——本展は、ブルーノ・ムナーリの全生涯にわたっての作品を見ることができる展覧会ということで、まずはその内容について教えてください。
構成としては、一部例外もありますが、年代を追っていく内容になっています。ムナーリの仕事は膨大な量なので、これだけではムナーリの全貌にはなってはいません。でもその一端をご覧いただけるという意味では、日本初のムナーリの生涯を紹介する大規模な展覧会になっています。
また、今回の展覧会では、初期の代表作である《役に立たない機械》シリーズや、初期の絵画といった貴重な作品がイタリアから初来日しています。
——初期の作品が展示されているということで、その頃のムナーリについてお聞きしたいと思います。1907年生まれのムナーリは、1909年にイタリアから活動が始まった未来派の影響を受けました。若い頃のムナーリはどのような活動をしていたのでしょうか。
ムナーリの10代って意外と知られていないんです。20歳の頃、自身が生まれたミラノに戻り、未来派の創始者のひとりであるフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティと出会い、そこから未来派に参加して作品を発表していくことになります。
未来派はその時点で、すでに運動の後期を迎えていました。いわゆる絵画・彫刻といったものだけではなくて、印刷物や建築、デザイン、ファッションなどいろんな分野に手を広げていた時期です。これによってムナーリ自身も、「絵画や彫刻といった伝統的な表現形式に拘泥する必要はない」と思えたであろうことが、ムナーリの活動を広げていった一因なのではないでしょうか。
——初来日の初期作品とは、どのような作品なのでしょうか。
初期の代表作として、《役に立たない機械》シリーズが挙げられます。ムナーリは著書『芸術としてのデザイン』の中で、自分の幼少期について書いています。幼い頃によく見ていた水車小屋の水車や水の動きが、すごく印象に残っていると。そうした原風景をきっかけに「機械」が連動していくことで何かしらの結果を生みだすということや、あるいは渦巻きや川の流れなどの自然現象の中にも規則性があることに気づき、のちの創作に大きな影響を与えたのでしょう。それはムナーリの生涯変わることのなかった要素なのだろうと思います。
そして「機械」といってもいわゆるメカニカルな工業製品のような機械というよりは、ムナーリにとってのそれはある種の「機能」というか、ある出来事の連鎖なのです。
水車小屋が川の水の流れを利用して粉を挽いたり電気を起こしたりするのとは違って、ムナーリのつくる「機械」はとくに何も生みだしません。そのために、ムナーリは自分の作品に《役に立たない機械》とユーモアを込めて名前をつけています。
——《役に立たない機械》は、立体でありながらムナーリの平面作品も連想させます。
ムナーリの平面作品は、油彩画でもドローイングでもデザイン的な感性が感じられます。それはやはりこういったものを発表した当時、ムナーリが雑誌の仕事をよくしていたことが影響しているのではないでしょうか。20世紀前半だといろんな作家が雑誌の挿絵や装丁などの仕事をしていますが、ムナーリはとくに熱心で、タイポグラフィにも関心を持ち、変わった紙面を作ろうとしていました。そういったことが彼の作品にも表れているかもしれませんね。
——機械を賛美していた未来派のなかで、《役に立たない機械》というタイトルをつけているのもおもしろいですね。ムナーリの未来派への態度はどのようなものだったのでしょうか。
やっぱりイタリアにいて、19歳でミラノに出て、マリネッティと出会ったら、それはもう未来派にのめり込むしかないような気もしますよね。ムナーリの中では、未来派の多様な活動の中で、自身の糧になるものとそうでないものとの分別がついていたように思います。いたずらに時代に翻弄されていたわけではなく、彼なりに学ぶべきものを取捨選択していたのではないでしょうか。
両大戦間に始まった多くのアヴァンギャルド芸術が政治的イデオロギーに感化されて回収されていくなか、未来派もファシズムに近づいていきます。ムナーリはそうした動向と距離をとるため、未来派から徐々に離れていったという節もあります。
——ムナーリが、同時代の作家たちと違う部分はありますか?
