中尾拓哉 新人月評第4回 RGBCMYXYZ 細倉真弓「CYALIUM」展
色は分解される。例えば、色光(=RGB)、あるいは色料(=CMYK)というように。展示空間で目に飛び込んでくるのは、C/M/Yの蛍光灯である。これらの3つの照明が、色料を色光へと変換し、等価に示そうとする表れにも見える。その光は三次元空間(=XYZ)へと干渉し、展示されたすべての写真に映り込んでいる。こうして本展のタイトルがケミカルライトの「CYALUME」に元素の語尾「IUM」をつけ「CYALIUM(サイリウム)」とされている結びつきがみえてくる。モノクロ写真から感じる光の空間としてのXYZは、分解されうるものとして結合し性質をたもつ元素が、新たに発見されたように、色へと還元され印画紙に定着している。
しかし、ここで問題となるのは、その「定着」に他ならない。写真家が暗室作業において、一つのイメージを焼き付けるために、光と色を幾度も調整する。そうして完成へと向かうテストを繰り返し、取捨択一していくあいだに、ある誘惑にかられる。それは切り捨てられつつある、同じ瞬間の別の瞬間(テストプリント)を俯瞰し、そこに残された無数のすき間を埋めようとすることである。その眼差しは、すべての瞬間にあったはずの選択の余地を完全に飽和させる、あるいはそれを大きく上回る可能性そのものとして現れる。
一つのイメージが、あるプロセスをたどり完成へと至る。しかし、そうでなくともよかったのだとしたら。カメラはレンズの向けられていない瞬間を写さず、現像された写真は映されなかった被写体を現すことはない。そうやって一つひとつのフレームのなかで写真が決定されているのであれば、未決定なままにとどまっているのは記憶だけ、ということになる。そして記憶には、変化する可能性が残されている。閉ざされた瞬間がもう一度開くことはなくとも、そこで切り取られた世界がもう一度開かれるとき、光=色ではなく、記憶が分解される。
一つのアングルで撮られていたわけではないヌードがR/Cという補色の関係で並置される一方、人物の表情の移り変わりがR/R/Rと同色で連続する。それらはまた、一つのアングルでありながら、わずかに光が調整された人物のC/Cや、色が調整された岩のG/R、落ち葉のR/Bと結びつき、並行していた可能性へと引き寄せられる。そして女性の上半身と男性の下半身のK/Y、さらに滝と人物の上半身のC/G、植物と人物の下半身のM/Kも同調し、分かれた時空間のある値として、むしろそこから消え去った時空間と組み合わさり変調する。バリエーションとしてではなく、現れている/いない瞬間が、RGBCMYXYZへと分解され、再び出会うことのできる多様体として座標系に置かれているようである。
このようなすべての写真に課せられたプロセスを内包したことで単色となった写真が、分解されうるものとも、不可視のものともなり、再結合される位置で「定着」している。しかし、そこにおいてなお、ストレート写真にCyanが多く含まれているようなあり方──CYALIUM──で、細倉真弓の写真に光と色、そしてネオンが、もう一度なじんで、映り込んでいるようにも見えるのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。第15回『美術手帖』芸術評論募集にて「造形、その消失においてーマルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で佳作入選。
(『美術手帖』2016年7月号「REVIEWS 10」より)