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田名網敬一

Keiichi Tanaami

 田名網敬一は1936年、東京都・京橋の服地問屋の長男として生まれる。幼少期に第2次世界大戦を経験し、空襲に遭う東京の光景がのちの作品の主要なモチーフとなる。終戦を新潟県の六日町で迎え、9歳のときに東京に帰郷。ドクロがヒーローとして登場する紙芝居『黄金バット』や山川惣治の絵物語『少年王者』に出会う。少年期は、怪獣ものからマリリン・モンローの出世作『ナイアガラ』まで映画鑑賞に没頭する。高校生のときにすでに絵の才能を開花させ、武蔵野美術大学デザイン科へ入学。在学中に日本宣伝美術協会主催の日宣美展で特選を受賞し、学生にして雑誌のエディトリアルデザインなどの依頼を受ける。最初の仕事は、雑誌『マドモアゼル』のアートディレクション。この頃より、赤瀬川原平、荒川修作とともにネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成した篠原有司男との交流が始まる。58年に武蔵野美術大学を卒業し、博報堂に入社。しかし個人的な依頼が多くわずか2年で退社する。

 商業美術で堅実に活躍するいっぽう篠原ら周辺の芸術家から刺激を受け、画廊にとどまらない作品発表の場として、マンガとアメリカン・コミックスを融合させたアーティストブック『田名網敬一の肖像』(1966)を制作。67年にニューヨークでアンディ・ウォーホルの作品を初めて鑑賞したことで、より実験的な作品を手がけるようになる。68年にロックバンド、ジェファーソン・エアプレインの音楽アルバム『After Bathing At Baxters』、モンキーズの音楽アルバム『Pisces,Aquarius,Capricorn & Jones Ltd.』の日本盤ジャケットを担当。同年、アメリカの『Avant Garde』誌の「No More War ポスター特集」に作品を寄稿。69年には、東京の60年代アンダーグラウンドのアート・シーンを虚像の世界にまとめ実験作『虚像未来図鑑』(原英三郎の共作)を出版する。

 また、戦後日本のアートアニメーション界を牽引したひとり・久里洋二のもとで学び、念願のアニメーション制作にも着手。アメリカのアイコンを起用した《Good by Marilyn》《Good-by Elvis and USA》(1971)、マルセル・デュシャンの作品をトリビュートした《彼女の独身者たちによって裸にされた性服の処女研究》(1972)などを発表する。75年に日本版『プレイボーイ』誌の初代アートディレクターに就任。同時期にアンディ・ウォーホルのスタジオを訪れ、社会の体制批判や性表現といった挑戦的なテーマに移行していく。81年、多忙で無理がたたり長期入院。回復後は創作意欲が増し、身近になった「生と死」を主題に、闘病の際に見た幻覚のイメージに基づく絵画や立体作品にも取り組む。自身の記憶や実体験から生み出される鮮烈な作風で、絵画や彫刻、アニメーションをはじめ、ジャンルを問わず横断的に活躍する。

 92年に「田名網敬一の世界」(池田20世紀美術館、静岡)、94年に「版画の仕事1967−1994」(川崎市民ミュージアム、神奈川)と続けて大規模展覧会が開催。2000年のギャラリー360°(東京)での個展「田名網敬一・1960年代のグラフィックワーク」をきっかけに若者世代にも認知され、「Mary Quant」「Paul Smith」などのブラントとのコラボレーションが実現する。06年以降は国外の展覧会にも参加。ニューヨーク近代美術館(MoMA)やベルリン国立美術館など世界の主要美術館に作品が収蔵され、国際的なファインアートシーンでも評価が高まる。