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ヨーゼフ・ボイス

Joseph Beuys

 ヨーゼフ・ボイスは1921年ドイツ・クレーフェルト生まれ。脂肪やフェルトを素材とした彫刻作品の制作、アクション、対話集会のほか、政治や環境問題にも介入し、その活動は多岐にわたった。幼少期より自然や動物に関心を寄せ、彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品集に感銘を受ける。40年、通信兵として第二次世界大戦に従軍。冬のクリミナ半島に墜落し生死をさまようも、居合わせた遊牧民のタタール人がボイスの傷を脂肪で手当てし、フェルトで暖を取って救助したとしている。この経験は後の彫刻作品の根幹となり、ゆえに素材には従来の石や木ではなく、熱を保持する脂肪やフェルトを用いている。

 戦後、23歳のときにデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学。彫刻家ヨーゼフ・エンゼリンク、エーヴァルト・マタレーに学ぶ。53年、コレクターのファン・デア・グリンテン宅で初個展を開催。61年にデュッセルドルフ芸術アカデミーの教授に就任し、同じ頃ナムジュン・パイクと知り合う。63年に「フルクサス・フェスティバル」に参加し、最初のアクションを実践する。ドクメンタ3(1964)に参加し、翌年のシュメーラ画廊(デュッセルドルフ)での個展で《死んだウサギに絵を説明する方法》を発表。頭に金箔やはちみつをつけたボイスが、ウサギの死体を腕に抱いて絵にふれさせるアクションを行った。74年のアクション《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》は、ボイスがアメリカ着の空港から救急車でコヨーテのいるギャラリーに運ばれ、1週間暮らした後に、再度ドイツへ出発するというもので、コヨーテとの行動のみを強調することで、先住民に対するアメリカ社会の抑圧を批判した。

 ドクメンタ7(1982)で開催地のカッセル市に7000本の樫の木を植えるアクションを展開。始めに、無機物で死を象徴する玄武石を敷き、その横に生を示す樫の木を植えて、双方が存在することで世界が成り立つことを表現した。このプロジェクトに賛同した人々のように、自ら意思を持って社会に参与し、未来を造形することを「社会彫刻」と呼び、それこそが芸術であると提唱する。

 社会活動家としては、67年にデュッセルドルフ芸術アカデミーで「ドイツ学生党」を結成し、学生運動を支援。アカデミーの入学許可制限をめぐって解雇されたが、裁判ではボイス側の勝訴に終わる。79年「緑の党」に立候補。84年に来日し、西武美術館で個展を開催した。86年没。