ムナーリが多くの作家とひとつ違うなと思うのは、生涯を通じてつねにユーモアをその作品に込めているところです。本展冒頭の展示室中央に展示している《役に立たない機械》のうちのひとつは、黒い面だけで構成されていたならば、ロシアの芸術家であるカジミール・マレーヴィチなどを想起させるところがあります。だけど、この作品では黒く塗られた木と木ををつなげている糸のなかに、一本だけたるんだ糸があります。そしてそのたるんだ糸の先には、すごく軽いであろう木片がひとつ浮いている。そこにはなにかこの作品を脱臼させるようなユーモアがありますね。この初期の時代においても、ムナーリがユーモラスな部分を持っていたことがうかがえる作品だと思います。
——ユーモアといえば、絵本もとてもユーモラスですね。ムナーリが絵本を描いたきっかけについて教えてください。
1940年にムナーリの息子・アルベルトが生まれます。その息子が5歳になるときに、絵本を買おうにもいいものがない。じゃあもう自分でつくってしまおうと、当時10冊自作しました。そのうちの7冊がすぐに出版されて、日本語でも9冊が出ています。残念ながら1冊はオリジナルが行方不明になってしまいました。
——子供の教育に熱心な人だったのでしょうか。
ムナーリは子供が生まれてから心境が変わったようで、教育の重要性を考えるようになりました。ムナーリは著作『ファンタジア』において、「未来の社会はすでに私たちの中に、つまり子供たちの中にある」と語っています。そういう視点を持ち始めたことと、未来派がファシズムと接近したことへの違和感は平行していたのかもしれません。
——ムナーリの絵本にはどのような特徴や工夫がありますか?
本というのは、当時あらゆる知識を得られる数少ないメディアだったはずですよね。だからその本というメディアに子供の頃から慣れさせてあげなければいけないと考えてつくっていたようです。もう少し大きくなって文字が読めるようになって、そのときに「本を読むのなんてまどろっこしい、興味がない」というようになってはいけないと。
たとえば、『本に出会う前の本』という文字を読めない子供に向けた12冊組の小さな本の一冊に、フェルトなどでできたものがあります。ほかのものも、ちょっとした絵が描いてあったり、素材が変わっていたり、中にボタンがついていてそれを留めるようになっていたりとか、本を逸脱しているところがあります。でもページをめくっていくという、ある時間を伴った体験を子供はこれらの本で知ることができますね。そういう意味で、これはムナーリが教育に関心があったということを含めて、大切ないい作品だなと思います。生涯でこれだけ本に関わったアーティストもなかなか珍しいのではないでしょうか。
——本や雑誌の装丁や挿絵も多く手がけていますね。
装丁の仕事は晩年まで手がけていました。ムナーリは、「芸術のための芸術」のようなものを目指した人ではないんです。自身の作品がいかに大衆に広く触れ、創造的なきっかけになるかということのほうが、むしろ関心があったのでしょう。だから、装丁のような仕事はバランスが取れたいい仕事だと、ムナーリはとらえていたのではないでしょうか。
——続いて、詩人・瀧口修造や、音楽家・武満徹との関わりをはじめ、ムナーリと日本の関係についてお聞かせください。
瀧口修造は早いうちからムナーリに強い関心を持っていて、1958年の夏にミラノまでムナーリを訪ねています。59年6月号の『美術手帖』で紹介しているんですよ。そのあとも瀧口が「君のこんな記事を日本で書いたよ」、ムナーリが「こんな作品をつくったよ」という具合に交流を続けます。日本でのムナーリ展開催も、瀧口がかなり後押しをして、紹介文も書いています。ムナーリの日本初個展(新宿・伊勢丹、1965)のために制作された作品《旅行のための彫刻》も、今回展示しています。
そして瀧口を介して、武満徹がムナーリのことを知るんですね。ムナーリの『読めない本』という作品を瀧口から見せてもらったときに、武満は「自分もこんな本を使って、作曲をしたい」と瀧口に言ったそうです。今回は展示されていないのですが、この《ムナーリ・バイ・ムナーリ》という作品は、まさにムナーリの本の形式を利用した装丁の楽譜です。なかなか素敵ですよ。
あとは福田繁雄ですね。福田は1960年に日本で行われた世界デザイン会議にムナーリが招かれたときに彼を知って、大きな衝撃を受けたそうです。翌年にはもうミラノに会いに行き、以後ずっと交流がありました。1985年に東京・渋谷の「こどもの城」でムナーリの展覧会があったときは、図録や印刷物のデザインを福田が担当しています。ムナーリは本当に色々な顔や表現を持った人ですけれども、そのなかの、例えばすごくユーモラスな部分だとか、ムナーリほどトリッキーではないですが、グラフィックにおけるウィットだとか、そう言ったものを福田は強く受け継いでいるように思います。
それと、ムナーリ自身が言及しているのは柳宗理です。ムナーリは折り紙にすごく関心があって、彼のいろんな作品に影響を与えています。例えば著作『ファンタジア』で折り紙について書いているのですが、その中で「柳宗理が折り紙を研究している」と紹介しています。もちろん柳宗理の仕事はそれだけではありませんが、ムナーリにとっては、この日本を代表するデザイナーが折り紙に強い関心を持っていたことがとても印象的だったのでしょう。
——折り紙に影響を受けた作品はなにかありますか?
