファミリーとの間で、100万ポンド(約1億4500万円)の寄付の授受について、長期の話し合いを進めていた。そんななか、同美術館におけるナン・ゴールディンの回顧展の企画が浮上。ゴールディンは「一族から寄付を受け取るなら回顧展は行わない」と美術館側に伝えた。
同美術館は協議の結果、3月19日「サックラー・ファミリーから予定されていた寄付金を受け取らない」と発表。この決定は、サックラーとの合意に基づくもので、サックラー側は「一族に対する嫌疑については断固として否定するが、一連の騒動が美術館側へ与える影響を考慮し寄付を見送る」という声明を出している。ゴールディンは、ニューヨークタイムズ紙に対し「(この決定を)自分の手柄にするつもりはないが、最後の一押しにはなったかもしれない」と語っている。
その2日後の21日にはテートが、サックラー・ファミリーからの寄付金を今後受け付けないと発表。同美術館は、これまで一族からおよそ400万ポンド(約5億8千万円)の寄付を受け、テート・モダンの拡張などに用いてきた。しかし声明では「サックラー・ファミリーは、これまでテート及びイギリス国内の芸術機関に多くの寄付を行ってきた。同館は、一族のこれまでの貢献を白紙に戻すつもりはないが、現在の状況を考慮し、今後サックラーからの寄付を受け入れることは適切でないと判断した」と説明している。
サックラーは、ヴィクトリア&アルバート博物館に対しても多額の寄付を行ってきており、昨年9月にオープンした、スコットランド・ダンディーの分館にも50万ポンド(約7200万円)の提供を行った。ダンディーがEUの中で、薬物乱用による死亡件数がもっとも多い街として知られていることもあり、政治家たち数名がこの寄付金を問題視、返却を勧めている。声を上げたひとり、労働党のモニカ・レノンは「薬物依存から利益を得るのは倫理に反する行為。他者の苦しみから恩恵を受けようなどと考えるコミュニティは存在しないので、寄付に関する透明性は極めて重要」と語る。
アメリカではグッケンハイム美術館が事態に対処
イギリス国内でサックラー・ファミリーへの風当たりが日に日に強くなるいっぽう、オピオイド危機の渦中にあるアメリカでは、グッゲンハイム美術館が動きに出た。同美術館は、サックラー・ファミリーと結びつきが強く、先月ナン・ゴールディンが率いる「P.A.I.N」が抗議活動を行ったばかりである。
同館は95年から15年までの間にサックラー・ファミリーから900万ドル(約9億9000万円)を受け取り、教育施設の設立や美術館の運営に費やしてきた。またパーデュー・ファーマの経営に携わってきたモーティマー・D・A・サックラーは、昨年まで約20年にわたり同美術館の理事を務めていた。22日に出た声明では「15年以降、サックラー一族からの寄付は受け取っておらず、今後も受け取る計画はない」とされている。
「ロンダリング」と称されるサックラーの寄付活動
美術館が相次いで寄付を退ける決定を下したのを受け、サックラー・ファミリーが運営する財団のひとつ「サックラー・トラスト」は、当面の寄付活動の停止を宣言した。これは、ファミリーのさらなるイメージ低下を防ぐためと考えられる。
サックラーはこれまで、オピオイド危機への関連を巧みに隠し、慈善事業ファミリーとして社会的ステータスの向上に努めてきた。彼らのこのような行いは「世間体ロンダリング」と形容されている。しかし、オピオイド危機に対するファミリーの関与が一般に報道されるようになったいま、これまでのような寄付を行うことは今後不可能であろう。
考えなくてはならないのは、美術館のような公共性の高い機関に、非人道的に手にした利益が寄付としてすでに投入されてしまったという問題である。メトロポリタン美術館、スミソニアン、ルーヴル美術館など、これまでにサックラー・ファミリーから多額の寄付を受けている文化施設は数多く存在する。これらの機関は、どのような判断をしていくのだろうか。今後の寄付のあり方も変えていくだろう、この問題。「美術館への寄付」が最上級の社会的ステータスのひとつになっていることと合わせて、いろいろ考えるべき点を含んでいるように見える。
>>オピオイド危機の背景やサックラーの関わり、ナン・ゴールディンの活動について触れた過去の記事はこちら。