映画と宇宙を同時に賛美する想像力 『ボヤージュ・オブ・タイム』
細胞の胎動、生命の流転、そして文明の営み。「母よ」とケイト・ブランシェットが呼びかけることで幕を開けるテレンス・マリックの最新作『ボヤージュ・オブ・タイム』は、宇宙の歴史を途方もない想像力と最新のテクノロジーによって表象した一大叙事詩だ。
全編にわたってたゆたうカメラワークは、対象と対象の境界線を撹拌し、森羅万象を壮大な循環のなかで混淆させる。マリックは、『2001年宇宙の旅』においてキューブリックが試行錯誤した超越性の可視化に真正面から取り組んだ。ミクロとマクロが、そして現在と過去が一種の陶酔感を伴いながら融けあっていく。通常の劇映画的空間では物語へと再配置されていくCGも、ここでは自然景観に挟み込まれることによって生成のドキュメンタリーとなり、映画というマトリックスへと吸い込まれていく。すべての運動が、同等の関係を取り結ぶのだ。
主題的な共通が明らかなマリックの過去作『ツリー・オブ・ライフ』(2011年)の冒頭では、「生き方には二通りある」と語られながら、次のようなせりふが続く。「世俗に生きるか」「神の恩寵に生きるか」。劇中、前者はアメリカンドリームを信じる父に、後者は無償の愛に生きる母にそれは託されていたが、そのような対立は単なる物語的な方便にすぎなかった。『ツリー・オブ・ライフ』で「世俗」という翻訳が充てられた箇所は「Nature」(自然)と発音されており、『ボヤージュ・オブ・タイム』においてその真意を敷衍して解釈するならば、マリックは彼方へと語りかけるナレーションや荘厳な音楽によって「恩寵」としてのフィクションを想像的に仮構し、豊かであると同時に残酷でもあるイメージの数々を「自然」として映す出すことによって、両者の統合を試みたのだ。そのような不可視な抽象性と、可視的なイメージの具現化を両立した本作は、映画の、そして宇宙の根源を私たちに幻視させることになるだろう。
(『美術手帖』2017年4月号「INFORMATION」より)