1957年の《灰皿:クーボ》もそのひとつです。正方形はムナーリのアイコンでいろんな作品に応用されています。その正方形でできた立方体の中に一枚の金属を折り曲げて入れただけで、灰皿をつくり出しています。
——折り紙以外に、日本から影響を受けたものはなにかありますか?
象形文字に彼は衝撃を受けました。今回も展示されている《木々》という作品がありますが、「木」という文字はまさに木としか見えないと驚いたのでしょうね。ムナーリは何かを描くときに、その線によっていろんな描き分けをします。例えば、弱々しい木とか、どっしりとした木だとか、まるで枯れてしまいそうな木だとか。それを実践しているのが《木々》というシリーズです。字と、いわゆる図像との行き交うような作品が、日本でも用いられている漢字をインスピレーションにしていたということは、すごく面白いですよね。
——文字にも強い関心があったとのことですが、ほかにも文字をモチーフにした作品はありますか?
読めない文字を自分でつくっています。ムナーリも読めないのではないでしょうか。架空の、誰も読めない文字をつくるってすごいですよね。
いっぽうで言葉に関する興味を子供の絵本にも応用させて、アルファベットの絵本をつくりました。純粋に子供にアルファベットを教えるための本です。「A」のページだったら、「ant」=蟻が描かれていたりする。これで子供が文字に関心を持ち始めますね。この本のなかでは「F」のところに「fly」=ハエが出てくるんですけども、そのハエがあとのページにもずっと登場し続けます。そして最後の「Z」で、ハエももう「ZZZ…」と眠って終わります。すごく考えられている絵本ですね。
——先ほど灰皿をデザインした話が出ましたが、ムナーリというと、洗練されていながらどこか愛らしいプロダクト・デザインを思い起こす人も多いかと思います。プロダクト・デザインを手がける契機があったのでしょうか。
発表された時代はまちまちですが、ムナーリは工業製品的なものにすごく関心はあって、なかでもダネーゼ社との出会いはとても大きかったようです。57年に、ムナーリはダネーゼ社に「こういう商品のラインをつくったらいい」と提案します。いわゆる工業製品的なものと、より作品寄りのエディションがあるものと、あと子供に向けた知育玩具。その3つを柱に、様々なデザインを手がけました。ダネーゼ社は、とても考え抜かれた素材で、シンプルなデザインのものをつくる会社だったので、ムナーリはそういうところに共鳴したのではないでしょうか。両者にとってとてもいい出会いだったと思います。
——ダネーゼ社以外との仕事でプロダクトデザインを手がけるということもあったのですか?
家具でいうと今回展示されている71年に作られたベッドの《アビタコロ》がそうですね。60年代にイタリアで創業されたロボッツ社の製品なのですが、同社では収納家具もムナーリはデザインしています。
——ここまで、さまざまなムナーリの創作についてお話ししていただきました。あらためて、髙嶋さんが考えるムナーリの魅力についてお聞かせください。
ムナーリで面白いと思うのが、言葉の壁が本当にない人だというところです。例えば『読めない本』も、読めはしないけど、個々人に自由な想像を促すところがあるとか。
また、ムナーリは85年に来日したときにワークショップを開催しました。もちろん彼は日本語が母国な訳ではないけれど、それでも、彼がワークショップの講師として子供たちの前で実演している記録写真が残されています。つまり、ムナーリのワークショップというのは非常にシンプルなんですよね。言語を介さなくても色や形を用いることで伝わるような、それでいて新鮮な驚きを与えられるようなものだったんです。
——最後に、髙嶋さんから来館者の方へおすすめしたい展覧会のポイントを教えてください。
初期の作品は日本で見られる機会がほとんどありませんでした。絵画にしろ、《役に立たない機械》にしても、その素描にしても。初期作品は、今までの皆さんのムナーリ像をさらに押し拡げるようなところがあるはずです。あとはやっぱり、絵本『きいろずきんちゃん』と『みどりずきんちゃん』の原画や、有名な『木をかこう』に関する素描を展示しているので、幅広くムナーリの世界をお楽しみいただけるようなものになっています。