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ヌードの見方、教えます。「ヌード」展キュレーターが語る、いまヌードを見せる意味

全出品作がヌードで構成された「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」が横浜美術館で開催中だ。開催前からロダンの大理石彫刻《接吻》が初来日するなど、話題を集めていた同展。一言で「ヌード」とはいえ、19世紀から現代まで多種多様な作品が集まる本展。担当学芸員の長谷川珠緒に開催に至った経緯からヌードの見方、そして意義などについて話を聞いた。

ロダン《接吻》の部分

世界を代表する美術館・テートのコレクション

──まず、この展覧会が開催に至った経緯からうかがいます。本展は、イギリス、テートのコレクションを紹介するものですが、まずはそのテートが一体どういう美術館なのかからお聞かせください。

 テートはイギリスを代表する国立美術館で、現在4つの分館(ブリテン、リバプール、セント・アイヴス、モダン)があります。もともとは砂糖精製で財を成したヘンリー・テートのコレクションが核になっています。テートは1889年、自分のコレクションを国に寄贈しようとしたのですが、ナショナル・ギャラリーに断られてしまったんです。テートのコレクションは当時の現代美術だったのですが、イギリスには受け皿となる現代美術館がなかった。そこで、「同時代の美術を展示する美術館を」という議論が起こり、「ナショナル・ギャラリーの分館(ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート)」というかたちで、1897年に現在のテート・ブリテンがある場所に開館しました。

 それが現在の「テート」のかたちになったのは、第二次大戦後、1955年のことです。

テート・ブリテン 出典=ウィキメディア・コモンズ
(By Tony Hisgett from Birmingham, UK - Tate BritainUploaded by Magnus Manske, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21109536)

──本展はシドニー、ニュージーランド、韓国を巡回してきた世界巡回展ですが、テートでは開催されなかったのしょうか?

 もともとは、シドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館とテートが旧知の間柄で、2館のパートナーシップで何かできないかと話が持ち上がったそうです。それがシドニー展が開催される3年前、2013年のこと。テートのコレクションを使ったプロジェクトをとなったとき、出てきたアイデアがヌードだったのです。

 テートとしても、コレクション活用の方針のひとつに、海外での紹介というものがある。そして、海外との美術館とのパートナーシップというミッションもあり、立ち上がった展覧会が本展なのです。日本展のあとは台湾での開催が決まっており、それが最後です。

──地域がずいぶん限定的ですね

 「アジア太平洋地域」というのがキーワードでもあるんです。本展は西洋美術の展覧会なので、そもそもヨーロッパでは比較的馴染みがあり、テートのコレクションも知られています。だからテートの戦略としては、コレクションをアジア太平洋で巡回させて、周知するというのが重要なのです。テートにとっても、コレクションの名品を1年以上自館で見せられないので、挑戦的でもありますね。

ヌード展の冒頭を飾るフレデリック・レイトンの《プシュケの水浴》(1890発表)

──横浜美術館に開催の打診があったのは、いつ頃だったのでしょうか?

 約3年ほど前ですね。その際、当館でも開催を議論しましたが、19世紀から現代までの美術を紹介する、というのが当館の方針と合致しましたし、展覧会のクオリティも高かった。「ヌード」というテーマは挑戦的でしたが、横浜という地はかつてから海外の文化をいち早く取り入れてきた場所であり、理にかなっています。それに、テートという世界をリードする美術館と一緒にプロジェクトを行うということは、我々にとっても糧になりますからね。

──日本展ならではの要素はありますか?

 シドニー展ではフランシス・ベーコンの油彩画など、自館のコレクションを上手く展覧会の中に入れていたんですね。

 そこで私たちも可能性を検討したのです。「他の美術館の作品を加えるとテート・コレクションの特徴がぼやけるのではないか」という意見もありましたが、テートは「開催会場の意向を尊重し、巡回作品に新たに作品を加え、会場ごとにオリジナルな展覧会にしよう」という柔軟な考えでした。当館としては、「肉体を捉える筆触」のセクションには、やはりフランシス・ベーコンの油彩画は追加したかった。そして東京国立近代美術館と富山県美術館に交渉し、それぞれ1点ずつ油彩画を出品いただいたのです。

 またシュルレアリスムは日本でとくに人気がありますし、当館の主要なコレクション群でもあるため、当館所蔵のマン・レイやハンス・ベルメールなどの作品を数点追加しています。

左からフランシス・ベーコンの《スフィンクスーミュリエル・ベルチャーの肖像》(1979、東京国立近代美術館蔵)、《横たわる人物》(1977、富山県美術館蔵)

──ヌードはこれまでの美術史の中で様々な議論を巻き起こしてきました。また、現在も欧米などを中心に作品撤去運動にまで発展するケースもあるなど、いま再び注目を集めている。そんななか、「ヌード」展は何を伝えるのでしょうか?

