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「展覧会」のなかで「個展」と「グループ展」は共在可能か。長谷川新が見た「自営と共在」展

2017年12月に開催された「自営と共在」は、亜鶴(あず)、市川太郎、鈴木操、角田啓、手塚太加丸による展覧会で、同メンバーでは2度目のグループ展となる。それぞれが独自の表現を見せながらも、それらに共有されるイメージのあり方を探る本展に、長谷川新が迫る。

文=長谷川新

手前4点は、鈴木操《無題(Non-homogeneous arrangement)》(2017)。右奥は角田啓《視線と風景》(2017)、左は角田啓《水平線の展開II》(2017)

長谷川新 年間月評第11回 「自営と共在」展 展覧会、隣は何をする人ぞ

 まず、本展におけるキュレーター・齋藤恵汰の位置づけについて私見を述べておこう。韓国のインターネットサービス会社が運営するポータルサイト「NAVER」は、もともと「ナビゲート(navigate)」が語源であったそうだが、あえて「ネイバー(neighbor)」と発音することで、「航海する・舵をとる」という意味と「隣人」という意味を重ねている。NAVERが昨今急成長を遂げた、いわゆる「キュレーション・サービス」の代表格であることは論を俟たないが、彼らが自分たちのつくったシステムにこうした意味を込めているのは示唆的である。つまるところ齋藤の指す「キュレーション」とは、「ナビゲーター」であることと「隣人」であることの概念が「共在」するような思想であるのかもしれない。聖別されたパンが、パンであると同時にキリストの身体でもあるとする「共在」概念は、物理的にも形而上学的にもきわめて困難な在りようであるのだが、マルティン・ルターのこの説が宗教改革に際してカトリック勢力(パンはキリストの身体である=化体説)とその反対勢力(パンはパンである=象徴説)を調停するような、いわば政治的「折衷案」であったことは思い起こされてよい。齋藤はあるときは周囲の人間たちの「ナビゲーター」として、またあるときは「隣人」として振る舞うことで、ひとまずこの不可能性を留保し、「自営」しているのである。

2点とも亜鶴の作品。左は《Void》(2017)、右は《Your mom was saying that she liked a flower》(2017)

 本展において、齋藤とは異なるかたちで、むしろより典型的に「自営と共在」を体現しているのは手塚太加丸である。会場であるBARRAK1は、手塚を中心とする作家たちが運営するスペースであり、その運営実践それ自体が手塚の作家活動や思想と不可分である。沖縄のやんばる地域で伐採した植物を会場内に持ち込んだ彼の作品は、近代的制度にのっとった空間を運営しながらも、同時にそうした制度や思想に依拠しない姿勢の表れであろう。手塚においては、もはや共在の矛盾を引き受けていくことそれ自体が自営の理由にさえなっている。少なくとも彼の作品は制度批判と安易な自然主義、そのどちらから読み解かれるものでもない。

手塚太加丸 建物~上下する柱 2017 木

 以上を踏まえると、本展は「展覧会」において「個展」と「グループ展」は共在可能かという問いへのおのおのの応答であるだろう。衣類を圧縮袋に詰め、それを輸送するための段ボールをそのまま什器とした鈴木操の彫刻は出色であったし(ワリード・ベシュティやマティアス・ファルドバッケンの実践と比較して考えたいが本稿では断念する)、積層を旨とする通常の絵画に対して、入れ墨という皮膚の内層へとインクを「注入」することで画面を成立させていく実践を貫入させた亜鶴(あず)(本展において特筆すべきは彼が企画した「タトゥー裁判」をめぐるシンポジウムである)、階段部分に架空の窓枠などを実装した角田啓、展示内イベントとして演劇を導入した市川太郎など、それぞれの「個展/グループ展」が展開されている。それがたんなる「近所づきあい」ではないことに関して、筆者は疑いを抱かない。問題は、隣人と他者の峻別におけるメカニズムとその責任の分散である。その点においては、展覧会が終わる都度チームは解散するのだと述べた齋藤は正しい。

市川太郎 思い出したくもない思い出ども 2017 コピー用紙にインクジェット、テグス、ダブルクリップ

 (『美術手帖』2018年2月号「REVIEWS 09」より)

編集部

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