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ピート・モンドリアン

Piet Mondrian

 ピート・モンドリアンは1872年オランダ・アメルスフォールト生まれ。幼少期は絵を趣味としていた父とアマチュア画家の叔父から絵画の初歩を学ぶ。図画教師の資格を得て3年ほど教壇に立つが、92年にアムステルダムの国立美術学校に入学し、画家を目指す。ここでアカデミックな技法を習得しつつ名画の模写や肖像画で生計を立て、象徴主義の画家ヤン・トーロップとの交流をきっかけに象徴主義的な風景画や、印象派の影響を受けて点描画などにも取り組む。1909年、自然や宇宙の本質にふれることを思想とした神智学協会に入会(〜17年)。翌年にはトーロップとともに「現代美術協会」を設立。同会主催の展覧会にて出会った、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックのキュビスムに感銘を受けてパリに滞在。第一次世界大戦の勃発で帰国し、パリで体験したキュビスムをヒントに、主観を排除した「新造形主義(ネオプラスティシズム)」を構想する。

 17年に雑誌『デ・ステイル』(〜28年)(「ステイル」は様式の意)の創刊とともに、画家や建築家、詩人らからなるグループ「デ・ステイル」を結成し、「新造形主義」を基本理念に総合芸術を目指す。「新造形主義」は、矩形に垂直と水平、赤・黄・青の三原色と白・灰・黒の使用を原則として、純粋な幾何学的造形を追求。25年にバウハウス叢書『新造形主義』が刊行される。「デ・ステイル」のメンバーのひとり、テオ・ファン・ドゥースブルフが「新造形主義」に斜線を組み込もうとしたために対立し、25年にモンドリアンは同グループを脱退する。

 30年代には、黒い太線で囲った四角の色面を大小に配置した「コンポジション」シリーズを展開。19年にパリに戻っていたモンドリアンは、ナチスの弾圧から逃れ、ロンドンを経由して40年にニューヨークに移住する。近代的な都市とジャズ音楽のブギウギとの出会いをきっかけに、黒の囲い線を消して小さな色面で構成する作風へと変化。均衡と軽やかなリズムに到達する。代表作に、《赤、青、黄のコンポジション》(1930)、《ブロードウェイ・ブギウギ》(1942〜43)など。厳格にルールを定めた制作と地続きに、禁欲的な生活を送っていたというモンドリアンだが、ダンスや音楽を好む一面もあった。44年没。