 テートは、「ヌードはどこに要っても氾濫している時代だからこそ、歴史的にヌードはどのように発展してきたのか、それがどういった議論や物議を醸してきたのかをたどることで、21世紀の現代において私たちが問題にしている事柄について考えるべきことがある」と言っています。作品の文脈を説明したうえで、隠すのではなくちゃんと見せ、そして問題に蓋をせず、議論をすることの重要性に価値を置いているのです。これについては私も同意します。

 本展ではすべての章に女性と男性、両方のヌード作品を展示しています。また、作家についてもすべての章で男女両方の作家を紹介している。つまり、両者の視点から身体表現の変遷をたどるという構造になっているんです。見終わった後、どちらかの性の方が不快な思いをしないようにということは意識していますね。

ヌード、その多様性

──本展の展示構成は基本的に時系列となっています。構成に沿って、ヌードの需要のされ方はどのような変遷をたどってきたのかをお聞かせください。

 展覧会は「物語とヌード」から始まります。性の倫理に厳しかった19世紀イギリスという社会背景の中で、裸体を描くには口実が必要でした。もちろん、個人コレクターがヌードを発注するなど需要はありましたが、サロンなど公的な場で発表されるときは、「ヴィーナス」や「アダムとイブ」といった神話を主題にしたものにせざるをえなかった。

 それと同時に、美術教育でもヌードデッサンのシステムが徐々にできあがってきました。そんななか、フレデリック・レイトンなどは複数の女性のパーツを組み合わせ、理想的な女性像《プシュケの水浴》(1890)などを描いています。

 女性が男性のヌードを描くことができなかった当時において、アンナ・リー・メリットは《締め出された愛》(1890)で少年の裸体をデッサンしていますが、これもキューピッドを主題にしています。ちなみにこれは、イギリスで初めて国に寄贈された女性画家による作品なんです。

展示風景より左がアンナ・リー・メリットの《締め出された愛》(1890)

──その制約のなかで描かれた1章の作品群から、2章「親密な眼差し」では傾向がガラリと変わります。

 印象派の時代ですね。日常の人々に視線を向け、日常の美しさを描くという印象派の流れのなかで、「女神」を描く必要がなくなった。モデルと画家の関係性も変化し、描く対象が妻やお手伝いさんなど身近な対象になっていきました。いっぽう、あまりに日常的なため、「まるで覗き見をしているようだ」という批判なども生まれたのです。

2章の展示風景より、手前はピエール・ボナール《浴室の裸婦》(1925)

 続く「モダン・ヌード」では、人体を造形的にどう描くかという作家たちの試みを見ることができます。例えばデイヴィッド・ボンバーグは幾何学的な形態や力強い線の強調する「ヴォーティシズム(渦巻派)」の作家ですが、《泥浴》(1914)ではどこが裸なのかわからないくらい人体をデフォルメし、力強く描かれています。当時の機械の発展や効率化、力強い男性像などが象徴された作品ですね。ちなみに本作は、テートの方々に「この作品がイギリスにないと寂しい」と言わせるほど、イギリスでは愛されている作品だそうです。

3章の展示風景より、左がデイヴィッド・ボンバーグ《泥浴》(1914)

──続く「エロティック・ヌード」は唯一時系列ではないセクションですね。

 当初、この章はもう少し後の章(第6章「肉体を捉える筆触」の次)として構成されていたのですが、私たちとしてはやはりこの章に含まれるロダンの《接吻》(1901-04)は「この展示室で見せたい」という具体的な考えがありました。また作品としても、ベーコンなど人間の造形が解体された作品を見せる6章の後では、やや違和感がある。またヌードを語る上で、「エロティック」というのは切っても切り離せない要素です。なのでこれを展覧会の中心に据えました。

──ロダンの《接吻》は「エロティック・ヌード」はもちろん、本展全体の中心となっています。開催前からこの大理石彫刻が日本に初来日することで大きな話題を集めてきました。まずその巨大さに圧倒されますが、搬入も大変だったのでは?

 やはり重さがネックでしたね。本作は作品だけで3.2トン、台座も含めると約3.5トンもあります。横浜美術館は巨大な作品の設置については「横浜トリエンナーレ」などで慣れているんですね。でも、この重さの作品の取り扱いには頭を悩ませました。搬入する際、床のタイルが割れないかなど、様々なことを計算しなくてはいけませんから。それに、造形的にも重心が中央にあるわけでもないのです。この作品の展示だけは日通の専門班が手がけています。

搬入中のロダン《接吻》。この台座はテートが独自に開発したものだという 提供=読売新聞社

──大理石のロダン《接吻》は世界に3点あるということですが、他の2点はどこが所蔵しているのでしょうか?

 ひとつはパリのロダン美術館で、これが最初につくられたものです。それを見たコレクターが発注してつくられたのが本作と、デンマークのニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館が所蔵している作品です。

 ロダン美術館とニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館のものはイタリアの大理石でつくられていますが、本作はギリシャの大理石、ペンテリコン大理石を使ってつくられているんですね。私は3体の中ではこれがもっとも美しいと思います。光の吸収され方が全然違いますし、肌の厚みを感じますね。イタリアの大理石は光を跳ね返し、もっと劇的な表情を見せます。

 今回はこの作品の表情を最大限に引き出すため、照明を丸1日かけて調整するなど入念に準備しました。日本に初めて来日するという場をつくるとき、ベストな状態で見せたいという強い思いがありましたから。

ロダンの《接吻》(1901-04)

──360度から鑑賞できるという展示方法も効果的です。

 じつはテートでは必ずしもこういう見せ方はしていないんです。背面からは見えないこともある。でもやはり背中を見せたかったので、こういう展示になりました。

──長谷川さんオススメの鑑賞角度は、やはり背中ですか?

 背中も良いんですが、包み込むような男性の手の添えかたに愛を感じますよね。この作品のみ撮影可能なのですが、皆さん自分が気に入った角度で撮影していらっしゃるので、鑑賞の幅を広げているように感じます。

 本作は、ロダンが初めて国(フランス)から発注を受けてつくった大理石彫刻なので、記念碑的作品でもあるんです。もともとは、1880年にフランス国家が依頼した《地獄の門》の一部として構想されたもので、その後、独立した像として制作されました。

──では展示に戻り、その他の章を見ていきたいと思います。

 ロダンのある「エロティック・ヌード」の次が「レアリスムとシュルレアリスム」ですね。ここでは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の裸体表現を見ることができます。シュルレアリストは裸体の断片を、現実ではありえない風景に置くなど新しい裸体表現を切り拓きました。いっぽう、レアリストたちは理想化しない現実を裸の身体を通じで描いていったのです。

「レアリスムとシュルレアリスム」の展示風景

 続く「肉体を捉える筆触」では、リアルはリアルでも、筆触によるリアリティに注目していただきたいです。例えばルシアン・フロイドは《布切れの側に佇む》(1988–89)でリアルな肉体を厚塗りの絵具によって描くと同時に、絵具を拭くために使った布を作品の中に描きこむことで、いまいる場所や同時代性を表しています。

右がルシアン・フロイド《布切れの側に佇む》(1988–89)

 「身体の政治性」では1970年代のフェミニズムを中心に、美術によって政治に言及していく時代の表現が並びます。シルヴィア・スレイは、女性の画家が男性のモデル(恋人)をエロティックな視線で描くという、従来の視点(男性が女性を描く)を覆す試みをしていますし、バークレー・L・ヘンドリックスは、黒人である作家自身がヨーロッパの美術館に行った際、どうして黒人が肖像として描かれてこなかったのかという疑問を持ったことから始まり、裸体であり、黒人であり、ゲイであり、クールであるという作品《ファミリー・ジュールス:NNN(No Naked Niggahs[裸の黒人は存在しない])》(1974)を描いています。

展示風景より右がバークレー・L・ヘンドリックス《ファミリー・ジュールス:NNN[No Naked Niggahs[裸の黒人は存在しない])》(1974)

 「儚き身体」ではシンディ・シャーマン、ジョン・コプランズなどに注目していただきたいです。シャーマンはグラビアを撮影される影の中の女優を演じながら、暗がりの中からカメラを見つめ返す強い視線が「私はあなたの所有物にはならない」というメッセージを放っていますね。

シンディ・シャーマン 無題 #97 1982 Tate: Purchased 1983 © Courtesy of the artist and Metro Pictures, New York

──ここまで見ると、最初のレイトンから120年足らずの間で起こったヌード表現の変遷に改めて驚かされますね。

 本展はヌードの展覧会でもありますが、近現代西洋美術史全体も振り返ることができます。しかも、(美術史を概観するうえで)主題が「ヌード」に絞られているのでその変遷が思いのほかたどりやすいんです。身体は誰もが持っているもの。来場者の皆様には自分たちに引き寄せて見てほしいですね。

編集部

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